北条義時の結婚
ともかく北条政子にしてみれば、叔母の八重姫が「阿波局」と名乗って、夫の源頼朝の側に「官女」として仕えているというのは耐え難いことでした。
何しろ夫の先妻が夫の側にいるのです。
更に自分はその先妻の形代として、夫から妻に望まれたのではという想いさえも浮かぶ相手なのです。
かといって、八重姫に後妻打ち等の迫害を大っぴらに自分、政子が加える訳にもいきません。
何しろ身内同士が争った結果、八重姫からすれば父、自分からすれば祖父の伊東祐親は自害、自分の義理の叔父にして八重姫の夫の江間小四郎は討死しています。
そのために八重姫は、元夫になる頼朝の情けにすがる事態になったのです。
誰から考えても、政子は叔母になる八重姫に同情して庇うのが当然の立場なのに、八重姫を迫害して追い出すようなことを政子がしては、それこそ頼朝からこれ幸いと政子は離婚されて、八重姫と頼朝が事実上は再婚するという事態さえも引き起こされかねない、と政子は危惧せざるを得ませんでした。
(年代的に細かく見ると矛盾があるので、私としては怪しく思える話になりますが、この前後に吾妻鏡によれば、頼朝は新田義重の娘にして、兄の源義平の元妻になる祥寿姫との縁談を進めてもいます。
もし、この縁談が本当ならば、家格からいっても祥寿姫が頼朝の正室になるでしょう。
結局は新田義重が断ったことから、この縁談は流れたらしいのですが、政子としても自身の妊娠(頼家を出産したのはこの頃)も相まってイライラが募る時期だったのは間違いありません)
こうした時に、政子の目に入ったのが、自分の弟になる北条義時です。
北条義時は1163年生まれであり、それこそ10代後半でこの当時としては初婚に丁度良い年頃になっていました。
又、義時は結局のところは伊東祐親の孫になることもあり、北条家の跡取りの座を当時は追われて別家を立てることになっていました。
こうしたことから、政子が八重姫と義時の縁談を勧めたのでは、と私は邪推と言われそうですが、想像してしまいます。
尚、八重姫と義時は実の叔母甥ではないか、結婚できるのか、という指摘がありそうですが。
確かにすぐにこの当時の武家社会の結婚で、叔母甥なり、叔父姪なりの具体例を私は思いつけません。
しかし、平安時代の公家社会では、それこそ後一条天皇と藤原威子との結婚等で散見されます。
又、鎌倉時代の公家社会でも、後深草天皇と西園寺公子の結婚があります。
それに現代でも叔父と姪という三親等の内縁、事実婚を最高裁は認めています。
そうしたことからすれば、叔母甥で結婚するというのは、この当時の武家社会でもあったのでは、と私は考えられてなりません。
そうしたことを考えていくと、江間小四郎の旧領である江間の土地を北条義時に与え、更に義時の妻に八重姫をして、江間小次郎を義時の養子にすることで江間家を再興してはどうか、と政子は夫の頼朝や父の時政に働きかけて実現したのではないか、という考えが私には浮かんでならないのです。
何しろこうすれば、皆が丸く収まる結末になります。
政子にしてみれば、八重姫が弟の妻になって夫の側からいなくなります。
又、義時にしても、北条家の中で土地無しの厄介伯父になりかねないところだったのが、自分の土地が持てることになります。
八重姫にしても年下の甥との三度目の結婚はどうなのか、と悩むでしょうが。
自分や子どもの立場を考えると、子どもが江間の家を継げるかも。
又、元夫の側にいて、姪の嫉妬が向けられる現状から抜けられる、と考えればそう悪い話ではありません。
(頼朝はかなり悩むでしょうが)
こういった経緯で、八重姫と義時は結婚したのだと私は考えます。
ご感想等をお待ちしています。
尚、新田義重の娘、祥寿姫については余談という形で私なりの補足説明というか、現状における考えを投稿します。




