第8話 キスの味
レフィは悪魔だ。
わたしがこうするよう仕向けたくせに、「ごめんね」と謝っている。
「リラに関わらせるつもりはなかったんだ。エルチェがへまするから」
「おい。ちょっと待て。どう考えても無茶だろ。お前こそ、なにもたついてたんだよ。腹でも壊してたのか?」
「リラの目の前で、彼女を狙ってるわけでもない従兄を殺せないだろ……死角になる角度とか、殺さずに動けなくする方法を考えていたら、集中出来なくて」
「……お前からそんなセリフを聞く日が来るとは思わなかった」
「俺も思わなかった。あの状況で、リラが庇ってくれて嬉しい。あんなやつに負けるくらいなら、リラの手にかかる方がいいなとは思ったんだけど。想定以上に見事だった。俺は守ることしか教えなかったのに」
血の気の失せた顔に少しだけ色が戻って、たまらないというようにレフィは顔をほころばせた。
「だから、お嬢さんに対してはなんでそんなに中途半端なんだよ。攻撃は最大の防御。てめぇでいつも言ってんじゃないか。アレは俺が教えたんだぞ」
「……何お嬢様に物騒なことを教え込んでるのですか」
「だからぁ、それで助かったんだろ? まだ脳味噌揺れてんじゃねーか? キャラが安定してないぞ」
血まみれのレフィを小突いて、エルチェは私に肩をすくめてみせた。
「お嬢さんも解ってんのかねぇ? ま、俺は知らんけど」
レフィに抱き締められたまま、坂を下りていくエルチェを戸惑いながら見送っていると、そっと顔を引き戻された。
「デリカシーのない男など見なくてよろしい」
「レフィ……」
「はい」
「何がどうなってるの」
「……今お話しするには、少し血の気が足りないようです」
「えっ。そ、そうよね? じゃあ、早く手当てして……」
離れようとした身体はすぐに引き戻された。
「レフィ?」
「頭がぼぅっとするので、これからすることを私は覚えていません」
「え?」
熱を持って溶けたアイスブルーがあっという間に近づいて、柔らかいものが唇をついばんだ。
驚くわたしにアイスブルーは面白そうに弧を描く。
「目はつぶっていていただきたいですね」
両の瞳にキスを落とされ、反射的につぶってしまう。もう一度唇に触れたものは、今度は遠慮なく大人のキスを教えてくれた。
レフィは覚えてないと言ったけれど、私は忘れられそうにない。
星の瞬き始めた夕景の中でされた悪魔のキスは、血の味がしたのだから。
*
舞踏会当日、正装して迎えに来たのは新しいヴォワザン辺境伯だった。それだけでも注目の的なのに、彼は今まであまりこういう場所に参加してこなかったらしい。まだ若く、涼やかなその見目は、移動するたびざわめきを呼んでいた。
ヴォワザン領は北西側を海に面した細長い領地で、肥沃な土地が我が国の食糧庫のひとつとしての役割を担っている。炭鉱があり、製鉄も盛んだが、それ故に戦禍の歴史も多いと聞く。
この度の政争では、同じく炭鉱を持つ、ヴォワザンと隣り合った土地を狙って(隣国である)攻め入ろうと画策した前王と取り巻きを、反対派が粛清した形だ。
「休耕地があるのだから、潰して製鉄所を増やせばいい。戦争を起こせば特需で儲かる……土地が荒らされ、畑から作物が穫れなくなることは考えないのですかね? 鉄や金は食べられないのですけどねぇ」
前辺境伯は揺れていたらしい。戦争の噂を流したのは、前王の一派だ。国境では緊張が高まって、小競り合いもあったそうだ。
そもそも、辺境をないがしろにしがちな前王の統治が気に入らなかったレフィは、以前から改革派と目される人物達と交流を深めていたらしい。庶民に近い商家上がりの我が家は、格を上げるにもうってつけだと、協力を惜しまなかったわけだ。
「石炭の産出量、あんまり減ってなかったじゃない。嘘つき」
「減ってますよ? 微々たるものですが。わかりやすいように少々数字をいじって提出しただけです」
包帯で右腕を吊ったレフィから聞き出した話に呆れる。
それは改竄というのではないのか。まあ、でも、隣国の炭鉱を、取り引きではなく奪い取ろうとして戦争の機運を高めようだなんて、確かに短絡的もいいところだ。
「休耕地はクローバーを植えて、放牧を増やしてみることにしました。上手くいけば、肥料も賄え、収穫量も上がるはずです」
レフィに教えられていたあれこれで、わたしにもうっすらと背景が理解できる。レフィのやり方も過激ではあるけれど、戦争を望まないわたしは結果良かったと思ってしまう。
……そう思うことも、計算されているのだろうか?
レフィに説得された前辺境伯は、戦争特需での功績で中央取り立てを狙っていたクレマン達の手によって亡くなり、当主交代で混乱している隙に始まる予定だった戦争は、前王一派の暗殺によって回避された。
空いた中央の要職には前辺境伯の長男と伯爵に陞爵した父も就くことになった。
「父が亡くなることまでは計算に入れてなかったから、少々不服ではあるんですけどね。貴女と結婚して、しかる後に伯爵を継ぐはずでしたから。忙しくてかなわない」
ヴォワザン辺境伯は前辺境伯の次男が継いだ。銀縁の眼鏡をかけて(今日は銀細工の鎖もついている)、アイスブルーの瞳で周囲を冷たく睥睨する、政変の第一人者。
敵も多いだろう彼に、わたしは嫁ぐことが決まっている。
「もう決まっているのだから、さっさとこちらに来て仕事を手伝ってもらいたいものですね」
不機嫌そうな眉間の皺は、わたしを向いて少し緩んだ。
「無茶言うなよ。最低限踏まなきゃならん手順があるだろ?」
後方で控えているエルチェがぼやく。今日はきちんと騎士の礼服を着ていた。どうやらそれが彼の本職らしい。ヒゲを剃ってしまえば、それなりに見えるのが不思議だ。
「そうですね。覚えてもらうことが増えましたからね」
「……もう! 今日はお勉強の話はやめて! 何しに来たの?!」
レフィは破顔して、それからいつもの冷たい笑顔をわざと作った。
「もちろん、我が未来の花嫁の社交界デビューを祝うためですよ」
それから、白の長手袋をはめたわたしの手を軽く持ち上げ、屈んで指先に軽くキスを落とす。
「リラ、私と踊っていただけますか? 」
「ええ……喜んで」と、素直に言いたくないのは何故だろう。心臓はこんなに弾んでいるのに。全てが悪魔の手の上だなんて、面白くないのかも。
わたしはレフィの笑顔を真似てみる。
「……よろしくお願いします。悪魔卿」
上目遣いにわたしを見ていたアイスブルーが、心外だというように少しだけ見開かれた。
あの日、悪魔の血を分けられたわたしは、もう悪魔の一員に違いないから、次に何かあるときは蚊帳の外ではなく、行動を選べる人でありたい。
それにはまだ、知らなければならないことが、沢山あるのだろうけど。
ホールでは、新しい曲が始まった。
* これは溺愛ですか? 終幕 *