第12回 小説の「意味」とは何か
前回は、小説そのものについて考えました。
小説を書くアルゴリズムについて書いていくために、もう少し寄り道をして、小説のもつ「意味」について考えていきます。
例によって個人的偏見をベースにしたゲテモノ料理なのであしからず。
*情報理論の視点
まずは、小説を情報理論の視点に立って考えることから始めましょう。
情報理論において、「情報」は確率として考えます。
例えば、「鳥が空を飛んでいる」という現象は、高確率で起こることであり、「情報量」は少ないです。
しかし「クジラが空を飛んでいる」という現象は、確率的にあり得ないことであり、「情報量」は大きいと言えます。
したがって、誰かに「鳥が空を飛んでいるよ」と教えても、「そうだね」「当たり前じゃん」としか返ってきませんが、「クジラが空を飛んでいるよ」と教えると、「マジで!?」「えっ、なんで!?」と驚く訳です。
上に挙げたのは極端な例ですが、これは誰でも日常的に行っていることです。
多くの人は、昨日歩いた道に落ちていた石ころなんて覚えていませんが、珍しい犬を連れた人が散歩していたら覚えているのと同じです。
珍しい情報であればあるほど、「情報量」という価値も高いのです。
*確率による文章生成の限界
さて、ここで話がそれますが、文章を作るアルゴリズムとして、マルコフ連鎖というものが知られています。
マルコフ連鎖では、まず既知の文章を解析することで、ある単語の次に来やすい単語を得ます。次に、確率的に次に来やすい単語を並べることで文章を生成することができます。これを繰り返すことで、それらしい文章が書けるのです。
「マルコフ連鎖」で検索すると、何やら難しそうなプログラムを使って文章を生成している方々のページがヒットしますが、原理を理解するだけならプログラムなんて要りません。
実際にマルコフ連鎖をやってみましょう。
まず既知の文章として、以下の文章を使います。
・鳥が空を飛んでいる。
・大空を鳥のように飛んでみたい。
次に、文章を単語に分けます。
・鳥/が/空/を/飛ん/で/いる/。
・大空/を/鳥/の/よう/に/飛ん/で/み/たい/。
この2つの文章から得られた単語の配列から、「鳥」という単語の次に来る単語を数えてみましょう。
「が」が1個、「の」が1個ですね。
したがって「鳥」という単語の次に来ると予測される単語は、「が」が50%、「の」が50%ということになります。
これを踏まえて、「鳥」という単語から始めて、「。」で終わるまで、この確率にしたがって文章を作ってみたのが次の文章です。
・鳥のように飛んでいる。(鳥/の/よう/に/飛ん/で/いる/。)
・大空を鳥が空を飛んでいる。(大空/を/鳥/が/空/を/飛ん/で/いる/。)
・鳥が空を飛んでみたい。(鳥/が/空/を/飛ん/で/み/たい/。)
まあまあ意味が分かる文章、という印象を持たれたかもしれません。
しかし、実はこれは私が分かりやすい例を挙げただけです。
本来は、こんな文章も生成されてしまいます。
・鳥が空を鳥が空を鳥が空を飛んでみたい。(鳥/が/空/を/鳥/が/空/を/鳥/が/空/を/飛ん/で/み/たい/。)
原因は、「を」の次に「鳥」が入る確率が50%あるために、「鳥が空を」の次にまた「鳥」が選ばれてしまうからです。
元にする文章を増やせば、こうした確率をある程度下げることはできます。
また、「空」+「を」の次にくる確率は「飛ん」が100%になるように、複数の単語の並びの次に来る単語の確率を考えることで回避できることもあります。
このような確率的に文章を生成する方法の最新の成果として、LSTMやGPT-2が知られています。
これらは確かに、マルコフ連鎖よりも意味のありそうに見える文章を生成します。
しかし、そこには何かを伝えようという意思は全くありません。
あるのは、ただ確率にしたがって単語を並べるというアルゴリズムだけです。
私は、LSTMやGPT-2といったプログラムによる成果は素晴らしいと思いますが、人工知能自身が意思をもって文章生成できないという点に違和感を感じています。
さらにもう一つ、大きな問題があります。
さっきの意味不明な文章「鳥が空を鳥が空を鳥が空を飛んでみたい。」は、単語としては確率的にあり得る並びですが、文章としては、既存の日本語のデータを探してみても存在する確率は極めて低いので、文章としての「情報量」は大きいはずです。
しかし「意味」はありません。
冒頭で私は、「クジラが空を飛んでいる」という文章は、確率的にあり得ないから「情報量」が大きいと説明しました。
そしてこの文章のもつ「意味」は、「鳥が空を飛んでいる」という文章よりも大きいと言えます。
この二つの違いはなぜでしょうか。
答えは単純です。
文章には「意味」がないからです。
文章の持つ「情報量」の中に「意味」は存在しません。
(こういうことを言うと、言語学の人に怒られそうですが)
例を挙げて説明しましょう。
手元に空き缶があれば、プルタブを取って、缶を上から眺めてみてください。なんだか人の顔に見えてきませんか?
「人の顔ではないものでも、なんだか人の顔に見えてしまう」という例は、誰にでも経験があることだと思います。
しかしそれらの多くは、決して顔の形にしようと思ってそうなった訳ではありません。あくまでも結果として人の顔の形に見えてしまっているだけなのです。
つまり、それを見た(一部の)人は、そこに意図されていない「意味」を見出したということになります。
つまり意味とは、物事が持っているものではなく、それを受け取った(観測した)人間の解釈が生み出したものなのです。
*小説の「意味」は読み手の解釈に依存する
そうした人間の認知システムを逆手にとり、ある解釈をさせようという意図をもって作られたものが小説なり、映画なり、音楽なり、絵画です。
作品の「意味」は、受け取り手の解釈によって初めて成立します。
「『作者の意図』こそが作品の『意味』である」などという考えをもし持っている方がいれば、私はそれを否定せざるを得ません。
正しく表すならば、「『作者の意図』が作品の『意味』と同じになることもある」とすべきです。
多数の受け取り手によって共通の解釈がなされたものが作品の「意味」であり、いくら作者が意味を説明したところでそれは不変です。
作者にとっての正義を表現したとしても、それが多くの受け取り手に悪と受け取られたのなら、その表現は悪であり、そのことを作者は受け入れるべきです。
それでもなお同じ表現をするならば、それは表現という名の暴力であり、受け取り手との相互対話によって表現をしている多くの表現者に対する冒涜です。
もはや表現者ではありません。
例えば、ある人物がヒトラーを礼賛する小説を書いてウェブサイトに投稿した時に、多くの読者から「それは良くない」と言われたにも関わらず、「私の考えは正しい」と意に介さず、同じような小説を書き続ける行為は、表現者として失格です。
(無論、一部のストーカー的読者からの嫌がらせのような批判であれば、受け入れる必要はないでしょう)
小説に限らず、絵画や彫刻、音楽、アニメーションなど、多くの芸術の分野においてそれは同じであり、表現をする者ならば自覚しておかねばなりません。
特に、表現者は自らがどのようなグループの中にいるかを意識しておく必要があります。
普段付き合いのあるグループの中では良い評価を受けていたとしても、別のグループでは悪い評価となることは当然ありますし、その別のグループが多数であるならば、それは社会全体としては悪い評価の作品なのです。
残念ながら、その表現は社会全体には受け入れられなかったのです。
受け入れられなかった作者は表現の方法を変えるなり、表現する場の範囲を考えるなりしなければなりません。
それを表現規制と呼ぶのは他者への責任の押し付けであり、表現者としての義務を放棄しています。
例えば、ヒトラーを肯定するような小説であっても、ヒトラー研究者(本当に存在するかは知りませんが)には、「ヒトラーの思考を考察する上で興味深い」と絶賛されるかもしれません。
それならば、ヒトラー研究者が集まるような小さな集会で、関係者にだけ読んでもらうのが表現者としての正しい在り方でしょう。
一方、「社会に受け入れられないのは社会が理解していないからだ」と言って、全国の書店にヒトラー肯定小説を並べようとするのは、思想の強制的な押し付けです。
拒否する受け取り手の前に無理やり出てくる行為は、言わば「表現ハラスメント」であり、現代社会にはそぐわない行為であると個人的に思います。
SNSが普及した社会においては、自分が常にオープンな社会へ発信していて、社会全体から高い評価を得ているという勘違いが容易に起こりえます。
なぜならば、自分がフォローしている相手も、フォローされている相手も、それぞれの趣味嗜好で選んだ相手だからです。
タイムラインの本質は、オープンな社会のように見える「閉じた社会」なのです。
表現者は、どのような人が自分を評価しているか、そしてどのような人に拒否されているかを常に意識しなければなりません。
*「人工知能には小説は書けない」という俗説
小説を書く人工知能に対する意見を眺めていると、「人工知能に小説が書けるのか」と懐疑的な声を上げる人は少なくありません。
そんな人々が口々に言うのは、「機械に人間の心が分かるのか?」といった「作者の意図が無ければ小説が書けない」論です。
しかし私には「機械には人間の心が分からない」という理由が分かりません。
人間だって何かしらの手順を踏んで他人の感情を推察しているはずなのに、なぜか機械にはそれができないと仰るから不思議です。
それに、そもそも、別に「作者の意図」なんぞ無くたって、読む人がそこに「意味」を見出したならば、それは「小説」なのです。(詳細は「第11回 小説とは何か」をご覧ください)
ちなみにOpenCVという多数の画像を学習して得られたライブラリを使うことで、人の笑顔を認識することは容易にできます。
ネットで「OpenCV 顔認識」のような感じで検索すれば、やり方が書かれたサイトはいくらでも出てきます。
予算もRaspberry Piという小型のPCと、カメラモジュールがあればいいので、約1万円ほど。
人間の表情から感情を推察する程度なら機械にだってできるし、それを実際に実行することも難しい話ではないのです。
それでも「人間なら行間を読むことができる」とか仰る方もいらっしゃるかもしれません。
しかしそれも結局は受け取り手の解釈の問題なのです。
例えば、「押すなよ!」という言葉は、状況によってはネタだと思って「押せ!」という意味だと解釈する人もいれば、本来の「押すな!」という意味に解釈する人もいます。
次のようなシチュエーションの方が分かりやすいかもしれません。
子供A「押すなよ!」(意味「押せ!」)
↓
子供B(「押せ!」って意味だな)
↓
子供Bが子供Aを押して水の中に落とす
↓
それを見ていた大人C「なんでAを押したの!嫌がってたでしょ!」
↓
子供A「え?」
子供B「え?」
このように、「人間なら行間を読むことができる」というのは、「できることもある」というだけで、ただの結果論なのです。
もう一つ例を挙げると、会社で上司が新人に「お菓子買ってきて」と1万円渡したら駄菓子を1万円分買ってきた、みたいな話をSNSで見ることが時々あります。
これは、上司は「会社でお菓子を買ってきてと言われたら、お客様に出す菓子折りだろう」という前提を伝えておらず、新人もそれを知らなかったせいで起きた悲劇です。
このように、これまでの経験などが無い状態で状況を判断する場合には、人間であっても行間なんて読めません。
逆に言えば、そうした共通知があれば、機械であっても行間を読むことはできるということです。
人工知能が行間のある小説を書いたとしても、何も不思議なことはありません。
2019/08/03 初稿