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第十三局 老いも若きも

昨日は更新できず申し訳ございません。明日は二話投稿する予定ですので、お待ちください。

また、これから数話は実在の大会を舞台にしていますが、物語の都合上、実際とは異なる部分があります。ご承知おきください。

 ふう、すっきりした!緊張で腹を下してから、丈に介抱されつつ二十分。なんとか腹痛は治り、変な高揚感と悪寒は引き、気持ちも冷静になってきた。


 「じゃ、頑張れよ」

 「うん、丈ちゃんもね」


「すぅうううう・・・・・・」

 悠は深呼吸をし、会場に踏み出す。最初の対戦相手は「風間龍太郎」という人だった。レーティングは1800。勝つか負けるか五分五分だ。


 自分のテーブルを見つけると、どうやら風間龍太郎は先に着席していたみたいだ。近づくと、悠は驚きで目を見開く。彼は齢八十は超えているだろうか。もしかしたら九十代かもしれない。チェスを嗜む人は世代に関わらず多いが、ここまで高齢の人はこの大会でもそういないだろう。


 彼は猫背で、シミも多かったが、目は澄んでいて、表情は穏やかだった。不思議な魅力を持つ老人のように思えた。


 試合開始の合図がなる。悠は立ち上がって、風間翁と握手を交わす。しわがれた手から、悠の手に、温かさが伝わってくる。


 「よろしくお願いします」

 「こちらこそ」

 風間翁は微笑む。悠の固くなっていた表情筋も、自然とゆるむ。


 悠は白、先攻になった。序盤の手を、進めていく。風間翁が駒を進めると、彼のシミだらけで、でもよく使われた労働者の手が目に入る。初めて会った風間翁に、敬愛の気持ちを抱く。


 彼のチェスは見た目と同様に、堅実で、それでいて柔らかなチェスだった。穏やかに動かされる駒の音と、チェスクロックの音が心地いい。でも、全ての手には上っ面からは想像もできない毒気を孕んでいることに気がついた。一つ一つの手が、悠を試すような、そんなチェスだった。


 「若造よ、お前はこの手の意図がわかるか」そう、鋭く研ぎ澄まされた手は、悠に語りかけてきた。穏やかな表情の老人には似合わない、鋭い眼光をしていた。


 動揺しそうになる自分の気持ちを抑え、一つずつよく考えながら駒を進めていく。そうすると、少しずつ彼の結界を突破する方法が見えてきた。


 相手が試してくるなら、自分も試せばいい。悠はビショップを動かす。一見ただ駒だが、そこには何手にも読み込まれた巧妙な罠がある。駒を取らずに、少し深読みをしてくれればいい。これは、どちらがより先を読めるかの勝負だ。


 しかし、風間翁はわずかに口角を上げた。悠のビショップを取った。引っ掛からなかった!しかし想定内だ。ここから指していくとしたら、b4!


 そこから何手が経っただろう。悠と風間翁は、熾烈な読み合いを繰り広げ、ある時は勝ち、ある時は負けた。そうして、両方がボロボロになったとき。お互い手駒は残り少ない。ポーンは一つずつあるが、それ以外のコマはナイトとルークだ。


 ナイトとルークとでは、ルークの方が価値が高いと言われている。悠が持っているのはナイトだけだ。あちらはルーク。このままいけば負けてしまう可能性が高いが、悠のポーンも風間翁のポーンも、昇格寸前まで来ている。つまりこの勝負、ポーンを早く昇格させた方が勝つ!


 

 難しい状況だな。風間龍之介は思案に暮れる。向き合って座っているこの少年は、相当頭が切れるらしい。とはいえ、龍之介も伊達に十年チェスをやっていない。龍之介がチェスを始めたのは、十年前、七十六の頃だった。


 龍之介がまだ二十代の頃、龍之介には美しい妻がいた。お見合いがきっかけだったが、心底惚れ込んでいた。結婚した時には、絶対に幸せにする、と誓った頃だった。


 日本は高度経済成長期の真っ只中、働けば働くほど、金が入ってきた。会社で馬車馬のように働き、金を稼ぎ、妻にいい生活をさせるのが、正しい道だと信じてやまなかった。たとえ、家に何日も帰らなかったとしても。


 妻は何も言わなかった。あの頃の、型通りの貞淑な妻だった。


 家族を顧みなかった龍之介に天罰が下ったのはそれから何十年も後のことだった。子供はいなかったが、定年退職し、やっと妻と二人で落ち着いた生活ができると思っていた。


 しかし、そんなものは幻想だった。妻は少しずつ物忘れがひどくなり、水道や火をつけっぱなしにしてしまうことが増えた。「病院に行こう」と言っても、ガンとして聞き入れず、「ちょっとうっかりしてただけよ」と言われた。


 何もいえなかった。心のどこかで龍之介も、認めたくなかったのだろう。少しずつ、少しずつ、妻の記憶の中から龍之介がぼやけて、曖昧になって、輪郭すらも朧げになり始めていることを。妻は趣味のチェスもやらなくなって、毎日目が虚だった。


 今考えれば当たり前だ。馬車馬のように働いたおかげで、管理職になり、部長職まで勤めたが、妻とゆっくり旅行に行きだしたのなんて、数年前からだ。何十年もほったらかしにし続けた人間なんて、忘れられて当然なのだ。


 妻が病院にいくと決心したのは、数ヶ月後のことだった。龍之介が所用で家を留守にしていた時に、妻はなんとか料理をしようとして、火をつけっぱなしにしていたのだ。家が火事になりかけたことで、妻も現実を受け止める決意を固めたようだった。


 診断はすぐに下った。アルツハイマーだった。薬のおかげで少しずつ容体は落ち着き、ほっとしていたが、それも長くは続かなかった。


 妻はある日、龍之介が起きる前に家を抜け出し、車に撥ねられた。龍之介が目を覚したのは警察が家に来てからだった。もう冷たくなった妻の骸を抱きしめ、ただ泣くことしかできなかった。


 どうしてもっと大切にしなかったのだろう。金なんて稼ぐ方法はいくらでもあったのに。後悔はもう遅かった。世界で一番愛していた人は、もういないのだ。


 それからというもの、廃人になりかけていた龍之介に一人の客人が訪れた。妻と龍之介の共通の友人で、近所のチェス同好会の主催をしていた人物だった。


 「風間さん、チェスをやりませんか」

 「いやいや、私にはもう無理ですよ」

 「奥さん、何度も私に風間さんの話をしていましたよ。あの人は、最高の夫だったって」


 途端に龍之介の記憶が鮮やかに蘇る。

 ある日の昼下がり、妻はゆり椅子に座りながら、窓際で一人、チェスをしていた。コトッ、コトッと小気味良い音が聞こえてきた。


 「あなたもチェスをやりませんか」 

 「いいよ、ルールもわからないし」

 「すっごく面白いんですよ。沢山の駒が紡いでいった世界は、本当に、美しいんです」


 あの妻の横顔は、涙が出てくるほどに美しかった。自分は、あの人に相応しい、夫になれなかった。でも、あの人が見ていた世界を、自分で、この目で見てみたいと思った。


 「わかりました、ルールを教えてもらえますか」

 客人は軽く微笑んだ。



 いかんいかん、試合中に何を思い出していたんだ。でも、何が龍之介に過去を思い出させていたのだろう。すぐに見当がついた。この少年のチェスは、妻のチェスによく似ている。生前はチェスになんの興味も湧かなかったが、友人から妻が残した棋譜を見て、妻がどれだけ美しいチェスをさしていたのかわかった。


 この少年も、妻も、一見暗く、重々しく、鋭利な刃物のような、それでいて、切ないほど美しいチェスをする。彼らの煌めく刃物は、一体何を映しているのだろうか。


 お互い持ち駒が少なくなってきた。少々まずい状況だが、こちらにはルークがある。正しく指していけば、必ず勝てる。


 その時、少年の瞳がきらりと光った。ナイトを動かし、龍之介にナイトとルークの交換を迫った。等価交換ではなく、少年にしか利のない手だ。少年の若々しく、シミひとつない手がゆっくりとナイトから離れる。


 ああ、この子は才能があるんだな。老人は、若人にも、潔く負けを認めなければなるまい。


 少年のポーンが自陣の一番奥に到達し、クイーンに昇格した。


 少年よ、強くなりなさい。ポーンから始まっても、一歩一歩進んで、ナイトもルークも、この老人も飛び越えて、クイーンになりなさい。私の体が朽ちても、君は進んで、強くなるだろう。


 龍之介は、自分のキングをコトッ、と倒す。少年の目には、わずかに喜びと、老人を負かしたことが後ろめたいのか、哀愁があった。気にせんでいいのに。


 龍之介と少年は、握手を交わす。彼の手は、すべすべして小さい。


 「君、私と戦ってくれてありがとう。すごくいい試合ができた」

 「ありがとうございます」


 少年ははにかみながら答える。この子みたいな孫がいればよかったと、龍之介は微笑みながら思った。

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