第4話 月は綺麗ですね
一晩を丸太小屋で過ごした後は、とんぼ返りで我が家に帰る。
レフィは坂の下にあるというエルチェの家に泊まったらしい。
その幼馴染だという彼は、どういうわけか一緒についてきて、庭仕事や雑用など主に力仕事を手伝っているようだ。
使用人を一人増やすのに、わたしをわざわざ連れて行ったのかしら?
帰ってきてみれば、わたしは流行の風邪で寝込んでいたことになっているし。
腑に落ちないまま、レフィの無駄とも思える詰め込みに必死でついて行くうちに、あっという間に冬が来た。何度か雪が降って溶けて、父様が家を空けることが多くなったと、わたしでも気が付き始めた頃、戦争が始まるのではと巷に噂が広がった。
わたしはそれを使用人たちの会話で知った。漠とした話でしかなく、考えすぎだと笑い飛ばす者もいる。けれど、町全体が……もしかしたら、国全体にも、ざわざわと落ち着かない空気が漂っていた。
父様の不在の間、飛び込みで来た父様への仕事はレフィが取次ぎをしていた。必然、わたしは自習が多くなる。ここぞとばかりに頭ではなく手を使うレース編みなどを始めてみたけれど、チラチラと降り出した雪に目を奪われ、ちっとも作業は進んでいなかった。
だから、ノックの音に慌てて目をひとつ落としたのも自業自得ではある。
「……どうぞ」
ため息とともに吐き出された応答に、入ってきたレフィは少しだけ首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「何でもない。もうお父様の用事は終わったの?」
手元で編みかけていたモチーフから針を抜いて、するするとほどいていく。
「いえ……レース、ですか?」
「ええ。ピクニックに行ったとき、お部屋にあったものが素敵だったからやってみたくなって」
「そうでしたか。気に入っていただけて私も嬉しいです……お邪魔して申し訳ございません」
疲れているのか、レフィのアイスブルーの瞳にも声にも、いつもの張りが無くなっている。
「いいの。何? 様子を見に来ただけ?」
「ああ……いいえ……しばらく……えぇ、しばらく、こちらを離れなければならなそうなので、」
最後まで聞かずにわたしは立ち上がった。
「どうして!?」
「ダンスと作法の新しい先生はこちらに。刺繍は奥様が直々にと仰ってくださったので、レース編みも問題なく教えてくださるでしょう」
テーブルに置かれたメモを読みもせずに握り潰す。
「どこに行くの? いつ帰るの? レフィが行くのなら、お父様は家に戻ってらっしゃるの?」
レフィは長い瞬きをした。目を伏せている間に、銀縁の眼鏡の中心を中指で少し押し上げる。次の瞬間には、冷ややかなアイスブルーがわたしを射抜いていた。
「屋敷で何かありそうなら、エルチェが事に当たります。アレは丈夫ですから、お嬢様が心配なさることは何もございません。今まで通り、良き妻、良き母になれるよう努力をお続けください」
そんな普通の教育などしてこなかったくせに!!
ましてや、全く答えになっていない。絶句して、言葉を飲み込んだ一瞬の隙に、レフィは身をひるがえした。
「レフィ!!」
「まだ仕事が残っていますので、失礼いたします」
廊下に出て、一礼しながらドアを閉める。いつもと同じ仕草なのに、レフィはもう、少しもわたしを見なかった。
*
チラチラと降り続いた雪は、夜半にはもう止んだようだった。
サクサクと雪を踏む音が耳についたのか、それとも、カーテンを引き忘れて月明かりが顔に差したからか、浅い眠りの縁から色のない世界へと、わたしの意識は浮上した。
雪を踏む音は現実の世界でも続いていた。そっと窓の外を覗いてみる。さらりと積もった雪の庭で、誰かが優雅にターンした。
月の光を抱くように両手はゆるく空に浮いている。上着もなく、シャツのボタンはいくつか開いて、吐く息は白い。ワルツのステップに、邪魔そうな前髪が揺れていた。
「……レ、フィ……?」
眼鏡も外し、恍惚と月の精と踊っているような表情に見惚れそうになって、同時に酷く醜い想いがよぎった。裸足のまま靴に足を突っ込み、出来るだけ静かに急いで庭へ下りる。まっすぐ近づくわたしに気付いて、レフィは動きを止めた。
「リラお嬢様?」
潜めた声に批判の響きがあったかどうか、気付かなかった。
彼の目の前まで進み出て、ドレスを着ているつもりで一礼する。
「わたしが足を踏んでばかりだからって、月の方ばかりと踊られるなんてひどい人」
「月の?」
困惑気味に空を見上げたレフィの呼気はアルコールの匂いがした。
「……酔っぱらっているの?」
「……ええ。ですから、今夜足を踏むのは私の方かも」
そう言いつつ、構えたわたしの手を取り、小さくカウントをとってステップを踏み出す。いつもは凍てついている瞳が、溶けて揺れているように見えるのは、月の光でそれが銀に見えているからだろうか。それとも、下ろされた前髪が時折その瞳を隠すからだろうか。
ガラスレンズのない距離はいくらでも近づけてしまいそうで、目が離せなくなる。
無言のダンスはしばらくの間続いた。
何度目かのターンの時、雪に足を取られてバランスを崩した。とっさに腰を引き寄せられ、わたしもレフィにしがみつく。
冷たい頬と頬が触れ合って、現実が押し寄せてきた気がした。
「レフィ……いかないで」
子供のようだと解っていたから、とても小さな声になった。涙声できっと呆れられている。
「とても、お上手になりましたね。私も鼻が高いです。舞踏会が楽しみですね」
「レフィ……」
「年頃の娘が、自宅で夜中とはいえ、そんな格好でうろついてはいけません。風邪をひいても困ります」
「レフィだって……」
小さな溜息が耳を撫でて、肌がそわりと波立った。小さく身じろぎをしたわたしの頬を、そっと柔らかいものが掠めた気がした。
「ええ。酔いが醒めました。さあ、お部屋へお戻り下さい」
ぐいと身体を離されたかと思うと、後ろから誰かが上着を肩にかけてくれた。
レフィは前髪をかき上げながら空を見上げる。
「月は、確かに綺麗ですね……」
かけられた上着はレフィの物で、かけたエルチェは有無を言わさずわたしを反転させた。無理に振り返って見たレフィは、微動だにせず月を見上げたままだった。