第一局 悠、将棋をやめる
なんでだ、なんで攻められないんだ!全ての道を塞がれた!僕はこの対局で勝たなきゃいけないのに!そうすれば、父さんだって!ああ、頭がクラクラする。
早く、早く次の一手を指さないと!耐え難い吐き気と頭痛に苛まれた悠の体は、主の言うことを聞かなかった。その間にも、刻一刻と持ち時間がゼロに近づいていく。
無数の駒がぐわんぐわんと揺れ動き、盤の格子状の線がぐにゃりと歪んだ。キーンと耳の中で音が鳴った。悠の体はゆっくりと右に倒れていく。光を失った悠の瞳に最後に飛び込んできたのは、今日の対戦相手、雨宮秀悟の顔だった。
悠がずっと戦いたいと願っていた少年は、倒れていく悠を一瞥もせず、ただ将棋盤を見つめていた。
秀悟くん、すごいなあ。ずっと一手一手に隙がなくて、びっくりするほど美しい将棋を指すんだから。素直な憧れの気持ちが溢れた。
もう勝てないんだろうな。そう悟った悠は、目の前の現実をゆっくりと、甘んじて受け入れた。
「父さん、ごめんなさい。負けちゃった」
その次の瞬間、苦痛と吐き気は一瞬にしてなくなり、悠は気を失った。
3月21日、小学校最後の大会は、決勝戦で棄権し、敗北。悠の将棋人生にピリオドが打たれた瞬間だった。
「悠、悠!気が付いたか!」
「ん、うーん」
目を開けると、幼馴染で相棒の、吉野丈がいた。
「ここは?」
「医務室だ。お前、試合中に倒れて、棄権になったんだよ」
「そっか」
「最後の大会なのに、運が悪かったな。まあ、中学生になったらもっとたくさん大会に出れるさ」
「そんなんじゃダメなんだ!ここで勝てなきゃ、父さんが!」
父の顔が脳裏によぎる。しかしその目は、悠を見ていなかった。プロ棋士の父は、悠の顔をちゃんと見てくれたことも、笑って、褒めてくれたこともない。
「僕は!僕は!この十二年間ずっと、父さんに見て欲しくて、認めて欲しくて、愛して欲しくて将棋をやってきたんだ!でも、一度だって優勝できなかった!父さんが僕を見てくれたことは一度だってなかった!でも、父さんが優勝したこの大会で優勝すれば、きっと••••••!」
「バカなこと言ってんじゃねえ!」
頬に痛みが走った。悠の涙でぼやけた瞳にも、彼が自分を引っ叩いた姿が映った。
「悠、いい加減目を覚ませ!親父さんはもう死んだんだ!もうお前を見ることは絶対にない!」
その瞬間、脳が必死に忘れようとしてきた映像が、フラッシュバックしてきた。鳴り止まないサイレン、大きく凹んだ車。そうだ、父は死んだのだ。悠が優勝する前に。今までずっと覚えていないふりをしてきた。父に見てもらうという夢を、叶える前に、父はこの世からいなくなってしまった。
「悠、親父さんは戻ってはこない。俺は父親を亡くしたことはないけど、それがお前にとってどれだけ悲しいことかというのは、なんとなくわかる。でもな、ちょっと聞いてくれないか」
こくり、と悠は頷く。
「今悠にこれをいうのは、あまりに残酷だと思う。でも、誰かが言わなきゃいけない。だから、誰か悠のことを何も分かってない奴に言われるくらいなら、その前に俺が言う。お前が誰かのために将棋をやっているなら、今すぐ辞めろ。もし悠が今後も将棋を続けたとしても、自分がやりたいと思ってやっている奴に勝てる未来は今後お前には訪れない。それこそ、雨宮秀悟みたいな天才を前にしたら」
「将棋を、やめる••••••?」
「将棋をやってるお前がずっと苦しそうにしているのを見てきた。もう、俺は苦しそうな、笑ってない悠は見たくないんだよ。もちろん、お前の人生が将棋ありきで成り立ってたのは、よく見ている。急に将棋をやめるのは、お前には抵抗があるだろう。でも、これからは、自分がやりたいことを、自分のためにやっていいんだ」
「自分がやりたいことを、自分のために」
悠が、か細い声でつぶやく。
「親父さんがお前を愛していたかは今となってはわからない。でも、少なくとも俺は、悠に幸せになって欲しいと思ってる。お前は、永澤悠は何をやりたい?どうやって生きていきたい?」
「僕は、僕は」
言葉に詰まった悠を、丈は急かすことなく待ってくれた。
「僕は、チェスがやりたい」
丈がびっくりしたような顔をした。
「そりゃ、俺はチェスやってるから嬉しいけど、将棋と似てないか?」
「確かに、将棋に似てるけど、僕は、ずっとチェスがやりたかった。小さい頃、丈ちゃんとちょっとやったとき、すごく楽しかったから。やってみたかったけど、父さんチェス嫌いだったし。」
父は将棋より駒数が少なくルールが単純なチェスをよくバカにしていた。でも、悠はチェスの駒の美しい曲線と、盤が好きだった。
「そうか、じゃあ今日からチェスの特訓だな!」
「うん!」
悠は心から笑った。
それから何時間が経ったのだろう。悠は穏やかな眠りから目覚めた。
「あら、起きたの?悠」
「母さん!」
「丈くんが帰ったから、悠また寝ちゃってたのよ。叩き起こそうか迷ったけど、運営の人が、寝かしてあげてくださいって言ってくれたの」
「どれくらい寝てた?」
「二、三時間くらいね。さ、医務室にずっと居座るわけにはいかなし、早く出る準備しちゃいなさい」
「うん」
母は、大会のことについて、何も言わなかった。そういう人なのだ。悠が父の死を受け入れられず、まるで父が生きているかのように振る舞っていた時も。だからこそ、悠は母を敬愛している。
エレベーターを降りると、一組の親子がいた。子供は笑顔で、「小学校低学年の部 優勝」の賞状を父母に見せていた。
「よくやったな!すごいすごい」
「ほんとよー。お母さんびっくりしちゃった」
子供が笑顔で笑っている。父親も、笑っている。
穏やかに、期待に満ちていた悠の瞳は、かつて自分が狂おしいほど憧れた、愛して愛されている家族を映した。なぜ父は、ああいう風に自分を愛してくれなかったのか。切なさよりも、怒りに似た感情が込み上げてくる。悠が実現したかった「普通の家族」。今まで何度も目にしては目で追ってきた憧れは、悠の心を蝕んでいった。そして今日、壊れてしまった。
愛と憎しみは紙一重。悠の心の中の父親は、崇敬し、憧れてやまない姿から、憎しみを向ける対象へと、一瞬にして変化してしまった。
許せない、許せない、許せない!なんとしてでもあの男に復讐してやる!
「悠、どうしたの?」
「なんでもない。父さん、死んだんだね」
母の瞳孔がわずかに開いた。やっとわかったのか、とでも言いたげな目の奥底には、悲しみと哀れみがあった。
「入学式の日、お墓参り行ってくる。一人で行くから気にしないで」
「そう、お供え用意しとくから、制服姿見せてあげなさい」
中学生になれば、もっと道が開けるのだろうか。丈ちゃん以外にも、友人ができるかもしれない。きっとすごく幸せだろうな。悠は苦笑する。
悠の記憶に、あの男からの愛はない。あるのは悠からの愛憎の感情だけだ。
また、父がチェスを嫌っていたことを思い出した。
チェスを始めよう。まずルールを覚える。負けてばかりになるかもしれない。でも、なんとしても這い上がって、最強になって見せる。そして、地獄にいるあの男に、「あんたの息子は、あんたが嫌いでたまらない、チェスの王者だ」と言ってやりたい。それが、悠ができる最後の復讐で、ラブレターだ。




