077「それは秋に始まった」
初恋は叶わないもの、というけれど。
*
パサージュの街路樹や珈琲館の庭の草花が、わずかにイエローやカーマインに色づき始めた頃のこと。
ドアのカウベルを鳴らしながら、初めてオレンジシティーへ来た時と同じトランクを持ったエマが、珈琲館の店内へ入る。もちろん、金髪の美少女に変身した状態である。
「ただいま、で良いのかな?」
「もちろんだよ、エマくん。おかえり」
「おかえり、エマ! 汽車は、早かったのね」
遠慮がちに挨拶したエマに対し、カウンターの内側に立つアランと、座面の高いカウンターチェアに座ったクロエは、笑顔で出迎える。
アランは、乾燥棚から逆さに置いたカップを一つ取り出し、ケトルを火からおろしてコーヒーを注ぎはじめ、クロエは、カウンターチェアからピョンと飛び降り、エマのもとへと駆け寄る。
エマは、クロエに手を引かれながらカウンターチェアへ座り、隣の空席にトランクを置く。そして、トランクを開けて中身の詰まった瓶をカウンターへ置く。
「いただいたマーマレードのおかえしに」
「おや、すまないね。空のまま返してくれて構わなかったのに」
「わぁ! これは、なぁに?」
瞳を輝かせながら、クロエが食い入るように瓶を見つめて質問すると、エマはフフッと微笑みながら答える。
「オイスターのオイル漬けよ、クロエちゃん。――持ってきといてアレですけど、牡蠣は大丈夫でしたか?」
「あぁ。僕とクロエは平気なんだけど……」
アランが、ソーサーとコーヒーを注いだカップをエマの前にセットしながら答えている途中で、カウベルが鳴る。ドアの向こうから姿を現したのは、紫の髪をした女である。
「邪魔するわよ。あら、もうエマが帰ってきてたのね。おかえり」
「ただいま、マリーさん」
「ねぇねぇ、マリー。これ見て!」
「あっ、クロエ。待ちなさい」
アランの制止を無視し、クロエは瓶を片手に掲げてマリーに示す。すると、マリーは眉根を寄せつつクロエの手から瓶を取り上げ、そのままカウンターチェアに腰かけながらアランに向かって低い声で言う。
「これ、兄さんが作ったの?」
「怒るなよ。それは、エマくんがマーマレードのお礼に持ってきた物だ」
「あのっ、ひょっとして、マリーさんは……」
険悪な雰囲気を察してエマが言いかけると、マリーはカウンターに瓶を置き、エマの方へと押して滑らせながら言う。瓶とソーサーの端が触れて、カチンと小さな音がする。
「昔、大アタリを引いちゃったのよ。腹痛が止まらなくて、大変だったわ」
「ごめんなさい」
「その中に、アタリとハズレがあるの?」
「そのアタリじゃない。――まぁ、知らなかったんだから許してやれよ、マリー」
アランが瓶を調理台の下へと移動させながら言うと、マリーは三人の視線を感じ、フイッと庭の方へ目を背けて言う。
「兄さんなら文句の一つでも付けてやろうと思ったけど、エマならしょうがないわね。――私のは、紅茶にしてちょうだい」
「はいはい」
二杯目のコーヒーを淹れかけたアランに、マリーが平生の声で注文すると、すぐにアランは手を止め、紅茶の缶を用意しはじめる。
そんな二人を気にすることなく、クロエは、今度はエマに疑問を投げかける。
「ねぇ、エマ。さっきのは、どういう意味なの?」
「えーっとね……」
どう説明したかと考えつつ、この次からはお返しの品に気をつけようと思うエマであった。
ほのぼのとした日常が動き始めた裏で、訓練学校では別の動きがあったのだが、それは、また次の話で。