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婚約破棄を提案されてから二ヶ月ほどが経過した。段々と気温も上がってきて暖炉に火を入れなくても日々を過ごすことが出来る。そんな日々だ。
アンジェリカを最後にルーシャの離宮には誰も足を運ばなくなった。今までと全く同じ生活をおくれてはいるが人を恨み続けて過ごす日々は、暗い考えにどんどん支配されていくようだった。
こうなる前は楽しかった些細な出来事がどうでもよくなり、悪いことが起きるとすぐに気分が落ち込む。
今はどんな風に彼らは罰を受けているのか、まさか幸せになんてなっていないだろうか。
そう思うと気が気じゃない。楽しい事なんて一つもない日々を過ごしているルーシャよりも天罰を受けるべき彼らが幸せだったらとても許せない。
考えれば考えるほどに悪い方に思考は進んでいく。雨の日が増えて曇り空ばかり見ているせいだろうか、そんな風に思った。
しかし、転機は突然やってきた。
ある大雨の日に手紙が届いて、その中にはルーシャに対する謝罪とルーシャを肯定する文章が書いてあった。
そしてクリフにとってその身と同等の腹心であるユリシーズをルーシャに譲るから、煮るなり焼くなり好きにしていい、だからどうか許してほしい。
そんな意味の言葉がつらつらとつづられている手紙だった。
ルーシャはその手紙をどう受け取り、どうしたらいいのかよくわからなくてしばらくの間思考を停止して時間を過ごした。しかし、いくらか時間が経過した後、扉にノックが三回された。
これは誰か来たことを告げる合図で、来訪者がエントランスホールで待っているときのみされるものである。
誰が来たのか、それは手紙を読んだばかりなのですぐに予測できた。手紙でこんな風に言ってくるのだからきっとクリフ本人はこないだろうし、きっとユリシーズだ。
……。
すぐに迎えに行こう、そう思ったけれども、今まで自分がずっとクリフたちを恨み続けていたことを思うと足が止まった。
……酷いけがを負っていたら、どうしたらいいでしょうか。
彼はルーシャの味方にはなってくれないし、あちら側の人間でルーシャを助けてはくれないのに、そう思った。彼は悪くない、それは分かっていて、悪くはないが良い人というわけでもない。
彼らの横暴を止めてくれなかった。でも彼には事情があってそれが出来なかった。だからと言って……。
堂々巡りの思考が繰り返されて、でもやっぱりあの優しい人が傷ついていたら嫌だと思う。
嫌だけれど、でもクリフに見捨てられて、ルーシャの怒りを収めるための生贄にされた彼を突き返すことは出来ない。
そんなことをして天罰が続いたら、ユリシーズがひどい目に遭うかもしれない。そう思って惰性で足を動かして廊下を進む、階段から出入口を見下ろすと五体満足で相変わらず顔が青白いユリシーズの姿があった。
……怪我は……してなさそうです。
大きなトランクはとりあえずの荷物だろう。一応騎士らしく腰には剣を差しているが、それを抜いているところは一度も見たことがない。
「ルーシャ、久しぶり」
ルーシャを見つけると彼はいつもの通りに柔らかい声で笑顔を向けた。しかし、顔には水滴がついていて黒い髪は雨に濡れてボリュームが少なくなっている。
「……どうしてびしょ濡れなんですか?」
「急にルーシャの離宮に行け、戻らなくていい、俺は責務を全うしたと言われて城から出されたんだ」
……ユリシーズは責務をまっとうした? つまり、クリフからは解雇をされたということですよね。
「最低限の荷物をまとめる時間はもらえたけれど、傘をさす暇もなく今すぐ行けって言われて驚いたよ」
城から走ってここまで来たのなら、たしかにびしょ濡れな理由もわかる。しかし、困ったことが一つある。
ルーシャはお付きの従者もいたことがないし、彼をどうしてもいいと言われてもどうする気もない。でもクリフに返したりはしない。
急いで階段を駆け下りた。ユリシーズに会うまでは、なんだかすべての事が億劫でマイナスで憎しみ以外の感情が無くなって、本を読んでも楽しくなかったのだがすんなりと思考が働いた。
「先ほど手紙が届きました。それにはユリシーズの事も書かれていたのでここに来た意味も知っていますが……ひとついいですか?」
「うん」
彼はルーシャに目線を合わせようとしたが眼鏡に水滴がついてうまく見えなかったらしく眼鏡をはずして裾口で拭う。
「クリフの元を離れてしまって、ユリシーズのご家族は大丈夫なんでしょうか?」
「……」
「先日、話をしたときに代々続く役目だからクリフの元を離れられないのだと言っていたでしょう?」
唐突な質問に感じたらしく、ユリシーズは眼鏡をぬぐいながらルーシャを見て、二つ目の質問を聞いてからああ、と納得したような顔になって頷いた。
「俺は責務を果たしたと言われたからね。……安直に言うと死んだものとして扱うのと同じことになったと思うから、少なくとも俺の家族の血筋からこれ以上王族の盾の役割はしばらくでないと思うよ」
予想していなかった言葉にルーシャは固まって目を見開いた。彼が心配していたことは起こらないし、胃が痛い仕事は貴族の立場と引き換えにやめることが出来たらしい。
しかし、それでは、ユリシーズは失ってしまったのではないだろうか。
「……」
……私のせいで、家族とのつながりを失ってしまったのではないですか?
眼鏡を拭き終わって彼はそっとかけてルーシャを見た。その顔だけでルーシャの思っていることが分かったらしい。
「そんな顔しないで、元からいつ死んでもおかしくなかったし、それに死んだことになって役目を終えられたまま生きてられるなんて、想像もしてなかった嬉しいことだから」
「……でも、私が彼らに復讐しなければ、そのままずっと家族とも普通に接したり帰省したりできたのではないですか」
「……」
貴族としての立場は重要だ。公の場に出席したり、他の貴族との交渉事も貴族でなければできない。家族の助けになったり家族と対等になるには、それがなければならない。
失ってしまえば、対等な家族はもう帰ってこない。
ルーシャの言葉にユリシーズは少し黙って、それから、男性にしては長い黒髪を耳にかけて微笑む。
「ルーシャのせいじゃない」
……そんなわけありません。でも、やめとけばよかったとも思えないんです。
「気にしないでって言っても無理そうだね。……大丈夫だよ。ルーシャ、実は家族には近々こんなことになるかもって言ってあったから」
苦々しい表情をするルーシャにユリシーズは飄々と言った。
「それにもう、両親の無償の愛情が欲しいような子供じゃないしね、俺」
自分を指さして言ってからルーシャの手を取る。
そんな風に軽く言ってしまえるのが不思議だしユリシーズは本当にまったく平気そうで、どうしてそんな風でいられるのかわからなくてただ見つめた。
「さ、話はあとにして俺の部屋を教えてくれる? 多分ここに暫く住むことになるから」
「……はい」
多分という言葉を使ったのはきっと、彼はクリフがルーシャに送った手紙の内容を知っているからだろう。そして、ルーシャが何かすると思っている。そんなつもりもない事はどうやって伝えたらいいのだろう。