余談 新田義重の娘、祥寿姫について
それこそ短編として別途、投稿すべき話かもしれませんが、関連する話ということでご寛恕を。
吾妻鏡等を理由として、鎌倉時代の新田氏が足利氏と比較して冷遇された一因として、新田義重の娘、祥寿姫と源頼朝との縁談が上手くいかなかったことが挙げられることが多いようです。
しかし、私なりにネット情報等を収集する限り、それは本当なのか、それこそ吾妻鏡によるねつ造が入っているのではないか、と疑われる話なのです。
(尚、祥寿姫というのは菩提寺の曹源寺の伝承によるもので、確かな実名は不詳です)
その最大の論拠(?)になるのが、祥寿姫の年齢に関する問題です。
祥寿姫は源頼朝の兄である源義平の正室であったとされています。
確かに祥寿姫は源義家の三男(異説がありますが)源義国の孫にして新田義重の娘であり、源義平の正室に相応しい家格を持っていますが。
その祥寿姫の年齢が不思議です。
源義平は平治の乱の余波で処刑されていますが、それは1160年の話です。
様々な伝承等からすれば、その時点で祥寿姫は既に正室であった筈です。
ということは、どう若く見積もっても祥寿姫は1160年時点で14歳にはなっていた気が。
(私が歴史上の婚姻関係を調べる限り、幾ら早婚の時代でも基本的に10代半ばでの結婚がギリギリで、それより若い結婚は、基本的に婚約段階での話に止まっていたと理解しています)
ということは満年齢での換算になりますが、祥寿姫は若くとも1146年生まれの筈です。
ところで、源頼朝が積極的にラブレターを送って、祥寿姫と結婚をしたいと言いよったのは、1182年の話とされています。
この瞬間に、あれ何かおかしな気がするぞ、と思いだすのは私だけでしょうか?
つまり、源頼朝が積極的に兄嫁でもある祥寿姫に言い寄りだしたのは、少なくとも30代後半に祥寿姫がなってからだという現実があるのです。
現代の感覚からすれば、30代後半の女性に言い寄ってどこが問題なのだ?女性を年齢で差別するのか?と問い詰められて当然になる話ですが。
それこそ12世紀のこの頃は人生五十年が当たり前の社会で、30代後半の女性は孫持ちが当たり前の時代でもありました。
そんな女性に、源頼朝が積極的に言い寄ることがアリエナイとは言いませんが、それこそ北条政子が1157年生まれと一般的にされていることから考えると、(真に失礼な話になりますが)それより10歳以上の年上の女性に源頼朝が積極的に言い寄って、結婚して正室にしたいというだろうか、という疑念が巻き起こって私は仕方のない話になります。
更にその前後の源頼朝と新田義重の関係を併せて考えるならば、祥寿姫ではなく、それ以外の新田義重の娘について、新田義重から源頼朝に嫁がせようと縁談を持ち掛けたが。
源頼朝は気乗りがせず、又、この一件について北条政子やその周囲が激怒したことから、新田義重の娘と源頼朝の縁談は調わなかった、と考えるのが妥当ではないか、と私には思われます。
この時代のお互いの年齢からすると、祥寿姫と源頼朝の縁談にはやや無理がある気がするのです。
更に源頼朝と北条政子との関係からすれば、源頼朝が祥寿姫に言い寄って断られたことを、後に鎌倉幕府の実権を握る北条氏がいつまでも根に持って新田氏を迫害するかというと、北条氏は根に持たないのが当然の気がして私はならないのです。
逆に新田氏の方から源頼朝に娘を正室にと縁談を勧めた方が、この前後の状況からすればあり得る話だ。
そして、そのことが政子を始めとする北条氏の面々を怒らせてしまい、その後々に至るまで、鎌倉幕府内で新田氏が冷遇される原因を作った、と私は考えるのですが。
どんなものでしょうか。
今回のエッセイを書き、全くの余談ながら、そんな考えが私は浮かんでなりませんでした。
これで完結します。
ご感想等をお待ちしています。