第五章 3
「暗人よ、鬼龍院香澄の居場所について、私が車内で言ったことを覚えているか?」
「勿論。鬼龍院さんは山頂付近にいる可能性が高い。そう言ってたね」
「うむ。彼奴は最後の生贄だ。死した時点で大召喚は成る。姉様の性格からして、そのように重要な存在を適当に野放しとすることはありえん。おそらく魔法陣の中央に祀るが如く安置されているだろう」
「魔法陣が山頂付近にあるって根拠は、召喚物の能力を考えた結果、だったけ?」
「そうだ。ヴリトラというのは様々な力を持つが、もっとも厄介なのは広範囲に災厄をもたらす力だな。飢餓、旱魃など、障害を意味する名前の通り、様々な問題が発生することになる。その能力をより広い範囲に適用するには、山頂辺りがもっとも都合が良い、というわけだ」
「僕は山頂へ向かって、“これ”を鬼龍院さんに飲ませる。そうすれば、彼女は一命を取り留める。そうだよね?」
ポケットの中から取り出したものを見せ、尋ねる暗人。黒髪の美少女はそれに首肯した。
少年が今手に持っているのは、一本の小瓶だ。瓶自体はなんの変哲もないデザインだが、中にある液体は虹色に煌めいており、不思議なパワーを感じさせる。
エリクサー。万能の秘薬、不老不死の薬とされる、超メジャーアイテム。飲んでも不死身にはならないが、死ぬ寸前の人間を健康体に戻すことは十分に可能だ。
京香に前もって渡されたそれを握り締め、暗人は黙々と道を進む。
その末に――二人は、開けた場所に出た。
鬼火の果て。そこだけが、まるで整地されたかのように何もない。円形且つ平面の広い空間が広がるのみで、草の一本すら生えてはいなかった。
用意された闘争場の如きフィールド、その中央に、奴の姿がある。
「お早い到着でしたわねぇ。迅速なのは良いことですわ」
投げかけられた声に、二人は即座に反応を示した。
純白の着物を纏う美女に、京香が掌を向ける。と、次の瞬間、霧香の周囲に前触れなく長方形の石版が出現。敵方の視界を完全に防いだ。
されど。
「モノリスで目隠しとは、なんとも豪勢なことですわね」
ほぼ一瞬で木っ端微塵に粉砕される。敵方も召喚を使い、武器を手に入れていた。その手に持つのは一振りのメイス。詳細は定かでないが、相当な代物であることは破壊力からして明らかである。
さりとて、暗人にとっては興味の埒外。そもそも、彼は一連の流れを横目で見ることすらしていない。
京香が術を発動させる直前。既に彼は疾走を開始していた。
空間の右側、山頂へと繋がる道へと全力で向かう。
だが、敵方はその進行を許さない。
「生贄のもとへ行くつもりですか。残念ながら、行動一つ一つが予想通りですわよ」
余裕の態度で、霧香は己の周りに一匹の大蛇を召喚する。次の瞬間には、全身が炎に包まれたそれが、召喚者の期待に応えるべく恐ろしい速度で暗人の背面へと迫った。
京香は魔術を発動しない。となれば、もはや少年の運命は確定している。
死。それが当然の結末。それなのに――
結果として、霧香の顔面にあった余裕が崩れた。
召喚された炎蛇は、なぜだか暗人に食らいつく寸前で別方向へと逸れ、次いで元の世界へと帰還。
魔術師からしてみれば、異常極まりない流れであった。
結局、少年は見事離脱。己の目的を果たすべく、山道の中へと消える。
消えゆく得物の背中を見ながら、霧香は先刻の異常事態に当惑を覚えていた。
「なんでしたの、さっきのは? 召喚物が言うことを聞かず、帰還命令も出していないのに勝手に帰還……術を習いたての凡夫ならまだしも、このわたくしがコントロールミスを……?」
吐き出された独り言に、京香はさも面白いといった調子で声を放つ。
「残念でしたな、姉様。まぁ、アレに関しては諦めたほうがよろしい。……去っていった者よりも、今は目の前の妹を構ってください」
言うと、彼女はその右手に一振りの剣を召喚した。
刃渡りは七〇センチ前後。滑らかな両刃、装飾がほとんどないその得物の名は、天羽々斬。
「ほう、十束剣ですか。ならばこちらも――」
霧香はメイスを帰還させると、代わりに妹同様一振りの剣を召喚。
京香が持つそれと似通った形状の得物。その名は神度剣。
京香は左手に剣を持つ。霧香は右手に剣を持つ。まるで鏡を見つめるかのように対峙する両者。
「さて、これから戦うことになりますが……一〇年前と違い、わたくしを説得しようとはなさらないのですね?」
「……正直に言ってしまえば、姉様、私は未だ、貴女のことを好いております。あのようなことをなさった貴女ですが、それでも、私にとっては最愛の姉なのです。できることであれば、元に戻っていただきたい。そのためならば、万の言葉も費やしましょう。しかし――」
曇った顔を毅然としたものへ変化させ、逢魔京香は宣言する。




