北条政子は紫の上だった?
さて、少なからず視点は変わりますが、伊東祐親の娘の八重姫と北条政子が叔母姪の関係であり、更に八重姫と離婚した後に、頼朝と政子が結婚したのだとすれば。
源頼朝と北条政子の結婚生活ですが、実は政子にしてみればつらい結婚生活だったのでは、という想いが私には浮かんでなりません。
政子は二度にわたり後妻打ち事件を引き起こす等、嫉妬深い女性として現代にまで伝わっています。
その原因として、北条家の出自が低く、源頼朝の正室になるのには政子の身分が低かったから、という説等が唱えられていますが、それに加えて、この八重姫とのことも政子が嫉妬深くなった一因ではと私には考えられてならないのです。
源頼朝と北条政子の結婚ですが、北条時政は乗り気ではなかったが、当事者二人が熱愛したので、時政はこの結婚を認めたとされているようです。
確かにそれが間違ってはいないかもしれませんが、政子が夫の頼朝が以前に叔母の八重姫と結婚していたが、自分からすれば祖父の伊東祐親の介入によって離婚し、更に頼朝が父を頼ってきて、自分と結婚したという経緯を知った時に、どう思うかというと。
ひょっとして、自分は叔母の八重姫の形代(身代わり)として愛されているのでは、という想いが浮かぶのではないでしょうか。
そんなことはない、と政子は思い、考えるでしょうが、こういった想いは一度、浮かんでしまうと中々拭えなくなるものです。
それに北条政子の父の時政は、後妻の牧の方(牧の方の父の牧宗親は平頼盛の家人)等の縁もあり、一時は在京していたような人物でもあります。
そうした縁から、政子は京の文物である源氏物語等にも触れる機会があり、頼朝にとって叔母の八重姫が藤壺であり、自分は紫の上ではないか、とまで考えてしまうことまでもあったのでは、と私はつい深読みしてしまいます。
(もっとも、紫の上に例えるにしては、酷く血生臭い気が政子はしますが)
そうした想いに政子がいる中、頼朝が浮気事件を引き起こしては。
政子が過剰に反応し、自分が捨てられるのではと危惧して、後妻打ち事件を二度にわたって引き起こすのも、止むを得ないと言っては言い過ぎだと私も考えますが、何となく分からなくもないな、と私は考えてしまいます。
そして、時期的に相前後してしまいますが、源頼朝は平家打倒の挙兵を行ってそれに成功する一方で、政子からすれば祖父になる伊東祐親は自害し、義理の叔父になる江間小四郎は夫の頼朝に味方する者によって討たれるという事態が起きます。
そのために源頼朝の最初の妻にして想い人である政子の叔母の八重姫は、結果的に父と夫を失って幼子である江間小次郎を連れて、源頼朝の庇護の下に入ることになります。
この後の北条義時と八重姫の結婚の経緯について、実は坂井氏は違う経緯を推定しているのですが。
私としては坂井氏とは違う経緯が思われてなりません。
私の考える経緯ですが、頼朝のことですから、これ幸いと八重姫を「官女」に迎え入れて、「阿波局」と名付けて側に置くようなことをしたのではないでしょうか。
つまり、源氏物語で言えば、光源氏と紫の上のいる六条院に藤壺が転がり込んできたようなものです。
当然、紫の上である政子は面白くありませんが、かといって、この当時の習いから言って敗者の身内が勝者の情けにすがるのは当然の話ですから、それこそ何処へなりと行け、と政子が八重姫を追い出すようなことはできません。
それに八重姫は実家の伊東家を失っていて行く当てもない上に、政子の叔母にもなります。
そうしたことから政子が画策して、夫の頼朝に勧めたのが、自分の実弟になる義時と八重姫の縁談ではないか、と私は考えるのです。
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