第一章 9
「やれやれ、仕方のない奴だ。では、少しだけじゃれてやろう。この私が相手をしてやるのだ。感謝しろよ、このクソ犬めが」
獰猛な笑みを顔面に貼り付ける京香。それと同時に、黒い獣が吠えた。
まるで戦闘開始の合図。それが轟いた途端、少女は大地を蹴っていた。
輝く黒髪がなびく。その走行速度は、人間離れ、というより完全に人の域を超えている。
彼我の距離は、常人であれば縮めるのに最速でも二秒。されど、彼女はその間合いをコンマ五秒で、たったの二歩で埋め尽くしてしまった。
これは、彼女が魔術師であるがゆえの動作だ。
京香が使用したのは、魔術の基本、召喚から外れた“四種”の理の一つ。“身体強化”である、
暗人は和也と香澄に魔術を“異世界から何かを召喚する術”であると説明した。それは間違いではない。圧倒的大多数の魔術師は、基本たる召喚に属する魔術しか使えないのだから。
さりとて、元来魔術というものは、“生命エネルギーたる魔力を使用し、様々な奇跡を起こす”ことを指す言葉である。魔術師はその理念に近い者から順に格付けがなされており、逢魔家当主にして、歴史上最強の魔術師“姉妹”とされる京香の格は、全魔術師の頂点、到達者。
彼女は魔術の理念をほぼ完璧に体現できる、世界でもただ一人の人間だ。
基本たる“召喚”は神話の登場人物さえ呼び出す究極魔術、“大召喚”を可能とし――
基本外の理、“身体強化”を使えば、地球上のあらゆる動物を上回る肉体となり――
基本外の理の二、“幻惑”を使えば、無機物、有機物問わず変化でき――
基本外の理にして、机上の空論とされてきた“自然”を使えば、天候操作は勿論のこと、穏やかな海は瞬く間に荒れ、砂に覆われた大地は肥沃な土へ変わり、極寒の地が灼熱のジャングルになる。
だが、そんな彼女も基本外の理、最後の一たる“魔法”だけは使えない。
それでも、逢魔京香が現在、史上最強にして世界最高の魔術師であることは疑いようのない事実である。
その証拠に――
「ハッ!」
裂帛の気合。それと共に、いつの間にか手元に召喚された一振りの剣が振るわれる。
その剣速がまた凄まじかった。音の壁をブチ破りながら接近する刃を、ヘルハウンドは見ることもできない。
結局、黒き犬は出現場所から一ミリも動くことなく、京香の手によって胴を切断され絶命したのであった。
「ふん、こんな程度か。じゃれることもできんとは駄犬にも程があるわ。物陰でこそこそしているゴキブリ野郎の方がまだ楽しめるぞ」
死に至ったことでこの世界から元の世界へと帰還するヘルハウンド。それをつまらなさそうに見つめながら、京香は右手で握っていた剣を放り捨てる。
それが、物陰から僅かに出していた暗人の顔面、その近くに突き刺さった。
「うわっ!? ちょっ、君、わざとだろ! これ絶対わざとここに投げただろ!」
「見物料としてその命を私に捧げても文句は言えん立場で、よくもまぁのうのうと文句を垂れられるな、貴様は。その厚顔無恥さには驚かされる」
悪びれることなく言い放つ京香に苛立ちを覚えながら、暗人はチラと突き刺さった剣を見やった。
元の世界に帰還していくそれ。華美に過ぎる装飾などはないが、それでも気品が感じられる両刃剣。
「これってもしかして――エクスカリバー、だったりする?」
「そうだが、それがどうかしたのか?」
京香の声を聞いて、暗人は呆れたように息を吐いた。
聖剣エクスカリバー。知名度抜群のこの武器は、並の魔術師では召喚できないレベルの異世界物体である。
それをまるで無銘の刀でも扱うが如く使い捨ててしまう京香。その才覚には、一般人でしかない暗人ですら驚きを通り越して呆然としてしまう。
――関係を持つようになってから一年近く経ってるけど、この子には底ってものが見えないんだよなぁ……。
魔術師の才覚には“生命エネルギー使用時の効率の良さ”、“他世界との繋がりの強さ”、“滞在世界における因果律の征服力”があるという。
生命エネルギー即ち魔力の使用効率が高ければ、術を使用した際の消耗が少なくなる。反対にこの才覚がない場合、生命エネルギーの過剰消費により、魔術を使っただけで寿命が削れてしまう。
他世界の繋がりが強ければ、その分様々なものを召喚可能となる。この才覚がない場合、大したものは呼び出せない。ちなみに、平均的な魔術師が召喚可能な物体の限界は、動物であればライオン程度の戦闘能力を持つ個体、武器であれば超マイナー鍛冶職人が作った業物程度。
滞在世界における因果律の征服力だが、これが高いか低いかによって、基本外の理が実行可能か否か決まる。というのも、身体強化、幻惑、自然の三種は、魔力によって因果律を書き換えているがゆえに実現可能な理とされているからだ。
大概の魔術師には、この才覚がない。あっても精々身体強化が使いこなせるかどうか程度。幻惑は当然のこと、自然に至っては、歴史上使用可能と確認された者は京香を含め五人。
――で、この子はそういった才能が全部洒落になってないんだよな。ゲームで言えば、カンストしてる状態からさらに限界突破してバグが起きてる感じ。同業者からしたら、尊敬されるか毛嫌いされるかのどっちかだろうね。僕としては後者だとしか思えないけど。
黒髪の美少女の力には敬服するが、彼女の人間性には不快感しか抱けない。ゆえに、彼が京香を評価することはないのである。