091「現在進行と過去完了」
ヒトの記憶は不思議なモノで、覚えておこうとすればするほど、かえって忘れてしまうくせに、忘れようとすればするほど、いつまでも覚えているものである。
*
窓辺にレースのカーテンが引かれ、ファンシーな猫のぬいぐるみが飾られているクロエの部屋。窓の外からは、カーテン越しに月の影が映っている。
「それが、作り物じゃなくて、本物の角なの。山羊さんやガゼルさんに似てるんだけど、クルンって丸まってるの。それでね」
コメカミあたりに両手をつけ、人差し指を触角のように曲げ伸ばししつつ、嬉々として見聞きしたことをベッドの上で語るクロエ。ベッドサイドに腰を下ろしているアランは、興奮冷めやらぬ少女の手を両手で持ち、そっと下ろしてブランケットの下に入れる。そして、ブランケットをクロエの細い肩まで引き上げ、胸の上を軽くトントンと叩いて入眠を促す。
「クロエ。羊角の男の子の話は、そのくらいにしよう。もう遅いから、続きは明日の朝に聞くよ」
「えぇー。眠ったら、忘れちゃうわ」
「大丈夫。それだけ強く頭に残ってるなら、朝まで覚えていられるよ」
「でも」
難色を示してなんとか夜更かしを認めさせようとするクロエに対し、アランは人参をぶら下げることにした。
「ちゃんと早寝早起きできたら、明日の朝食には、スフレを焼いてあげよう」
「スフレ! 食べたい」
「じゃあ、目を閉じて寝ようね」
「はぁい。おやすみなさい!」
「おやすみ」
ココットから溢れんばかりに膨らんだイメージでも浮かべてるのか、クロエが目を閉じて幸せそうな顔をすると、アランは、額にかかった栗色の髪をそっとかき上げて微笑む。それから、眠りを妨げないように静かに立ち上がり、部屋の明かりを消して立ち去る。
*
クロエが、雲に乗って小鳥たちと空を散歩する夢を見ている頃のこと。高台に建つアトリエでは、マリーが壊れたランタンを貼り合わせていた。
表面にヒビが見えているものの、元の形に限りなく近いところまで修復され、最後にフチの欠けを粘土で補ったところで、マリーは手を止め、目頭を指で押さえる。
それから、立ち上がって腕を回したり腰を捻ったりと、滞った血流や凝った筋肉を元に戻そうと動き回る。
「拾う物はあっても、捨てる物は無いってね」
そのままマリーはキッチンへと向かい、水瓶からホーローのケトルに水を注いで火にかける。
そのあと、マリーは立ち消えしたり吹きこぼれたりしないように注意しつつ、ガウンの懐から小瓶を取り出す。
「この小瓶、昔、どこかで見た覚えがあるんだけど、どこで見たんだったかなぁ」
マリーは、火に照らされて七色に輝く小瓶を片手で弄びつつ、少女時代の記憶を引っ張り出そうとしたが、ケトルから湯気が立つまで、思い出すことは出来なかった。




