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そのクリフを守るために、王族に代々仕えてきた忠誠心の高い家柄のユリシーズを彼のそばに置いているのだろう。たった一人の後継ぎだからこそ大切にされているのだ。
「い、意味が分かりません、サイラス様。だって王子はクリフ以外には……」
そのまま思ったことを口にすると、ギラギラとしたサイラスの瞳がルーシャに向いた。
「私には第一夫人はいるが……第二夫人の席はずっと開けてある」
「……」
「それがどういう意味か分かるだろう? ルーシャ、其方は昔はあんなに抱きついてきていただろう。今もパパだと思って、私に頼りなさいすべて私に任せるんだ」
言いながらソファーのローテーブルをガガッと押しのけて横にずらす。
彼が来るからと用意した美しい花を飾った花瓶は、揺れに耐えられずに倒れてカタンと音を立てる。
「この時をずっと待っていた。其方を親元から引き離して、将来の王妃の座を餌にこの場所に閉じ込めた」
「……何を、いって、いるのですか」
「クリフはうまい具合に反発してルーシャを手放してくれた、其方は最愛の婚約者から捨てられたのだ」
花瓶からテーブルに水が広がる。ギラギラと光っている目で迫ってくる彼にルーシャは動けずにいた。
「しかし安心しろ、其方は私の第二夫人となるのだ。私の息子を愛せたんだ私にも愛をくれ、ルーシャ! パパと呼んでいいんだ! 私の子供を産んで其方とパパとママになろう!」
ぽつりとしずくが落ちる。それはルーシャのふくらはぎにおちて、冷たい感覚が足にすうーっと広がって、反射的にルーシャは動いた。
「っ、」
ソファーから立ち上がって、ぱたぱたとヒールで距離をとるために走る。しかし、荒い呼吸をしながら後ろからすぐにサイラスがおってきた。
この応接室はそれなりに広いが隠れられるところもなければ天井が大きな天窓になっているため、壁に窓も作られていない。
出入口はサイラスの向こう側だ。
「逃げる必要などない。一回り、二回り歳が離れていようとも間違いなく其方は私に父性を求めて愛してくれた、加護をわずかながらにこの十年以上感じていた!」
興奮しているのか冷静ではない足取りで家具にぶつかってもものともせずにバタバタと追いかけてくる。
……なんでっ、なんで!
「その愛の形を変えるだけでいいのだ! ルーシャこの私と肌を重ねて家族となろう!」
恐ろしさと絶望から涙が出てきた。失望なのか何なのか自分ではよくわからなかったけれども、とにかく今は悲しんでいる場合ではない。
応接室にふさわしい装飾がたくさんついている可愛い棚に、果実の乗った籠が置いてある。何か使えるものはと考えてみると、その端に置いてある果物ナイフがあった。
布巾にくるまれるような形で置いてあって、布をめくると銀の美しい刀身がきらめく。
……っ。
それでもそれを手に取る勇気はなくて一瞬ためらった。
「きゃあ!」
すると髪を引かれて反射的に体を引く、するとぱっと離されて自分の力をかけていた反動で棚にぶつかりながら倒れこんだ。
それにすぐにサイラスは覆いかぶさってきて、顔が間近まで迫って吐息が頬にかかった。
「っ」
「さあ! その聖女の体を汚させてくれ!!」
声がしてもう終わりだと思った。
……ああ、酷い。こんなのってないですよ。酷い、憎い、大っ嫌いです。
欲望に歪んだ下卑た笑顔を下から見上げていると、棚の上に鈍く光る刀身が見えた。一か八か棚に手を伸ばしてドンッと拳を叩きつける。
すると、「ぎゃあっ!」と鶏が潰されるときのような声が響いてサイラスはすぐに自分の耳を押さえる。
カツンとルーシャのそばにナイフが落ちてきて床に刺さる。こんなに切れ味がいいなんて思っていなかった。
それどころかサイラスを傷つけてひるませ、ルーシャには全く害がなかったなんて、こんな偶然初めてだ。
しかしこれが必然だと知っている。
憎しみだとか悲しみだとか、たくさんの感情にさいなまれながらもルーシャはただ、もうどうにでもなってしまえと口を開く。
「……サイラス様」
彼は押さえても押さえてもあふれ出してくる血液を必死で止めようとしている。
しかしそうしつつもまさかという瞳でルーシャを見ている。それに理解してもらえそうで良かったと思いながら、できるだけ気丈に笑って言う。
「天罰ってご存じですか?」
「そそ、其方、まさか、そんなものが、使えると」
「さあ、どう思いますか? 私に今乱暴をして一生恨まれてその真偽を確かめてみますか?」
自分でも驚くぐらい平坦な声だった。どこか現実味がなく、所詮は何も解決しないし、自分には何もないと思った。
ルーシャの世界は長らく彼ら三人だけだったし、その誰もがルーシャの事を思いやって味方にはなってくれない。
なにもないのだ、ここを出てしまったら本当に空っぽ。
「私は執念深いですよ。あらゆる方向から不運が次々自分の元へと訪れた時、サイラス様は対処できますか?」
サイラスは頬を引きつらせて、少し身を引いた。あんなになって迫ってきたのに自分の不利益があることはごめんらしい。
誰しも自分が可愛いんだ。自分ばかりだからルーシャはずっと利用されるばかり。
……それなら、正当な罰が必要です。そのためならば私は、何もなくてもいい。むしろそれをするためにここにいればいいんです。
「出ていってください。今ならまだ間に合います。それからクリフを連れてきてください、きちんと罰を受けているのと理解できなければ私は貴方方をずっと恨みます」
そう言うと彼は無言で立ち上がって、そそくさと出ていく。
その背中を見ても今までの尊敬と敬愛の気持ちなど無くてただ、小さな子供をだまして体を奪いたかった下劣な男だったのだという失望しかない。
起き上がってみたら、聖女らしい白いドレスには彼の血が花弁のように舞っていてこの分彼が苦しんだのだと思えば少しは気が晴れる。
……そうですよ。私には何もない。奪ったのはクリフと、アンジェリカとそれからサイラス様。今更、時をもどすことはできません。幼いあの時に自分に何かできたとも思えません。
だからどうしようもなかったんです。あの人たちはなにもできない私を捕まえて蜜を啜った。不当な搾取に天罰を、女神様、それが私の今後一生の一番の望みです。
そのまま涙をこらえて手を組んで祈った。
ぶるぶると手は震えている、冷たくて自分で自分の手を握っているのにまるで陶器のようだった。
恨めば恨むほど報われるそんな気がしてルーシャはずっとずっとそうしていた。