源頼朝の最初の妻、八重姫についてー1
八重姫という名前ですが、これは曽我物語における名前で実名は不詳です。
ですが、一般に八重姫として知られているので、作中でも八重姫と呼称しています。
源頼朝の妻として一般的に知られているのは北条政子ですが、実は彼女は源頼朝の後妻の可能性が高いという説があります。
それでは先妻、源頼朝の最初の妻は誰かと言うと、伊東祐親の娘の八重姫だそうです。
ですが、この八重姫と源頼朝の結婚は結果的には伊東祐親の怒りを買い、源頼朝と八重姫の間の子の千鶴丸は伊東祐親によって殺され、源頼朝と八重姫は離婚することになり、源頼朝は北条時政の下に逃亡、八重姫は江間小四郎という者のところに伊東祐親によって嫁がされた、と曽我物語ではされています。
そして、八重姫のその後については、曽我物語には記載がないそうです。
さて、伊東祐親と源頼朝の間に何らかの因縁があったことは、吾妻鏡にも出てきます。
ですが、その因縁の内容について、吾妻鏡は明確に書いていません。
唯、伊東祐親が流人時代の源頼朝を殺そうとしたこと、更に源頼朝の挙兵を阻止しようとして失敗して捕らえられた後、縁者の三浦義澄の助命嘆願から源頼朝が助命しようとしましたが、伊東祐親は「以前の行いを恥じる」と言って、自害して果てたことしか書いていないそうです。
ですが、流人時代の源頼朝を伊東祐親が殺そうとするということは、余程の理由があったとしか思えませんし、更に吾妻鏡がその理由を書いていない、いや書けなかったということからすれば。
その理由が、八重姫と源頼朝が結婚して男児が産まれたからというのは、十分にあり得る気がします。
それこそ吾妻鏡としては、北条政子が源頼朝の後妻とは書けなかったのだと思えるのです。
(更に後述しますが、源頼朝が北条政子に惹かれたのには、それなりの理由があった気がします)
さて、これから後のことは坂井孝一氏の新書「鎌倉殿と執権北条氏」からの、私の受け売りがかなり入ってきますが、ご寛恕を願います。
更に言えば、坂井氏はその推論の根拠の多くを曽我物語によっており、そうした点からも信用できないと言われそうな気がします。
ですが、それを言い出したら、多くの二次資料が信用できないということになりかねません。
曽我物語の成立は一般的に13世紀末頃とされており、源頼朝の流人時代から言えば、約100年程後に成立したことになり、二次資料としてはかなり近い時期の成立になります。
又、鎌倉幕府の公式資料と言える吾妻鏡にしても、ほぼ同時期の成立です。
そうしたことからすれば、あながち嘘だらけともいえない気が私はするのです。
さて、八重姫ですが、曽我物語によれば伊東祐親の三女とされています。
ですが不思議なことがあります。
八重姫の姉二人については曽我物語は語りますが、四女については一切、語らないのです。
その一方で、曽我物語の主人公の曽我兄弟の伯母である伊東祐親の娘が、北条時政と結婚した縁から曽我兄弟は北条時政を頼ったと語りつつ、その伊東祐親の娘が何女なのかを曽我物語は語っていません。
それは四女と北条時政が結婚していたからで、それは自明の理だったからだ、という指摘がありそうですが、それはそれで疑問が生じます。
北条義時の母は伊東祐親の娘とされており、更に北条政子も同母姉と推定されています。
北条政子は1157年生まれ、北条義時は1163年生まれと一般にされています。
その一方で、源頼朝は1147年生まれで、曽我兄弟の父にして伊東祐親の長男の河津祐泰は1146年生まれというのが通説です。
幾ら何でも伊東祐親の四女が北条時政と結婚して、その姉の八重姫が源頼朝と結婚したというのは年齢的に無理があり過ぎではないでしょうか?
ここは坂井氏が説く、伊東祐親の長女は先妻の子で北条時政と結婚し、次女以下は後妻の子というのがしっくりきます。
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