第一章 8
――奴等は弱者じゃない。幸せになれるってことは、強者である証なんだ。そんな連中はどうなろうとどうでもいい。あの和也のくそったれは特になああああ……! 主人公みたいな奴等は全員僕の敵だ。いずれあのムカつく面を絶望色に染め尽くしてやるぜええええええ……!そんでもって鬼龍院さんは僕の隣にずっといてもらう。
その時を妄想して、ニヤけ顔をさらに気持ち悪くする暗人。
しかしほんの一瞬だけ顔を曇らせ、弱々しい言葉を吐露した。
「僕だって、あいつらみたいに幸せになりたいよ……」
無意識のうちに出た言葉に嘆息すると、再び幸福な妄想に浸りながら周りを見回す。
そして。
「ん? あれは……」
暗人の暗澹とした目が、“それ”をキャッチした。
近寄り、腰をかがめ、注目する。建設途中の建物、その近くに落ちていた、その不審物を。
「これって、ハンカチ……だよね」
拾って観察してみる。デザインだけでも高級感は十分にあったが、手触りで確信した。このハンカチは相当高価なものである、と。
「この一件、僕に運が向いてるようだね。天原に人が来ることなんてめったにない。そんな場所、しかも殺人現場真っ只中に落ちていた物品となると、そんなのはもう犯人の私物としか考えられないよね」
思わぬ幸運に、少年は口端を吊り上げた。
不審物がもたらしてくれた情報はもう一つ。真っ黒なシミだ。これは血液によるものと見て間違いないだろう。シミが広がる範囲はさほどのものではない。おおよそ三センチ四方といったところか。この程度のことで所持品を捨てるということは、犯人の性格が潔癖症地味たものであると推測できる。
「後は被害者についての詳細を調べて、犯人となんらかの結びつきがないかを推測。それから容疑者をリストアップ…………僕の人生でこんなにも順調に進んだことってあったっけ? いやぁ、本当に今回はツイてるなぁ」
ニコニコ顔で、ハンカチをポケットの中にしまう。無論、このことは秘密にする。あのお邪魔虫には絶対に言わない。
「さて、探索を進めようかな。もしかしたらまだ何か残してるかもしれないし。……それにしても、今回の魔術師は無用心っていうか、世間知らずっていうか。確かに魔術を使って犯罪をしても、誰かがその罪をおっ被るだけで自分が逮捕されることはないけれど、でも、京香みたいな魔術犯罪を取り締まる人間のことは意識するはずなんだけどな。だから自分と結び付けられるような証拠品を、わざわざ現場に残すなんてことはしないと思うんだけど……。とんでもない潔癖症なのかな? 自分の危険よりも、汚いものを捨てることを優先するレベルの」
とりあえず、今はその仮説で納得することにした。
それから、少年は自分の担当区域を隅々まで注視したが、新しい証拠品は見つからなかった。
そして、三叉路の岐路へと戻る。そこには既に、京香が立っていた。
「私の方は何も見つからなかった。貴様はどうだ?」
「僕も収穫なしだよ。残念残念」
しれっと口にする少年。罪悪感などゼロ。
「ほぉう? そうかそうか。では、これからどうしたものだろうな」
「とりあえず解散でいいんじゃないの? 学校には早退届け出したから行っても意味ないし。まったく、僕の貴重な勉学の時間を下らないことで削らないで欲しいな」
「安心しろ。学力などは裏工作すればなんとでもなる。それこそ万年ビリっ欠野郎を学年トップにすることだって可能だ」
「……そんな不正をしなくても、僕は学年トップになるから。後は君を倒すだけだしね」
「ふん、まぁせいぜい頑張ることだ。貴様が頭脳で私を上回ることなど、世界が何巡しようとありえんがな」
自信満々に返す京香。いつもなら歯噛みするところだが、今の暗人は平常心を保ったままである。
――どうやら、現段階では僕の方が犯人に近づいてるみたいだね。見てろよ京香。君の好きには絶対にさせないからな。
心の内で対抗心を燃やしながら、少年は口を開く。
「じゃ、僕はもう行くから。君も気をつけて帰るんだよ」
言って、帰路につこうとする暗人。しかし――
“奴”は、それを許してくれなかった。
ザリ、という音がする。それはちょうど、少年が踵を返した瞬間に響いた。
彼の真っ黒な瞳と、彼女の紅い瞳が、招かれざる客の姿を映す。
岐路へ繋がる一本道。二人からおおよそ一〇歩分歩いた場所に“四足歩行”で立つそれ。
体長は一メートル五〇程度。色は漆黒。形は犬や狼を思わせる。
目の色は京香と同じ血色。しかしながら、爛々と輝くそれには白目が一切なく、目と思しき部位は全体が真紅に染まっていた。
明らかにこの世のものとは思えぬ外見をしたその生き物。それの名を、京香は一発で的中させた。
「ほう、ヘルハウンドか」
「正確に言えば、“ヘルハウンドの外見と伝承通りの力を持つ異世界生物”だね」
二人の顔に、動揺の気は皆無。京香は楽しげに口を半月状にし、暗人はまたかと言わんばかりに嘆息する。
「じゃあ例によってあれの始末お願い。僕戦闘要員じゃないから。物陰で応援してあげるよ」
「ふむ、例えばだ。黒くてぬめり気があり、二本の触覚を持つ害虫がいるとしよう。それが人の形をしたなら、きっと貴様そのものになるのであろうな」
「人をゴキブリ扱いしないでよ、このラフレシア女。何を言おうがこれからどうなろうが、僕は見てるだけだから。じゃ、頑張ってね」
心のこもっていないエールを送ると、少年は足早にそこから離れ、左側通路の入口へ。建物を盾として、動向を見守る。