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定説  作者: ハクノチチ
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妹の爪


 たとえるなら巨大なミラーボールであるらしいそのきらびやかな彗星は見事な球体で、月のおよそ1/200ほどの表面積だが、表面を覆おう銀色の「鏡」がたとえば重量などの計測を邪魔して不明だという。また、これまでの彗星とは違い、氷塵の代わりに砕けた鏡やスパンコールの破片のような光の反射物を連ね、天の川のジオラマのような長い尾を引きずり徐々に近づいている。どこに? もちろん私たちの頭の上に。

 

 空にラッパの音でも響いたら黙示録に違いない、と思うところだが、未だ金管楽器のA♭は聞こえてこない・・・・・・そこでパーティー前夜たる世界はこう解釈した。


 「鏡の中に消えた家族や恋人が戻って来るに違いないぞ!!」



 妹の足の爪が鏡かスパンコールのような銀色となり反射したとき彼女はまだ十歳だった。

 ランドセルを背負い黄色いスクール帽を被っていた妹はある朝、それは夏休み期間中だったのだが「これなに?」と隣で寝ていた私を揺すって起こした。寝ぼけていた私は初め母親のマニキュアをいたずらで塗ったのかと思った。でもそうではなかった。

 朝の早い父親はとっくに会社へ出かけていたが、昼過ぎから働くパートの母親は登校時間に合わせて子供を起こし朝ごはんを食べさせなくてはならない、そんな忙しさから解放された隙間時間を謳歌していて、朝ドラを見ながら内容と役者の演技を愚痴っていた・・・・・・今思えば私たち家族が送った、無条件に幸せな最後の朝だった。


 夏休みが終わるころまでに、妹はキラキラ派手な覆面を被りスパンコールのコスチュームを着るルチャ・ドールと化し、望みがあるとすれば鏡の世界に行くしかなくなっていた。


 鏡化した人間は鏡の中の世界で、差別と争いの絶えない残酷なこの世界よりもよほど幸せな人生を送れる・・・・・・当時は、そしてそれは今日もだが、我々の世界における定説である。とはいえ、当事者も周りの人間もたまったもんじゃない。でも結局は「定説」に頼ることでしか受け入れる術はなかった。

ところで、妹の身体の鏡化が進行するにつれ、内面は急激に大人びていき(それは本人も謎だったらしい)冷静な諦めと打開的な悟りを拮抗させ、狼狽えることなく近々を見据えていた。二つ違いの私は成長期をすっかり追い越された気がしてならなかった。妹はまるで自分自身を確実に持っている二十代の女性だったのをよく覚えている。


 私が「メキシコの覆面レスラーみたいだね」と冗談を言うと、身体の小さな年の離れるお姉さんのような妹は自身の顔を摩って・・・・・・そして初めて声を上げて泣いた。

 以来私は一度も・・・・・・たぶん一度も誰に対してだって冗談を口にしなくなった。


 派手な幼い手の指が、いよいよ母親の手鏡の中にす~とめり込むと、私たちは父方の祖母の形見である桜材の姿見を、憤りを持ち、しかし「この世界」の誰よりも裕福で、かつ人間関係における宿命的な裏もなく、表面上だけでもない幸福が、いわば最低限の日常になる妹の人生を願い、そして信じて、文字通り涙が枯れるまで泣きながら磨いたものだ。


「私は平気。怖くなんかないよ。向こうではお歌を上手く歌えるかもしれないし」風呂場の歌姫は正直かなり音痴だったが誰よりも逞しかった。勇敢だった、と言っていいかもしれない。

「お兄ちゃん、これは空中殺法で夢を与えるプロレスラーのコスチュームじゃなくて、歌姫の高価なドレスなのよ」と姿見の前でくるっと一回転した。

「いつか戻ってこれる気がするから待っていてね」妹は最後に頷いた。 

誰が言い出したわけでもなく、当人たちはこぞってそう感じていたみたいで、万国共通した別れの言葉だった。


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