憧れ平民ライフ!
オリヴィア・アルライネンはもし物語の登場人物として当てはめるのであれば、きっとヒロインなどではなく悪役令嬢だっただろう。
そう、己で自覚している。
母親に似た美貌を持っているが、目だけは父親によく似ていた。
たれ目がちで優しげに見える母と違い、父はつり目で黙っているとそれだけで不機嫌だと思われがちだ。そんな父と目つきがそっくりであるオリヴィアもまた、黙っていると気が強そうで周囲を威圧しているように思われるらしく、お茶会などで出会った初対面かつ気の弱い令嬢からはよく恐れられていた。
打ち解けてしまえば逆にとても懐かれるのだけれど。
打ち解けてからは、最初のころに怖がっていた事を告白され謝罪され、その上でこれからも親しくしてくださいますか……? ともしダメなら諦めますとばかりに言われているので、オリヴィアは快く許している。
実際、鏡で自分の顔を見るたび思うのだ。
いかにも物語に出てきそうな悪役令嬢面だわね……と。
なので、気の弱い令嬢からすると、迫力がとんでもないのだろうな、とは悲しい事に理解できてしまった。
見た目で最初距離を取られがちではあるが、別にそれだけで悪い噂が流れたりはしていないのでオリヴィアもちょっと最初のうちに怖がられる程度、受け流す事にしている。
そんなオリヴィアには、気の弱い令嬢たちだけではなく、我の強いご令嬢も友人として存在している。
気弱な令嬢たちはいかにも庇護欲をそそられそうではあるが、そうではない令嬢たちはそうではない。
オリヴィア程悪役令嬢面ではないが、彼女たちもまたなろうと思えばきっと悪役令嬢サイドかもしれない。そんな風に思える者たちだ。
貴族の子女たちが通う学院では、家格や身分とはまた異なる派閥が存在している。
卒業し成人した後は各々様々なしがらみに囚われる事となるのだ。今のうちに、そういったものがないうちに友情を育め、とは貴族たちの中での建前である。
人脈作りに精を出すのもよし、派閥に関係なく交流を深め、それらが上手くいけば卒業後もそれなりにやっていけるだろう。
だが、同時に人脈を作りつつ、卒業後にそこで得た情報から政敵の弱みを握るという事もないわけではない。
ただ漠然と過ごすだけでは、卒業後どのような荒波にさらわれてしまう事か。
今はまだ未成年、こどもという枠組みにあるが、学院での過ごし方は成人になる前にいかにして社交界を渡り歩くかの武器を得る期間でもあった。
一見すれば優雅な世界ではあるけれど、しかしてその中身は動物たちと何ら変わりない。弱肉強食である。
オリヴィアたちとは別グループを形成しているマリシア・ティットラン侯爵令嬢とはよく成績を競い合う仲であり、そのせいだろうか、何故か仲がよろしくないと思われがちであった。
マリシアは悪役令嬢面をしているオリヴィアと異なり、庇護欲たっぷりなヒロインのような見た目とも異なるゴージャス系美女である。多分物語に登場するなら女神様ポジション。
オリヴィアと同じくらいキラキラした美貌の圧はあれど、オリヴィア程悪役っぽく見られないのだ。
オリヴィアは正直それをちょっと羨ましいと思っている。
「正直なんにも良い事なんてありませんわ」
「そう? わたくしみたいに何もしてないのに悪役扱いされるよりはマシではなくて?」
なので、お茶会の時にマリシアにそんな話をすればマリシアは即答で否定してきた。
「言っておきますけど、見た目がどうあれ悪役にしたい側からすれば難癖つけてこちらをどうとでもしてきますわ。わたくしは露骨な悪役扱いまでは言われていませんが、向こうはやれ高慢だこちらをことあるごとに見下しているだなどと言ってきますもの」
「マリーはそんな事しないのに? それは何というか……言いがかりにも程がありますわね」
「貴方はよく物語の悪役令嬢みたいだと言われるかもしれませんけれど、わたくしだって物語に出てくるヒロインを見下す高慢ちきな意地悪令嬢、みたいに言われましてよ」
そこまで言うとマリシアはカップを持ち上げ紅茶に口をつけた。
方向性は違えども、とりあえずお互いそっち系統なのだな、と嫌な再確認をしたところでオリヴィアもクッキーを一つ摘まむ。
別に、今まではそこまで気にしたことはなかったけれど。
最近ちょっとだけ気にするようになってしまったのには勿論理由がある。
リーナ・ボルカン。
少し前まで平民だったが男爵家に養子として迎えられた少女。
彼女の存在こそが、オリヴィアとマリシアを今更のようにわたくしたちって悪役の見た目すぎるのかしら……? と悩ませる元凶だった。
学院は主に貴族たちが通う学び舎であるけれど。しかし平民も少数ではあるが存在している。
貴族相手に商売をする家の者たちは、貴族との関わり方を学ぶために。
仕事としての関わりの他、低位貴族の令嬢や令息との結婚を控えている、なんて者も学院に通っている。貴族の家に嫁入り、もしくは婿入りするのであれば自分たちも相応の振る舞いを身につけなければならないので。
その他にも特待生として通う者たちも存在している。
特待生として通う者たちは将来各々の能力を活かせる職業に就くため、という理由が大半だ。城勤めとまでいかずとも優秀さを見込まれてどこぞの貴族の家で雇ってもらえるようになれば……という思いを持つ者も多い。
身も蓋もなく言ってしまえば、自分の優秀さを活かしてお金を一杯もらえる仕事して生活を楽にしたい。これに尽きる。平民の中での仕事もそれなりに稼げるものはあるけれど、貴族と関わる仕事と比べると得られる金銭は桁が違ってくる。
とはいっても、貴族相手に失礼な事をしでかせば身の破滅につながりかねないのもまた事実。
それ故に平民たちは貴族の恐ろしさを知っている。親から子に伝えられていくのだ。
なので学院に通う平民たちが貴族相手に失礼な事をする、という事はまず無い。学院の中の事はある程度大目に見られるものの、それでもやらかし度合いによっては家と一族郎党がある日忽然と消える事だって有り得るのだから。
それでも時々中には何かを勘違いした者が現れるのだけれど……
リーナ・ボルカンはその勘違いした側に入るだろう。
オリヴィアが調べた情報によれば、リーナは男爵家で働いていたメイドが産んだ子だ。
当時はまだ当主になっていない令息が手をつけ、メイドは子ができた事で令息の妻になるであろう女性から邪魔者と認識されれば最悪命が危ないと思って職を辞して屋敷を出た。
そうして別の町でリーナを生んで育ててきた。
リーナの父はその後結婚し妻を迎えたが、流行病に罹り数日間高熱で寝込んだ結果、どうやら子を作れない身体になってしまったらしく。
他の家から養子を迎える事も考えたらしいのだが、その途中でかつて手を出したメイドの事を思い出し、急に職を辞した事からもしかして……? と勘ぐって調べたら……という流れである。
結婚して三年ほど子ができる様子もなかったが、そこで病に罹り治った頃には子種を作る機能が失われたという事実……に気付くまで何気に数年かかったというのだからいろんな意味で手遅れである。
その頃には夫人に石女と遠回しにちくちく嫌味を言っていた事が原因で、男爵はリーナを迎えるより前に離縁されている。
更に調べた結果、リーナの母である女性は最初、リーナと共に屋敷に迎え入れられるはずだったが、そもそも男爵と恋仲になったわけでもなく身分的に逆らえずに無理矢理であったらしく。
リーナの事をどうやら貴族の家にやるつもりはなかったようだが、リーナ自身が貴族の家にいけば今よりいい暮らしができると思ったのか、男爵に唆されたかまではわからなかったが、ともあれリーナは男爵令嬢として存在している。
母親の行方は杳として知れないので、恐らくは男爵が余計な事をしでかさないようにと裏で手を回して処分した可能性がとても高い。というか処分したというところまではオリヴィアの調べでわかっている。
母親がどこに始末されたかまではわからなかったが。
生きていれば行方を知る事はできただろうけれど、死体がどのあたりで処理されたかまでは知りようがなかった。形を留めているのならまだしも、そうでなければただの肉片から個人を判別させるのは相当に難しいので。それ以前に肉片も獣の餌になっていれば残ってすらいないだろう。
母親の賢さはどうやらリーナには受け継がれなかったようだ。残念な事に。
リーナが男爵家に引き取られたのは今から四年前。
学院に入って現在二年目。
貴族としてのマナーを学ぶまでの時間が少ないのは仕方がないが、それでも学院に入る前に二年は時間があったのにも関わらず、リーナは未だに貴族令嬢と呼ぶにはお世辞でもマナーができているとは言い難かった。
拙い礼儀作法であろうとも、平民だって学院に入ってから必死に習うのでリーナの作法も多少の不作法は見逃されていた。それこそ、最初のうちは。
だがしかし、学院に入って二年経過して尚、彼女は変わらないままだ。
それどころかリーナは平民の時の事を持ち出してくる。
多少の不作法は見逃されるとはいえ、それでも高貴な身分の相手に突然声をかけたり近づいたりするのはよろしくない。それは平民でも理解しているはずなのに、しかしリーナは気安く声をかけるのだ。
それらを見咎められてそっと注意をされれば、
「でも友達になりたい相手に話しかけるのは、平民なら当然の事よ?」
しれっとそう返してくる。
そうやって気安く声をかけた結果、貞淑な令嬢たちとは異なる態度に物珍しさを感じたのか、距離の近さに下心でもあったのか、数名の令息たちがリーナに侍るようになってしまった。
令息たちの中には婚約者がいる者もいたため、リーナには再びそっと注意喚起がされたのだが、しかし彼女は友人として接しているだけ、平民ならこれくらい普通だ、と言い張るのである。
この距離の近さが男女両方に適用されているのであれば、周囲もまだこれはリーナという名前のそういう生き物として見ただろう。
けれど人様の婚約者に近づいて馴れ馴れしく接するような女と仲よくしようという令嬢はいなかったし、結果としてリーナは同性からは相手にされず孤立した。
それすら自分が平民だったから見下されていると言って令息たちの同情を引いていたのだ。意識的にか、無意識でやっているのかまではわからなかったが。
リーナという少女は、見た目だけは愛らしかった。
口を閉じて黙っていればそこはかとなく儚げな雰囲気で、しかし口を開けば活発な印象に変わる。そのギャップがまた、周囲の令嬢とは一線を画していて令息たちの興味を引いたのかもしれない。
しかし令嬢たちからすれば、おとなしそうなくせしてとんだアバズレですわ、という評価になる。
せめて近づいた令息が婚約者のいない、リーナと同じ家格の男爵家や騎士爵の出である者たちであれば令嬢たちもリーナと距離を置かなかったかもしれないが、リーナが声をかけ親しくなろうとした相手はいずれも高位貴族の家の出である者たちばかりだ。恐ろしい事にその中には王子もいる。
そして王子は困ったことにオリヴィアの婚約者だ。
マリシアの婚約者である宰相の息子もリーナの取り巻きの一人である。
リーナには貴族の常識をそっと教えたものの、彼女は一向に聞き入れてくれなかった。
婚約者にそれとなく節度を保てと釘を刺したが、平民から貴族になったばかりで大変な友人の手助けをしているだけで疚しい事は何もない、と返されてしまった。
オリヴィアやマリシア、それ以外の令息たちの婚約者でもある令嬢たちもそれぞれ独自のルートで調べた結果、腕を絡めたり抱き着くような事はあれど、まだ性的な行為はしていないというのは判明したもののそれでもアウトである。
各自で集めた証拠は纏めた結果、とても分厚い紙束になってしまった。重たいので多分これでぶん殴れば当たり所次第では人は死ぬ。
オリヴィアとマリシアが主体となって会話をしていたが、同じくリーナに侍っている令息たちの婚約者となっている令嬢たちもそれぞれ難しい顔をして今後の事をどうするか、そろそろ決めるべきだと覚悟を決めて二人の話に耳を傾けていた。
「……ところで皆さま、今も婚約者に未練がおありかしら?」
オリヴィアがそう問いかければ、皆が一斉に首を横に振った。それから「いいえ」と同じタイミングでハモる声。
誰か一人くらいは今はこんな状況だけど、それでもいつか彼の目は覚めてくれる……! なんて信じているかもしれないと思っていたのに、誰一人としてそんな事を言い出す令嬢はいなかった。
無理もない。
これが学院で学ぶようになって三か月かそこらならまだしも、既に二年が経過しているのだ。
来年には卒業を控えている。
最初のころと比べるとリーナと令息たちの距離はますます縮まっているので、来年になったら節度を保った付き合いになるか、とはとてもじゃないが思えない。それどころか来年にはいよいよ一線を越えていてもおかしくないと思っている。正直な話、とっくに性的な行為をあの中の誰か一人とくらいはやっていてもおかしくないぞと思っていたのでむしろまだ清いお付き合い――複数名の異性を侍らせる事を清いと言っていいのかは謎だが――であるという事実に驚愕を隠せなかった。
「そうよね、下手に未練を引きずったところで、時間の無駄でしかないもの」
マリシアが言う。
時間の無駄。確かにそうだ。
リーナの中ではきっとオリヴィアたちは自分を虐める悪い人達で、侍っている令息たちは王子を筆頭に自分を守ってくれる騎士とでも思っている可能性はとても高い。むしろそういう言動がちょこちょこあった。
こちらは貴族の常識をリーナが恥をかかない程度にそっと優しく教えているだけだというのに。
物語のヒロイン気取りだとしても、だとするとこのままいけば卒業式の日あたりにヒロインを虐めた罪で婚約破棄だ! なんて宣言が出てきそう。
リーナと出会う前の婚約者たちならそんな馬鹿な真似はしないと言えたが、リーナに侍っている今の彼らを見るとそんな事するはずありませんわ、なんてとてもじゃないが擁護できない。
もしそうなれば、普通に考えて断罪されるのはオリヴィアたちではなくあちらである。
向こうが有責の婚約破棄か、そもそも最初からそんな事実はなかったとされる解消かはこの際どうでもいい。問題は婚約破棄にしろ解消にしろ時期である。
卒業した後ともなれば、既に成人と見なされる。
その時点で新たな婚約者を見つけるとなると、かなり難しくなってくる。
卒業後、領地に戻り跡を継いで領主としての仕事をする、という令息たちはその時点で結婚相手がいるだろう。結婚相手もいない相手となれば、跡継ぎになれなかった者たちだが、そういった彼らは婿入り先を探すし、見つからなければ己の力で生計を立てるべく奮闘する。
卒業後も何も仕事が見つからない、なんて余程の無能でない限りはないので、その時点で無能ではない令息たちは進路がほぼ確定しているのだ。
そこで突然フリーになった令嬢がいたとして、急に進路を変更しろとなっても中々に難しいだろう。
跡継ぎだけど結婚相手が見つからない、という令息の場合はまだしも、就職先が決まってそちらで働く気満々なところに突然婿入りして下さる殿方募集中、といったところで何もかも捨てて婿入りしてくれる相手は、場合によっては信用できない事もある。
婿入りにしたって、家にやってきてただいればいいというわけではない。
嫁入り予定の令嬢に至っては新たな嫁ぎ先を見つけなければならないし、婿を取る家も相応の教育が求められる。
卒業時点で婚約が消える事になるのはどう考えても誰も幸せになれないのだ。
今ならまだ進路変更して婿入りしたいという令息が現れても、家で必要な教育を受けてもらう時間はある。
だが卒業後だとそれも難しくなってしまう。
どうせ女に狂うなら婚約をする前にそうなってくれていれば最初から婚約せずに済んだのに……と思ってもどうしようもない。彼らがリーナと出会うには、それこそ平民として暮らしていた頃のリーナが過ごしていた町にでも行かない限り学院に入る時でしかないのだ。
何もかもにおいてタイミングが悪かった。
「もしかしたら向こうはよくある娯楽小説のように、わたくしたちを悪役に仕立ててやれ真実の愛だなんだと美談に持ち込んでリーナさんと結ばれようと画策している可能性もありますが……これだけ証拠が集まっているのです。卒業まで待つ必要はありませんわね」
「そうね。それで、どうなさいます?」
「勿論今日、帰ってお父様に報告しますわ。皆さまもそのように」
オリヴィアの言葉に反対する者はなく、令嬢たちは皆一斉に頷いたのである。
――結論から言えば、オリヴィアやマリシア、それ以外の令嬢たちの婚約は無事に解消される形となった。
相手側有責の破棄で慰謝料をもらったとしても、下手な瑕疵がつくと面倒だと令嬢たちの意見が一致したからである。いや、リーナの周囲に侍っていた令息たちという事実は学院の生徒の誰もが知っている事なので今更瑕疵などつきようもないが、それでも学院外の年代の離れた相手が面白おかしく噂をこねくり回して令嬢たちにも落ち度が~なんてやらかさないとも限らない。
そうして令嬢の価値を意図的に落として足元を見た上で婚約をしてやってもいい、なんて言ってくるろくでもない者もいないとも限らないのだ。
政敵が足を引っ張るのに利用する場合も勿論有り得る。
そういった連中を相手にするのが面倒なので、それなら最初から婚約なんて事実はなかった、という事にしておいた方がいい。無かった事になってしまったものをそれでも話題にし続けるようであれば、現実と空想の区別もつかなくなってしまった、などと言われて立場的に追いやられてしまいかねない。
婚約破棄だと婚約そのものは事実として存在したことになるのでその場合は話題にされるだろうけれど、無かった事になった話題をあったとして話すのは非公式な場で気心の知れた相手とひっそり口にするだけならまだしも、社交の場で口に出すのは完全なマナー違反である。
最悪家の立場も潰れる事になりかねないので、今回の件に限らず、余程の事がない限りこの国では婚約破棄ではなく解消が選ばれている。
なので破棄された、という話が出たならばそれはもうとんでもない勢いで噂話として広まるのである。
破棄した側も破棄された側もかなりの期間、貴族たちの娯楽として話題にされる。非がなかった側ですらそうなるので大抵はやはり解消となるのだ。
慰謝料に関しては非公式での支払いになることもあれば、一切無い事もある。そこら辺は家次第といったところか。
婚約者がいなくなった事でオリヴィアやマリシアをはじめ、その他のリーナに侍っていた令息たちの婚約者であった令嬢たちもまた、新たな婚約者を探す事となった。
突然複数の令嬢たちがフリーになった事で、まだ将来が明確に決まっていない家を継ぐ立場になかった者や、派閥の兼ね合いでとりあえず婚約しただけの者たちも改めて白紙化し次の婚約者にと名乗りを上げる形となった。
なにせリーナに侍っていた令息たちはいずれも将来有望とされた高位貴族ばかりだ。当然そんな彼らの婚約者に、と決められた令嬢たちは多少の差こそあれど誰もが高嶺の花である。
その高嶺の花が新たに婚約者を探しているとなれば。
多くの令息たちにとって一大ビッグイベント、チャンスしかないこの流れ、当然乗るしかないだろう! となるわけで。
やっぱり早めに対処しておいてよかったですわね、これ卒業間近だったらこうはいきませんでしたわよ、とオリヴィアとマリシアはお互いに笑いあったのである。
――婚約破棄、ではなく解消された者たちはどうなったかと言うと。
簡単な話だ。
いずれも平民落ちした。
まず彼らの中心にいたリーナ・ボルカンは貴族の家に引き取られてからの二年で貴族令嬢としてのマナーを覚えることができず、なおかつ学院に通っている間にもことあるごとに平民なら~と貴族のマナーではなく平民としての常識を口にしていた。
この時点で自分は貴族令嬢としてやっていくつもりはないのだと、そのように思われたとして否定できない。
平民の時はこうだったけど貴族はこうなのですね、と違いに驚いている、とかであればいいが一向に貴族の常識を学ぶ気もなく注意されればでも平民は~と言い返すのだ。
貴族の家に引き取られた事すら不満であると思われても仕方がない。
そうして複数の家の婚約に亀裂どころか風穴ぶち開けた形になったボルカン男爵のところには、とんでもない損害賠償請求が来る形となったのだが。
これについてはリーナを平民に戻し今後ボルカン男爵家の干渉を一切行わない事で不問とする、とされた。
当然ボルカン男爵はその誘いに乗るしかなかった。
何故って一つ二つの家の慰謝料請求程度ならどうにかなったかもしれないが、王子の婚約者を筆頭にいずれも高位貴族の令嬢の家全てに、となればボルカン男爵が三度人生をやり直したところで到底支払える額ではないのだ。
それを、リーナを切り捨てるだけで済むのなら、と男爵はあっさりと娘を捨てた。
しかし男爵は気付いていない。
娘を切り捨てたところでこの家の未来がない事を。
跡取りに関しては養子を迎えるしかないのだが、リーナのせいでボルカン男爵家はすっかり悪名高くなってしまった。そんな家に養子に行きたいなんて言いだす将来有望な者はいないだろう。新たな妻を迎えたところで子は生まれず、また養子に来る者もいないとなれば、未来などあるはずもない。
メイドに手を出した挙句、恐らくその女性を殺してまで娘だけを奪い取り、結局その娘も捨てる結果となった。
メイドに手を出すにしてもせめてもう少し上手いやりようがあっただろうに、それすらできなかったのだ。
後継者もなく、また社交界でボルカン家が今後周囲の家々と縁付く事もない。
誠意も責任も何も持ちえない男の末路としては、当然の結果が待ち受けていた。
リーナに侍る形となっていた王子は、オリヴィアとの婚約が解消となった事でこれでリーナと堂々今まで以上に接することができる! と歓喜したものの、直後に王族からの籍を抜くと言われる結果となった。
ことあるごとに平民が~、平民は~と、平民ルールを振りかざしていたリーナだ。貴族ですらやる気がないと思われているのにそんな娘を王家に迎え入れるなどあるはずがない。そんな当然の事に気付きもしなかった時点で彼には王としての資質も器もないと知られる形となってしまった。
せめて王子が自分と結ばれるためには貴族の常識が必須である、としていれば違った未来もあったかもしれないが、リーナが平民気分のままでいる事を許してしまった。王子にその自覚がなかったとしても。
そして将来王子はリーナと共にあるのだ、と思われるような振る舞いを続けてきたのだ。学院でリーナと出会ってからの二年の間、ずっと。
学院では高位貴族たちの中でもとりわけ国の中枢に関わるだろう家の中から生徒会役員が選ばれ、生徒たちを纏め上げる事になるのだが、リーナと出会ってからの王子はその生徒会すらすっぽかしオリヴィアとマリシアに全て押し付けて何もしなかった。
この事から、彼は将来王になる気がない、と生徒たちから思われても仕方がなかったのである。
仕事をしない王など必要ない。仕事をした上で愛人に平民気分のリーナを囲うと言い出すのならまだ一考の余地があったかもしれないが、何もしない奴にそんな発言権などあるわけがなかった。
身分を捨ててリーナと共に……という方向性で周囲は認識してしまっていたのだ。
現実的に考えて平民になったとして王子がマトモに暮らしていけるはずがないとわかっていても。
ただ、下手に王家の血を引くかもしれない種をそこかしこにばら撒かれると当然王家だって困るので、断種薬を飲ませた上で王子は城から追い出された。一応王子個人の所有物を持ち出す程度の温情はあった。
それが本当に温情であるかはさておき。
リーナを正妃にしようなど目論んでいたなら間違いなく反乱が起きていたのは言うまでもない。
身分が、以前にリーナが平民気分のままであったのだ。それなのに王妃という立場を与えてみろ。王妃としての責務を果たす事もなく、平民気分のまま王妃として得られる贅だけを享受する可能性がとても高い。
将来の国王も王妃もぼんくらとなれば国の未来も危うい。
国王夫妻とて、我が子の事は可愛がっていたがここまで腑抜けになっているとは……と嘆く形となってしまった。教育はきちんと受けさせていたのにリーナと出会った事でここまで悪い方に転がっていくとは夢にも思っていなかったのだ。
幸い、第二王子と第三王子がいるのでまだやりなおせる。それだけが、救いだった。
次期宰相と期待されていた令息も同じく家を追い出される形となった。
婚約者であるマリシアを蔑ろにし、リーナに侍っていたのだ。
王子とリーナが結ばれたとして、彼は将来どうするつもりだったのだろうか?
マリシアとしてはそんな疑問も浮かんだが、他の令息たち全員にその疑問を投げかけるような真似はしなかった。
仮に婚約が継続したところで、リーナ相手に操を立てるなどと言われたら結婚の意味とは? となってしまうし、リーナを妻にするとなれば王子やその他の令息はどうするのか。
誰かの妻にした上で、他の面々は操を立てるのか、それとも愛人という形で共有するのか。
まさかリーナに子を産ませてそれをこちらでお互いの間に生まれた子として育てろと? などといくつかの可能性は考えられるものの。
どちらにしてもロクでもない。
宰相本人は愛妻家であるので、息子の考えが理解できないとなり、いや、平民になりたい男の考えなど理解できなくても当然かもしれぬ、と早々に割り切り跡継ぎに関しては従兄弟から一人、家に迎える事を決めたらしい。
愛玩動物扱いで平民を囲うのならまだしも、どこぞの女王に侍る従者のような立ち位置にいる息子に将来宰相の座を渡してみろ。身分社会の崩壊なんて事になるかもしれない。
そんな危険な可能性を秘めた相手に国の重要なポストを任せられるはずもない。
ここから遠い異国の地では、貴族社会が終わり共和国となり身分制度のないところもあるとは聞くけれど。
しかしそういった今まであった社会をまるきり新しく変えるにはそれこそ長い年月と、しっかりとした根回しが必要になってくる。
婚約者一人すら大切にできず蔑ろにするような男に、そんな気遣いができるとは到底思えなかった。
次期宰相だった男が、何もかもを失うのは言ってしまえば当然の結果であったのである。
騎士団で将来は団長になっていたかもしれない令息も、神殿で次の教皇となるはずだった令息も結果としては同じである。
ただこちらは家を追い出されてもまだ、平民としてまずは一兵卒から新たに自力で爵位を得られるかもしれない可能性と、神殿で細々と雑用などをして働けばどうにか生活していけなくもない……といった感じではあったけど。
だがしかし今までの生活とは一転して、みすぼらしいものになるのは間違いない。
家からは除籍という形で追い出されているので、仮に職場で親を見かけてももう気軽に声すらかけられないのだ。
今まで自分たちに傅いてきた者たちの態度も、平民になったのであれば今まで通りというわけにもいかない。
かつての暮らしと今の現実との差で、心が折れるのにそう時間はかからなかった。
いっそ遠い国に行って心機一転身一つでやったらぁ! という程の気概があれば違ったかもしれないが、温室育ちに生憎そこまでの反骨精神など育ちようがなかったのである。
家を追い出される形となった令息たちは一人では何もできないのもあって、数名、どうにか合流して協力し合おう、と思った者たちもいたようだが。
結局のところ平民落ちしたにも関わらずまだ自分は貴族の、それも高貴な身分の出であるという思いが捨てきれなかったからか、協力と言いつつもその中で序列を作り、下の者を顎で使い今までどおりの生活をしようとした事もあって、早々に内部分裂した。
今までぬるま湯の中で暮らしてきたお坊ちゃんたちに冷水通り越して氷水の暮らしは到底耐えられるはずがなかったのだ。
とにかく前の暮らしを懐かしみ、そのために必要な金を稼ごうと安易に怪しい儲け話に乗って有り金全て奪われた者もいれば、自分が商品となって売られてしまった者もいる。今まではそんな怪しい人物など自分の周囲に近づく事もなかったから、少し怪しいな、と思いつつもだが平民の中ではこれが普通なのかもしれない……と信じてしまったのである。
平民だってそんな怪しい話信じたりしないのに。リーナの語る平民論にはそんな怪しい人物など存在しなかったので。
そういう意味では、彼らも少しばかり被害者と言えよう。同情はできないが。
ほとんど自滅していった令息たちではあるが、王子と宰相候補、それからマリシアの義弟は同じく家を追い出されたリーナの行方を捜していた。
マリシアは将来宰相候補の元へ嫁ぐ予定であったが、そうなると家の跡取りがいなくなるのもあって親戚筋から養子を迎えていたのだ。それが義弟である。
ところがその義弟もまんまとリーナに侍る形となった。侍る期間は学年が一つ下という事もあって王子たちより一年短いものの、それでもすっかり骨抜きになり、何故だか義姉であるマリシアに憎悪を向けるようになっていた。
もしかしたら悪役令嬢がヒロインを虐めているという幻想にでも浸っていたのかもしれない。
だが、マリシアの婚約がなくなったことで彼女は嫁ぐ必要がなくなったのだ。
そうなれば、マリシアの家の跡取りはマリシアだ。義弟の存在は必要なくなってしまう。
ところがその義弟はやはりリーナの語る平民っていいな、に染まってしまったので。
生家とも言える家も彼の帰宅を拒んだのである。
そもそもマリシアの家の跡を継ぐために行ったというのに、そこで将来の妻になるはずの婚約者を蔑ろにし、義姉に対する態度も悪くリーナを崇拝せんばかりであった男を返品されても、生家も困り果てる。
悪評が広まってしまった男が帰ってきたところで、この家の跡継ぎになるわけでもなければ、他の家の婿にするにも悪評のせいで拒まれるのは明白。
婚約者を捨ててまで侍っていたのだから、では彼女と幸せになれるよう彼も平民とした方がいいのかもしれませんわね……と実の母が言い、実の父もそうだな、あいつに貴族は向いていなかったんだな……とさも息子を思っていますよムーブの流れから彼は捨てられたのだ。
義弟の実の両親も、彼を養子として引き取ったマリシアの両親もどちらも貴族であるが故に。
不必要であると判断されてしまった時点で義弟の未来は決まってしまった。
そんな三名は他の令息たちのようにすぐに破滅こそしなかったし、自分たちは優秀であると自負もしていたため平民になったとして上手くやっていけるという謎の自信に満ちていた。
リーナの語る平民の生活は確かに大変な部分もあったように思う。
肉体労働が多く体力がない者にとっては中々に厳しそうだな、とも。
けれどリーナは体力が無くても頭脳労働が得意な人は沢山稼げるから、なんて言っていたし生まれながらに教育を受けていた貴族と比べれば優秀な平民などたかが知れているだろう。
そう甘く見ていた。
だから平民になった事実にはどうしてこんな目に……と思う部分がないでもないが、しかし平民になったとしても自らの優秀さでのし上がろうと思えばいくらでもそれが可能であると信じて疑ってすらいなかった。
三人は正直それぞれお互いを出し抜いてとにかく家から追い出されたリーナを見つけたかったが、しかし行方がわからない。
人を雇って探そうにも、それ以前にまず拠点がない。
家を追い出されたのだ。最低限の荷物は持ち出すことを許されたものの新たに住む家など与えられていなかった。
家もなければ仕事もない。
リーナも男爵家から追放されたようだし、行きつく先はかなり限られているはずだ。
王都から出ていった可能性は大いにあるし、王子たちも拠点として王都に留まり続けるのは得策ではないと判断していた。
何せ彼らの所持品を売り払って金銭としたところで、王都で家を買うにはとてもじゃないが足りないのだ。しかも王都にいればいるだけ、今までの裕福な生活の記憶が中々消える事はない。
以前の生活と比べてしまえば、王都のちょっとした家ですら手が出せないのにみすぼらしいと感じてしまう。
いっそ王都から出てここにはこういう物件しかない、と諦めがつけばまだ受け入れられそうな気がする。
急げばもしかしたら、合流できるのではないか……?
リーナだってきっと僕らを待っているに違いない。
そんな希望を抱いて彼らはとにかく乗合馬車があるところまでやって来た。
そこでリーナらしき特徴の娘が既に馬車に乗って王都を出たと聞いて。
彼らは彼女のあとを追うように馬車に乗ったのである。
リーナは愛らしい娘であったが、しかし唯一無二の特徴を持っていたか、と問われれば皆が首を横に振るだろう。王子たちにとっては唯一だったかもしれない。けれど、リーナの目の色や髪の色は貴族にも平民にもある色合いであったし、組み合わせが特別であるというわけでもない。
髪の長さだって極端に短いとか長いわけでもなく、令嬢としてならよくある長さだ。背格好も平均的。
服は……家を追い出された時にどんな服だったか王子たちにはわからない。
だというのに王子たちは似た娘がリーナに違いないと決めうって馬車に乗って王都を出たのだ。
行動力だけは無駄にあった。
――なお、彼らがこの後リーナと出会えたかと言うと。
残念ながら二度と彼女と会う事はできなかった。リーナを探しあちこち移動していくうちに、結局一か所に腰を落ち着ける事もなく宿を取り、仕事を探すどころかリーナを探し求め続けた事で、所持金はどんどん減っていき……最終的に王都から随分離れた遠い街で、彼らもまたその他の令息たちと同じような末路を迎える事となってしまった。
「――てっきり処刑されると思ってたんだけどなぁ……」
まさか追い出されるだけで済むなんて、とリーナは拍子抜けしていた。もしかしてそうやって油断させて人の少ないところに行ったあたりで背後からぐさーっ! なんて事になったりするのかしら? と思っていたけれど、全然そんな事はなかった。
追い出されて数日はそうやって警戒していたけれど、全然こっそり殺されそうな気配もない。
リーナという存在は、どう考えたって目障りな存在だったはずなのに。
正直な話、リーナはもっと早い段階で男爵家ごと王子の婚約者あたりからぷちっと潰されるのではないかと思っていたのだ。
そうでなくとも、他の令息たちの婚約者である令嬢たちの家だってリーナからすれば軽率に歯向かっていい家柄ではない。リーナを引き取った男爵家などそれこそどの家だってその気になれば簡単に潰せる程度には力を持っていた。
そうでなくとも解消したとはいえ婚約者たちとの仲を修復不可能なレベルにまで壊した自覚はある。
だがしかし反省も後悔もしていなかった。
自分が目障りだからと殺されたとして、その瞬間はきっと恐ろしいものだったかもしれない。
けれどそうしたら、もしその時点でリーナが死んでいれば、ボルカン家に婿をとるべく駒として強引にリーナを連れ出した男爵は再び駒を失って困るだろうと思ったし、そうでなくとも複数の高位貴族たちの家から睨まれるような娘がいたような家だ。新たに養子を、なんて簡単にいかないだろうとリーナは思っていた。
もしそうなれば、リーナの思惑通りと言えなくもない。
リーナだけでなく男爵諸共殺されるような事になるのなら、それはそれでよかった。
自分ではあの男を殺そうとしても、上手くできる気がしなかったから。
隙を突いて刃物を突き刺すくらいはできたかもしれないが、その一撃で確実に致命傷を負ってくれるかはわからなかった。生きながらえてもその怪我による後遺症で苦しむだとか、そういうのがあるのならリーナもその後どうなろうと実行したかもしれないが、一番困るのは怪我が普通に治る範囲で後遺症も何もない場合だ。
その場合はきっとあの男は自分に危害を加えようとしたリーナを許すはずもない。自分だけが死んで、あの男に何の痛手も負わせられないのは癪だった。
リーナが男爵を殺そうとして返り討ちにあった場合、彼の家にはやはり養子を迎えなければならなくなる……が、この場合はもしかしたら周囲の同情を買って養子を迎える事に成功してしまうかもしれない。
もしそうなればリーナは無駄死にだ。
確実に今なら殺せるという状況でない限り、リーナは直接の手出しなどできるはずもなく。
リーナの望みはあくまでもボルカン男爵家の滅亡、というか自分の父親の破滅である。
それと同時に、リーナは身分を笠に着るような貴族男性を憎んでいた。
母は、あんな男に無理に迫られ断れない状況に追い込まれ、そうして無理矢理身体を暴かれた。
好きでもない男との子なんて、産むのすらイヤだっただろうにそれでも母はリーナを慈しんで育ててくれた。万が一を考えて実の父の事を教えてくれていたけれど、その時に貴族というものに関わるのなら細心の注意を払いなさいと何度だって言われていた。
リーナというお荷物を抱えながらも、働いてリーナを育ててくれた母。
暮らしは決して裕福ではなかったけれど、それでもリーナはそんな日々がとても幸せで尊いものだと思っていたのに。
なのに、あの男が。
突然やってきて、リーナを連れ去ろうとしたから。
金で買うとか以前の話だった。
自分の子なのだからどう扱おうと勝手だろうなんて言って、リーナを母から強引に引き離そうとしたのだ。母は必死に抵抗してリーナを取り戻そうとしてくれたけれど。
――リーナは忘れる事など決してない。
目の前で母が殺された事を。
真っ赤に染まってぴくりとも動かなくなった母に縋り付きたかったのに、父を名乗る男はリーナを無理矢理引っ張って母から離されてしまった。
その時父が連れていたのは、使用人というわけでもなかったが人を連れ去るのだ。普通に犯罪である。
そんな後ろ暗い事を金でもって請け負うような、そんな者だったのだろう。
後になってあの男――父とは死んでも呼びたくない――は、リーナの母が犬の餌になったなんて笑いながら教えてくれた。
逆らわなければ後妻として迎え入れてやったものを、なんて言葉と共に。
嗚呼、母の言うとおり貴族と関わるとロクなものじゃない。
自分が選ばれた特別な人間で、何をしたって許されると思っている。そうやって当たり前のように平民を踏みつけていくのだ。許されるはずがない。許してなるものか。
この時リーナの憎悪は父だけではなく、生まれながらにして特別だと思えるような身分の高い男性にも向けられる形となってしまった。
父に復讐したいのは山々だが失敗は許されない。どんな方法であろうとも、この男を破滅させなければリーナの気が済まない。そのためならば、自分が死んだって構うものか。
そう決めて、リーナは貴族令嬢になどなりたくもないという気持ちのまま礼儀作法を渋々学び学院に通う事となったのである。
リーナはその気になりさえすれば礼儀作法そのものは身につける事は余裕でできた。けれど、そうして自分も貴族令嬢の仲間入りになんてなりたくなかった。
父と同じ貴族になど、絶対になるものか。
だから、学院で何を言われても馬鹿の一つ覚えみたいに「でも平民は~」なんて口答えをしていた。反論ですらない子供じみた言い訳。だがそれで充分だった。
そうやっていれば、リーナは周囲から頭の足りない娘だと勝手に思われ見下される。
さっさと学院に通うには相応しくない、と追い出されるのであれば、そうなったならそれはそれで、社交界とやらで父はきっと笑いものにされるだろうなと思っていたから。
自分が不出来であればあるだけ、あの男は見た目だけであんな娘を引き取ったのですか? と馬鹿にされるだろう。大勢の貴族たちからそうやって蔑まれてしまえばいい。
最初のうちは確かにあの男もリーナに文句を言っていた。これくらいやってみせろ、とかこの程度もできないのか、だとか。
けれどそういう時はリーナはそれこそ今の年齢の令嬢がしないだろう感じで泣きじゃくった。
別に怒られたのが嫌だから泣いたわけではない。正直怒られるのは想定の範囲内だった。
だが、幼子でもないのにぎゃんぎゃん泣いて、その上で「おかあさん、おかあさん助けてよぉ! 怖いよぉどこにいったのおかあさぁん!」と助けを求めれば、あの男は勝手に勘違いしてくれた。
目の前で母が死んだことがトラウマになって幼児退行でもしているのかもしれない、と。
しかし医者にはかからなかった。当然だろう。もし医者にリーナが自分の身に起きた事を喋れば男爵にとっては面倒な事にしかならない。男爵が怒らなければ、リーナは母について一切口にしなかった。
だから普段の様子も年齢より幼い感じを装った。
怒られなければ無邪気な少女のまま、という風に演じた。
馬鹿な男は見事に騙されてくれた。
学院でも同じようにやや幼さを出しつつ振舞っているうちに、物珍しさを感じたのか令息たちが構うようになってきた。
身分の低い令息たちも最初はいたけれど、いつからか身分の高い令息たちに追いやられるようにして遠ざけられてしまった。身分の高い令息たちにも、平民は仲良くなりたいときはこうするの~なんて無邪気を装って親しくあろうと努めた。別に本当に仲良くなりたいなんて思っていない。
ただ、そうすれば婚約者であるご令嬢たちが男爵家を潰してくれるかもしれないと思ったからだ。
自分のせいで人間関係が拗れる事に若干申し訳なさがあったけれど、しかし相手が貴族であるというだけで。
なんだかそれだけで父と同じだと思ってしまったから。
リーナは無防備にも自分に近づいて好意を寄せてくる令息たちもいっそ破滅してしまえと思ったのだ。
婚約者がいるならそっちを大切にしておけばいいのに、わざわざ自分に近づいてくるなんてロクな奴じゃない。そんな風に思って。
実際マトモであろう者たちはリーナに近づこうともしなかった。そういう人たちをリーナはそっと確認して、そちらには手出ししないように気を付けていた。誰彼構わず愛想を振りまいて奪い取ろうとしていたわけではなかったのだ。リーナだって。
男爵を失脚させるために、彼らを利用しようとした。ただそれだけだ。
そりゃあ多少、自分から擦り寄ったりもしたけれどしかしマトモな思考能力を持ち合わせていれば婚約者がいるのだから、リーナが擦り寄ったからとてそこで遠ざける事もできたはずだ。しかしそれをしないでリーナにデレデレとした態度を見せて婚約者からの不興を買っていたからこそ。
結果的に彼らのほとんどが婚約を解消されてしまったのだ。
リーナは別に誰か一人と結婚したいなんて言った事はないし、ましてや婚約を解消して自分を選んでほしいなんて言った事もない。それどころかリーナは高位の身分を持った令息たちにもリーナが幸せだった平民時代の話を聞かせていたくらいだ。リーナにとっての世界はそこで、彼らの隣などでは決してない。
確かに貴族の生活と比べて不便な点は沢山あったけれど、それでもリーナには母がいて、ご近所さんが時々助けてくれたりもしたからそこまで困った事にはなっていなかった。
楽しかった日々を、彼らに平民暮らしも悪くないと思わせるようほんのり脚色しつつ語っていけば、彼らも自分の知らぬ下草の民の世界を娯楽として楽しんでいるようではあった。
令息たちの間でリーナは男爵令嬢というよりは、平民でありながら貴族生活に苦労している少女、という立ち位置になっていたようだがリーナからすると少々解せない。
そうこうしているうちに、婚約者のご令嬢たちが動いて――
そうしてリーナは学院を退学になり家に帰され、そこで追い出されたのだ。
父からの罵倒なんてどうでもよかった。
多くの令息たちが婚約解消されて挙句そんなに平民が良いというのなら、と家との縁を切られて追い出されたという話を聞いてもこれっぽっちも心は痛まなかった。
リーナについての処遇も、令息たちの処遇も一応学院で聞かされていたけれどほとんどが平民として暮らしていけ、という温情のような罰だった。少なくともリーナにとっては。
だってこれでようやく貴族とは無関係の、平民に戻れたのだ。
家を追い出された令息たちだって、そもそも最初から婚約者を大切にしていればそんな目に遭う事もなかったし、ましてやリーナに構うにしても程々にしておけばよかったのだ。そうすれば婚約解消を突きつけられる手前で引き返せたかもしれないのに。
恋をしようと思ったわけでも、愛を乞うたわけでもない。
時々リーナの気を引こうとしてか贈り物をされたこともあるけれど、リーナからねだった事は一度だってないのだ。
あまりにも高価すぎるプレゼントは恐れ多いから返そうとしたけれど、気にせず受け取ってくれなんて言われたから。
とりあえず少しの間保管して、やっぱ返してなんて言われそうにない事を確認してから売り払って財産をいくつかに分けた。
もし死ななかったなら、あの家を出てどこか遠くに逃げる時の資金に使おうと思って。
死んでも構わないと思っていたのも確かだけど、それでも生き延びる事ができたなら。
そうなった時の可能性も、考えてはいたのだ。
結局その時の資金が、とても役に立ったわけだ。
てっきりどこかで暗殺者とまではいかずとも、ごろつきを雇って……なんて可能性に警戒していたというのに、驚くくらい何もなかった。
だからだろうか、とてもあっさりと、リーナはたどり着いてしまったのだ。
かつて、母と共に過ごしていた故郷へ。
とはいえ母の死体は父が雇った者が処分したようだし、墓なんてものがあるわけではない。
かつての家はとっくに壊されて影も形もなかったし、思い出なんて欠片も残っていなかった。
それでも、時々母と出かけた場所はいくつか当時のまま残っていたりもしたから。
少しだけ見て回り、そうして人のいない丘の上で。
「ごめんねお母さん。あたし馬鹿だからあんま上手い復讐方法思いつかなかったや」
リーナは自嘲気味に呟く。
令息たちからの贈り物を売って得た金はまだあるが、かといってここで再び生活しようとは思えなかった。
母との思い出がふとした時に思い出されるかもしれないけれど、それと同じくらい母が目の前で死んだ時の事も思い出してしまいそうで、区切りとして戻ってきたがここでまた過ごそうなんてこれっぽっちも思えなかったのだ。良い思い出も、母の最期で塗り替えられてしまいそうで。
「ごめんねお母さん。あたし弱いからさ、ここにはもういられないや。家もお墓もなんにもないから、あたしもう行くよ。これだけの事やったあたしはきっとお母さんがいる天国には行けそうにないけれど、それでも見守ってくれると嬉しいな」
そう言って歩き出す。
どこか明確な目的地があるわけでもない。
けれど、それでも。
リーナの旅はここから始まったのだ。
彼女の旅の終わりを知る者は誰もいない。
悪役令嬢に見られてた方は内面までは非情になりきれなかったある意味でヒロイン属性持ちだったのかもしれない。
次回短編予告
冒険者ギルドの受付をしていた女には、結婚を控えた相手がいた。
しかしその男はどうやら他の女と関係を持っていたようで……
別れる間際、女は新たな相手となっていた女にそっと告げた。
幸せになれるはずの未来は、そうしてひび割れる事になるのである。
数滴毒を垂らしただけ 来週投稿予定