ネコえもん
ビビ太はその日、いつものように大学の授業を終えて帰宅し、ぼんやりと古いアニメのDVDを流していた。
なんとなく部屋の照明を落とし気味にして、外の夜風が入ってくる窓を開けっぱなしにしていた。
風鈴の音がかすかに響き、ほんの少しだけ涼しさを運んでくれる。
年齢=彼女いない歴の自分には、これといった趣味もなければ特技もない。
だからこそただ静かに過ぎていく一人の時間が、何よりも当たり前の日常だった。
ところが、そんな日常が一瞬で崩れる出来事が起きた。
突如、窓からひょいと入ってきたのは、猫耳のついた不思議な帽子をかぶった美しい女性だった。
長い髪をポニーテールにまとめ、キリッとした瞳を持つ彼女は、まるで海外のファッション雑誌のモデルのように堂々としている。
だが、その格好以上にビビ太が驚いたのは、彼女がいきなり宣言した言葉だった。
「やあ、ビビ太くん。私、ネコえもん。未来の世界から君の歴史を変えに来たんだよ。」
あまりに堂々とした口調だったので、一瞬悪ふざけか何かかと思った。
しかし彼女は本気らしい。
「き、君、誰?」とビビ太が声を震わせて問うと、彼女はピシッと姿勢を正して得意げに胸を張った。
「だからネコえもん。猫型ロボットだよ。ほら、このポケットからいろいろ出せるんだ。」
そう言うと、彼女の胸元についた小さなポケットから、なぜかチョコレートバーを取り出して見せた。
「それから、私は海外路線の客室乗務員をしていてね。英語も中国語もスペイン語もバッチリ話せる。なんなら君に教えてあげてもいいけど?」
まさに謎だらけだが、あまりの美貌と物腰の柔らかさに、ビビ太はツッコミさえもうまく入れられない。
とはいえ、突然やってきた正体不明の美人に、ビビ太が恐怖を感じないわけがない。
「い、今の話、本気なの?」とおそるおそる尋ねると、彼女は軽やかに微笑んだ。
「もちろん。これから君をモテモテにしてあげる。君の未来をちょっと明るい方向にねじ曲げるのさ。」
その言葉に込められた意図はさっぱり分からない。
だが、年齢=彼女いない歴のビビ太にとって、可愛い女の子が自分に興味を持ってくれるなど、ありえない話でもある。
そして彼女の笑みがあまりにも魅力的だったせいか、ビビ太は気づいたら「い、いいよ。しばらくここにいても……」と、肯定らしき返事をしていた。
翌朝、ビビ太が目を覚ますと、キッチンで朝食の支度をするネコえもんの姿があった。
彼女はエプロン姿のまま、ジャムの瓶を片手にくるりと振り向く。
「おはよう、ビビ太くん。昨晩はよく眠れたかい? 朝ごはんはトーストとサラダだけどいいかな?」
いつの間にそんな関係になったのか自分でも理解できないが、確かに今この部屋には、見知らぬ美人が自然に存在している。
「お、おはようございます……」と返事をするので精一杯のビビ太を見て、ネコえもんはあきれたように言う。
「ダメだなあ、ビビ太くんは。もうちょっとリラックスしたらいいのに。」
ネコえもんは仕事のある日は空港に向かい、海外路線のフライトをこなしに出ていく。
帰国すると、当然のようにビビ太の部屋に戻ってくる。
スーツケースを引いて玄関のドアを開けながら「ただいまー。はい、これおみやげのマカダミアチョコレート。」と笑顔を見せる。
「お、お疲れさまです」とビビ太が奥から出迎えると、彼女はすたすたと部屋に入り、「疲れたー」とベッドにうずくまるのだった。
そんな姿が何日も続けば、もう自然と彼女の存在が部屋の一部になっていく。
ある夕方、ネコえもんはビビ太の部屋の小さな引き出しを開けながら、ぽろっと漏らした。
「君、こんなにも素直なのに、どうして友達も少ないんだろうね。」
ビビ太は答えに困った。
「いや、……別にわざと避けてるわけじゃないんだけどね。なんか友達ってどう作ればいいか分からないし、恋人もできたことないし……」
そんな答えにネコえもんは小さくうなずき、「ふーん」とつぶやく。
「じゃあ、これからは私が友達でもあり、ちょっと恋人っぽいふりもしてあげようか。だって私、君の未来を変えるために来ているからね。」
その提案が冗談なのか本気なのかはわからない。
しかしビビ太はその言葉を聞いたとき、いつもより少しだけ心が軽くなったような気がした。
同棲と呼べるほどの生活が続くうちに、二人はまるで長年連れ添ったカップルのような空気になっていた。
ネコえもんはフライトでしばらく部屋を空けても、帰ってきたら家事を手伝い、時々はポケットから謎のおもちゃや道具を取り出して楽しませてくれる。
「これ、未来の世界で開発された翻訳イヤホン。英語と中国語とスペイン語ぐらいしか訳せないけどね。」
そう言ってビビ太の耳にあてがい、冗談めかして「さ、もうちょっと勉強したら君だって国際人だよ」とからかう。
ビビ太は彼女が取り出す物を半信半疑で使ってみるが、なぜか本当に異国語が自然に聞こえてきて驚きを隠せない。
そんな彼女がある夜、「ねえ、ビビ太くん。私、近々未来に帰らなきゃならないかもしれない」と切り出してきた。
ビビ太はぎょっとして思わず声を荒げる。
「え、なんで? どうしていきなり?」
ネコえもんはすまなそうに笑ってから、少し静かな声で言った。
「私がここに来た理由は、君の歴史を変えるという使命があったから。たぶん、その役目はもうすぐ終わるんだよ。だから、一旦戻らないといけない。」
まるで淡々とした言い回しだが、どこか後ろめたい様子も感じられた。
ビビ太は胸が締めつけられたような苦しさを覚え、「そんなの嫌だよ。まだ一緒にいてよ」と必死に訴える。
翌日、ネコえもんは再びフライトで外国へと出発した。
ビビ太は嫌な予感を振り払えずに、もやもやした気持ちで彼女を見送る。
「帰ってこいよ」と一言だけ伝え、ぎこちない笑顔を作った。
だがその夜、彼女からメッセージは来なかった。
いつもなら「今向かってるよー」「フライトが遅れちゃった」なんて連絡があるのに、それさえもない。
ビビ太はソファーに腰を下ろし、カレンダーを見つめながらそわそわと朝を迎える。
だが、数日たってもネコえもんの姿はなかった。
電話も通じず、SNSのアカウントはいつの間にか削除されていた。
ビビ太はいてもたってもいられなくなり、空港や彼女の勤務先を探ろうとしたが、どこにも手がかりはない。
まるで最初から存在していなかったかのように、ネコえもんという女性に関する記録がどこにも見当たらないのだ。
ビビ太は天井を見上げて呟いた。
「……帰っちゃったのかな。本当に未来へ……。」
あれだけ慌ただしかった部屋が、急に静まり返ってしまった。
彼女の持ち物があまり残っていないのも不思議だが、一つだけネコえもんの帽子らしきものが床の隅に落ちていた。
ビビ太はそれを拾い上げると、抑えきれない涙がこみ上げてくるのを感じる。
そして彼女が最後に言った言葉を思い出しながら、こぼれるように涙を流し始めた。
「嫌だよ……帰っちゃうなんて……」
ほんのわずかな期間だったのに、彼女がいるだけで部屋には笑い声があふれていた。
いなくなってしまった今、その静けさが余計につらい。
どうしようもなく寂しくて、ビビ太は声をあげて泣くしかなかった。
「さよなら、ネコえもん……。僕は変われたのかな……変わってないのかな……。」
何日か過ぎた頃の深夜、ビビ太がぼんやりと部屋で過ごしていると、不意に窓がカタッと開く音がした。
まさかと思って目をやると、そこにはネコえもんがいた。
「ただいま、ビビ太くん。ちょっとだけ時間ができたから、挨拶に来たんだ。」
その姿はいつもと変わらず美しく、そしてどこか切なげな笑みを浮かべていた。
ビビ太は思わず泣きそうになりながら、彼女に駆け寄る。
「もう行っちゃうのか……それでも……来てくれたんだね。」
ネコえもんは力強くうなずいて、ビビ太の手をそっと握った。
胸の中が熱くなり、どうにも押さえられない感情が込み上げてくる。
ネコえもんは優しく微笑み、ビビ太の手を少しだけ強く握り返す。
「大丈夫。君ならきっと、私がいなくても前に進める。だって、もう君は私が必要ないくらい強くなったからね。」
そう言うと、彼女は最後の別れのようにビビ太を抱きしめた。
朝焼けがうっすらと空を染め始める頃、ネコえもんはそっとビビ太の部屋を離れていった。
ドアが閉まる音が小さく響き、そのまま静かになった。
ビビ太はしばらく動けなかったが、彼女が握っていた手のぬくもりを感じて、もう一度小さく涙を流した。
「ネコえもん、きみが帰ったら部屋ががらんとしちゃったよ。でも……、すぐになれると思う。だから……、心配するなよ、ネコえもん。」
そんな涙の奥には、新しい一歩を踏み出す勇気の兆しも宿っているように思えた。