第四章 2
「さて、ではいつも通りにやるとするか。またハンカチをダメにすることになるけれど、ま、仕方ないな」
肩をすくめながら、彼は作業を開始しようとした。
その刹那――
「そこまでだ」
突如として蹴破られるドア。その先に立っていたのは――
◆◇◆
現場、正確には現場になる直前の室内にて、淀川暗人は嘆息した。
前に立つはド派手な場内乱入を決行した逢魔京香。後ろに控えるは、事件の決着を見届けるべく同行した鬼龍院香澄。
濁った瞳の先に立つは――虎龍院大我。
――やっぱり、この人が犯人だったか。京香と僕の意見が合致したんだもの。そりゃ確定だよね。……はぁ。そんでもって、やっぱり今回も京香の思い通りになったわけだ。自分達が帰ったことを知れば犯行をしやすくなる。邪魔者がいなくなったわけだから、なんの枷もない。……僕としては、第六感を働かせて逃げて欲しかったんだけどな。これで完全に詰み、か。
諦念が心を満たしていく。もうさっさと帰って不貞寝したい気分だ。
一方、京香は少年の心情など無視して、犯人と思しき人物に確認を取った。
「鬼龍院の各分家当主殺害。それは貴様の犯行だな?」
大我は平然とした様子で肯定する。
「あぁ、そうとも。ぼくがやったんだよ。何もかもね」
堂々と言い切る彼に、黒髪の美少女は目を眇めた。強い違和を感じるかのように。
静かな反応の京香に反して、香澄は取り乱した様子で言葉を紡ぐ。
「どうして……? どうして沙耶姉を殺したの!? なんで貴方が!?」
喚き散らす栗髪の少女に、大我は口角を上げたまま答えた。
「それがぼくにとって必要なことだからだよ。ぼくは鬼龍院の当主にならなきゃいけないんだ。それが父さんの遺志だからね」
「父さんの、遺志……」
その言葉に、暗人が反応を見せる。しかし彼の心情をよそに、殺人者は自分語りを続けた。
「ぼくの父はね、非常に素晴らしい人間だった。ぼくは物心ついた時から、父を尊敬していたんだ。あの人は昔からぼくにこう言っていたよ。“お前は頂点に立ちなさい。私にはできないことでも、お前ならきっとやれる”って。病気で死ぬ前にも、あの人は同じことを言った。大和に、ではなく、ぼくに。大和よりも劣っているこのぼくに! それだけ、あの父はぼくに期待してくれていたんだ。それを裏切るわけにはいかない。だから――」
「父のために人を殺し続けた、とそう言いたいんですか?」
暗人が、言葉を被せた。混沌を凝縮しきった瞳に、鋭さを帯びさせながら。
「その通りさ。邪魔になりそうな連中はことごとく殺したし、これからも殺す。そうすればいずれぼくは頂点に登り詰めることができる」
「ははっ。でしょうね。自分より優秀な人間を消していけば、そりゃあそうなるでしょうよ」
「……何が可笑しいんだい?」
「全部です。あんたの言ってること考えてること何もかもが可笑しい。さっき父の遺志と言いましたね? 笑わせないで欲しいな。あんた、父のことなんか何も考えてないじゃないか」
「……なんだと?」
大我の口端が下降する。明らかなマイナス感情の現れ。されど、少年は遠慮などすることなく口を動かし続けた。
「あんたの父が、なんで死ぬ前に優秀な弟ではなく、あんたに頂点になれなんて言ったのか。それは、あんたが努力できる人間だったからだろ。天才は慢心して努力することを怠る。でも、秀才にはそれがない。天才は秀才に打ち倒されるのが常。だからこそ、あんたの父は天才の弟ではなく、秀才のあんたに遺志を託した。つまり――あんたの父は、あんたに諦めるなってことを伝えたかったんだ。それなのに、あんたは意味を履き違えた。僕からしてみれば、あんたは父の言葉を免罪符にして、間違ったことを繰り返す負け犬にしか見えないよ」
「違う! そんなことは――」
「いいや、違わないね。あんたは努力することを諦めた。その時点で全部台無しだったんだよ。父の遺志を踏みにじったんだ。そうとも知らずに、あんたは父の遺言を利用して自分の心を満たそうとした。優秀な人間への妬みを爆発させて、自分勝手に動いた。最初に弟を殺したのが何よりの証だ」
「……黙れ」
俯き、怒気を孕んだ声を吐き出す大我。しかし暗人の口は止まらない。
「あんたは父の遺志を受け取ってなんかいない。単に利用しやすい免罪符として使っていただけ。そんな奴に、父の遺志云々を語る資格なんか――」
「黙れよおおおおおおおおおおおおお!」
鬼の形相となりながら、殺人者はポケットからハンカチを取り出し、便の中身、赤い液体をそれに染み込ませた。
そして。
「まずはお前達から始末してやる! どうせ“見られたところでなんの意味もない”だろうが、今のぼくは機嫌が悪い! そこの鬼龍院もいずれ消すつもりだったし好都合だ!」
言葉の直後、大我の前に冷気が発生し、次の瞬間、ヒトガタの何かが出現。
氷で出来た彫像のような姿。目もなく鼻もなく口もなく、性別の区別もつかない、まさしくヒトガタ。
おそらくは、氷の妖精であろう。
暗人が冷静に分析する中、状況は絶え間なく進み続けていた。
妖精の前に、大量の氷柱が生まれ出てる。
先端の尖り具合を見るに、人の殺傷など容易であろう。奴はそれをやろうと言うのだ。
「さぁ――死ねッ!」
大我の号令一下、氷柱が三人目掛けて殺到する。その数実に三五。
室内は一二畳分の広さがあるが、それでも回避は不可能。横に飛んでも、後ろに下がっても、身をかがめても、確実に死ぬ。
しかし――それは、暗人と香澄だけの話。
ここには、彼女がいる。
史上最強の、魔術師が。
逢魔京香は瞬き一つすることなく、迫り来る氷の群れを見つめていた。常人からしてみてば、それは死神の軍勢が到来しているような景観である。が、彼女にとっては天から降る雪も同然。なんの恐怖も抱く必要がない。
それを証明するが如く、彼女は一体の精霊を召喚した。
そのサイズは二メートル。全身が炎に覆われたトカゲ。
それは創作物に少々でも触れた者であれば、誰でも知っている。
火の精霊、サラマンダー。
オオトカゲの口から炎が吐き出される。それは放射状に伸び、飛来する氷の柱の全てを一瞬で溶かし、そして、大我の前に陣取っていた氷の妖精までも蒸発させた。
「うぉっ!?」
無様に後ろへと跳び退り、尻餅をつく虎龍院当主。
黒髪の美少女は用済みの召喚物の帰還を見届けると、肩をすくめながら言葉を紡いだ。
「ふん、まるで児戯だな。歯応えがなさすぎる。……それにしても暗人よ。貴様、先程は中々良いことを言っていたなぁ? 聴いてる最中、私は鏡を召喚したくなったよ。それを貴様の目の前に置いたなら、さぞかし素晴らしいワンシーンとなっていただろう」
「……僕はいいんだよ。グレーゾーンだから。一応、ちゃんと父さんの遺志は守ってるつもりだし」
「つもりなだけでまるで守れていないと思うがな、私は。まぁ良い。そこも貴様の長所だ。矛盾と歪みがない貴様など、存在価値ゼロのゴミカスでしかないからな」
クスリと笑う京香。それから彼女は、大我に鋭い視線を浴びせた。