まだない
「見られているのだよ」
そう、教授は言った。
「我々は——」
目の前にある大きめのケージに、白いネコのような——実際、それはネコなのだが——動物が入っている。
青い目で、こちらを見詰めている。
前足をそろえて、格好良く、座っている。
この部屋には、ネコと、教授と、私しかいない。
最初、私が部屋に入った時、ネコは私の方を熱心に観察している様子だった。
しかし、今では、教授の方ばかりを見上げている。
「——見られているのだ」
教授が繰り返した。その視線は、私ではなく、ネコへと注がれている。
「実験動物を眺めていると、そう、思っているだろう?」
こちらに目を向けることなく、教授は続けた。
「ええ、まあ、はい」
私の曖昧な返事に対し、教授は、機嫌を損ねる風でもなく、言葉を継ぐ。
「チンパンジーよりも賢い」
一瞬、自分のことを言われたような気がした。私は人間で、チンパンジーよりは賢い……はずだ。
「ええ、そう伺いましたが……」
こうして見る限りでは。
「……ただのネコにしか見えません」
そのネコが、一つ、あくびをした。
「ああ、見た目はな。そう特別なことではない。ネコを元に開発されたから、ネコの体で高い知能、というだけのことだ」
本当に、どこからどう見ても普通のネコだ。
「学習しているのだ。我々を見て」
「はあ」
「ただ、やはりネコだから、少し無理があった。そこは否定できない」
「そうなんですか。例えば?」
教授が私の方に顔を向けた。目が合う。なんだかネコみたいな無表情だ。
「一つは寿命だ。これは長くは生きられない。せいぜい十年」
「そう……ですか。でも、そこまで短くはないですね」
「ネコとしては、その通りだ。だが、作られた知的生命としては、正直、物足りない」
「そうかも知れませんね」
「学問には終わりがない。十年など……あまりに短い。私がこのネコだったら、もっと、二十年、三十年、いや、そんな贅沢は言わないから、せめて他のネコと同じくらいには生きられるようにしてもらいたかったと、そう思うだろう」
ネコみたいな顔をして、人間の教授は熱っぽく語った。
「これには悪いことをした」
ちょっと目を伏せて、そう言った。
そして、すぐに顔を上げて、口を開く。
「もう一つの問題だが……なんだと思う?」
私の目をじっと見て、質問してきた。
「そうですね……」
ネコの知能が高くて困ること。生き物として成り立たなくなるようなこと。なんだろうか。
ちらっとネコを見遣る。さっきまで教授の方を見ていたのが、今は、私の顔を見ている。
ネコと教授から見詰められて、少なからず居心地の悪さを感じながら、私は答えを探す。
「……生殖器官に問題があって、子孫を残せない?」
ネコは言うまでもなく、教授も眉一つ動かさない。
「ご明察。だが外れだ」
うれしくもない、残念でもない、そんな様子だった。
「答えは……うん? ああ」
その時、ネコが動きを見せた。
ケージの中には、ネコの他に、タブレット端末が一つ、置かれていた。
ネコが、腰を上げて、ちょっと移動して、前足でタブレットに触れる。
タブレットの電源が入る。
白い画面。
ペイントアプリか、ホワイトボードアプリのようなものだろう。
ネコが、画面に手を置いて、何かを書き込んだ。
「『こ』……?」
そして、にゃあ、と、一声鳴いた。
「まったく……。それでは分からん。ちゃんと書きなさい」
教授がそう言うと、ネコは再びタブレットに向かった。
「学生が甘やかすからだ。これで分かったかね?」
「えっと、何がですか?」
「もう一つの問題だよ」
分からない。文字を書くネコなんて、それだけで十分すごいのではないだろうか。
ネコが、にゃあ、と鳴いた。
「『こ』『は』『ん』?」
「もっとちゃんと書きなさい」
教授がそう言って促すと、ネコは、一つあくびをして、またタブレットに向かう。
「『くれ』」
「違う。ちゃんと書くんだ」
ネコが、前足を、一回、二回。
「あっ……『ごはん』か。『ごはんくれ』」
「そんな時間か。待っていなさい」
教授が私の隣から離れる。
私は、しゃがんで、ネコと同じ高さになって、ネコの顔を見る。
ネコもこちらを見る。
「君はすごいネコだな。名前はなんて言うの」
ネコは、また、にゃあ、と言って、タブレットに向かう。
教授が戻ってきた。
「結局のところ、ネコは高度な知能など必要としていない。持て余してしまうのだ」
ネコの食器を片手に、教授は続ける。
「簡単な知能テストならまだしも、複雑なものになると、てんで駄目だ。投げ出してしまう」
「ですが、文字を書けるというだけでも、これはすごいことですよ」
「そんなこと、このネコにはなんでもない。このネコの実力は、こんなものではない。こんなものではないのだよ」
「そうなんですか」
「ああ。それで、何か刺激になればと思って、外部の人間である君を——」
その時、ネコが、にゃあ、と鳴いた。
タブレットに書かれている、一文。
「『まだない』。……あっ、名前か」
「名前? ああ、名前は付けないようにしている。特に不便もないからな」
それはどうなんだろうか。
「名前は付けた方がいいと思いますよ」
「そうだな。しかし……諧謔を弄するネコか。それとも、素直な返答に、私が勝手に意味を見出だしたのか……」
その時、ネコが、一際大きな声で、んあーお、んあーお、と鳴いた。
「ああ、待て待て。今やる」
教授がケージの中にネコの食器を置いた。
ネコは、もうそれ以上は何も言わず、すぐに食事を始めた。
「これが次の論文になるかも知れない……」
ネコを見るでもなく、私を見るでもなく、教授はそうつぶやいた。
ネコは一心不乱に食事を続けている。
私は、手持ち無沙汰になって、部屋の中を見回して、教授の横顔をうかがって、また、ネコを見る。
どう見ても、ただのネコだ。
ネコなんて、こんなものだ。




