リンシタイケン
――僕は何故ここにいるんだろう。
そう考えて、ここは何処だ? という疑問が次に浮かんできた。普通はそっちが先に浮かぶべきなのだろうが。
真っ白な空間だ。一点のくすみもなく純白だが、目を刺すような眩しさはない。くすみがあるとすればそれはきっと『僕』だろう。それ以外には何一つない。
僕は今、座っているから、床はあるんだろう。真っ白でわからないけれど。でも壁はあるのかどうかわからなかった。ここが部屋ならあるはずだけれど、見渡す限り白だから、やはりそれも定かではない。
「おーい……」
反響するか試しに呼びかけてみるが、返ってくる音はない。やはり壁はないのだろうか。
「うぅ……」
「! ……あれ?」
唸るような声が背後から聞こえて、僕はびくっとして身体を竦ませた。勢いよく振り向くと、そこには一人のおじさんがいた。さっきまで誰もいなかったのに。
僕がそのひとを男性、と称さなかったのは、顔だけとは言え彼を知っていたからだ。彼は『僕を轢いた車の運転手』だった。
五十を少し過ぎたくらいのおじさんは、身体を起こすと、自分を見つめている僕に気がつき、顔に似合わぬつぶらな瞳を限界まで見開いた。
「君は……」
「ど、どうも」
僕は何て言ったらいいのかわからなくて、とりあえず挨拶をした。おじさんが頭に『はてな』を浮かべながらも「どうも」と返してくれる。
困惑しているらしいおじさんは、やはり困惑した口調で僕に訊いた。
「ここは何処だ? 私たちは何でこんなところに?」
「いや、わかりません。オレも気がついたらここにいました」
僕は首を振りつつ答える。おじさんは答えを少しは予想していたのだろう、「そうか……」と呟き辺りを見回した。
僕もそれに倣い辺りを見回してみる。そして、気がついた。
白紙に墨汁を垂らしたように、『真っ白』に一点の『真っ黒』がいることに。
おじさんと同じように、さっきまでいなかったはずのそいつは突然そこに現れた。目を瞬く僕の方に、そいつはふわりと舞い降りてきた。
舞い降りてきた、ということは、そいつはそれまで地上にいなかったということだ。そう、そいつは浮いていたのだ。浮いてさえいなければ、僕はそれをヒトと称しただろう。だが『真っ黒』なそいつの背中にはカラスのような漆黒の翼が生えていたのだ。その時点で少なくともヒトではあるまい。
舞い降りてきたことでおじさんもそいつに気がついたようである。反応の薄い僕とは対照的に、彼は「うわわわ」と青ざめ後ずさった。
印象的だったのは肌の色だった。そいつはこの空間に負けないくらい真っ白な肌をしていた。そう判断がついたのは、そいつが身に纏う真っ黒な布、ローブというのだろうか、それから唯一出ていた顔が女性のように白かったからだ。女性のように、だから、きっとそいつは男だろう。僕の本能はそう告げている。でもそいつの顔は秀麗で、女性と見紛うほどの美人っぷりだったから、もしかしたら、女性かもしれない。
そしてそいつは座ったままの僕らを見下ろし、その美しい顔の部品である端正な唇を歪めるようにニヤリと吊り上げた。
「どいつもこいつも貧相な顔してやがる。見ているこっちがいらいらするぜ」
……間違いない。そいつは男だ。しかも今の発言から察するに、かなり性格が悪そうに思われる。
その考えが顔に出てしまっていたのか、そいつは僕の顔を見て不機嫌そうに黒瞳を細めた。
「んだよ、なんか不満でもあんのかてめぇら。喧嘩なら買うぞ、こら」
てめぇらってことは、おじさんもか。僕のせいでおじさんまでそいつのいらいらの標的になるのはよろしくない。大変よろしくない。
僕は慌てて首を振った。
「不満なんて……。あんた、いや、あなたは天使ですか?」
するとそいつは一瞬面食らったように目を瞬いた。そのあと大きく口を開けて、喉仏がくっきり見えるくらい顔をのけ反らせて、それは豪快に笑い出す。
思ったことをそのまま口にしたつもりだが、僕は何か変なことを言っただろうか?
「おまえ、馬鹿か?」
今だ治まらぬ笑いを、ひぐひぐ言いながら抑えつつ、そいつはいきなり僕を罵倒した。
「この状況で俺が出てきたら、フツーは悪魔だと思うだろ!? それを天使? ぜってーイカれてるわ、おまえ頭大丈夫?」
至って頭は正常です。僕はむっとしてそいつを睨んだ。いくら温厚派を自称する僕でも、ここまで言われれば多少はいらつく。
「じゃあ悪魔なんですか?」
と、僕。
「いや、天使だ」
と、そいつ。
……あれ? なんか矛盾してないか?
訝しむような目でそいつを見ると、そいつはさも当たり前というように「天使だ」と繰り返した。
「だって今悪魔だって……」
「『悪魔だと思う』って言っただけだ。『悪魔だ』なんて一言も言ってねぇよ」
……ごもっとも。揚げ足取りみたいになっているが、僕だってやりたくてやってるわけじゃない。本当は今すぐにでもここが何処かとか、何でここにいるのかとか訊きたいことは盛り沢山だ。でもそいつの年格好が僕に近く見えるためか、この調子で話してしまっている。
と、僕の後ろから突然声が聞こえ、僕はびっくりして振り向いてしまった。おじさんの存在をすっかり忘れていたことに関して、僕は否定すまい。
「なあ、天使でも悪魔でも何でもいい。あんた、ここが何処か知っているのか? 私はどうしたんだ? 何でこんなトコロにいる? 私は」
「突然飛び出して来たちっこいガキを避けようとしてハンドル切って、ちゃあんと歩道を歩いてたそこのガキを轢いちまった、だろ」
刹那、おじさんの顔が文字通り凍りついた。
ある程度予想していたけど、やはり僕は死んでいるみたいだ。そして、おじさんも。
「死んだ……? 私は死んだのか……」
「そ。死んだぜ、おまえ。粘土を壁に叩きつけたみたいに、ぺちゃんこにひしゃげてな」
戦慄く唇を必死に動かして言葉を紡ぐおじさんとは反対に、自称天使は淡々と言った。感情が欠落した、冷たい声音だ。
僕はそれに僅かながら恐怖を抱いたが、おじさんにそんなのを感じる余裕はないみたいだった。
「おまえもだぜ、ガキ」
「はあ……」
おじさんなんてどうでもいいといった感じに天使は僕を見た。僕はとりあえず頷く。
突然そんなことを言われても困るし、その実ある程度予想はしていた。いまさら「おまえはすでに死んでいる」なんて言われても、北斗の拳じゃあるまいし、何て言ったらいいのかわからない。
僕の反応がイマイチ薄いことに何か思うところがあったのか、彼は僕の顔をまじまじと観察し始めた。
じろじろ見られて、僕は拗ねたように唇を尖らせ肩を竦めた。僕は自分の顔の造りがいいとは思っていないから、あまり顔を観察されるのは好まない。
天使はそんな僕に対し口を開き、しかし言葉を発する前にそれはおじさんに遮られた。
「何で私なんだ……。私はいつも通り会社に出勤しただけなのに。まだやりたいことも沢山あったんだ……。娘の結婚式だってまだなのに……。私は真面目に勤めていただけ、嫌だ、まだ死にたくない……!」
それは悲痛な声だった。天使は開きかけていた口を閉じ目を眇ると、僕の前を大股で横切った。ローブが少し翻り、何も履いていない素足が一瞬あらわになる。彼はそのまま恐怖に丸まるおじさんの傍らに歩み寄った。長いローブが床を擦り、ずりずりと音をたてる。
すぐそばにやって来た天使におじさんが顔をあげる。そのまましゃがみ込んで慰めるのかと思いきや、天使は顔と同じく白磁のような脚を振り上げおじさんを蹴り飛ばした。
「あがっ」
「おじさんっ!」
ちょっとボールを蹴ったような、緩い蹴り方だったにも関わらず、おじさんはゆうに二メートルは吹っ飛んだ。ろくに受け身も取れず、背中から床に落ちたおじさんは上手く呼吸が出来ないのか苦しげに喘いでいる。
駆け寄ろうとした僕は、はっとして僕の脚を見た。
「脚が……!?」
脚が全く動かなかった。脚を掴むとちゃんと痛いから麻痺というわけではないみたいだ。ただ脚の筋肉がごっそり無くなってしまったかのように、力だけが入らない。
「いまさら気がついたのか。ま、死んでここに来て、立ち上がろうとするやつなんざいねぇから、気がつかねぇまま逝くやつも多いんだがよ」
天使は何とか立とうと試みる僕にそう言うと、倒れたままのおじさんに歩み寄り、その襟首を掴むと片手で持ち上げた。親猫が子猫を運ぶときのように、それはもう軽々と。僕と同じように力が入らないだろうおじさんの両足は、今や完全に床から離れている。
明らかに僕より痩躯なのに、なんという力だろう。やはり彼は人外の存在なのだ。
天使はもがくおじさんを冷笑すると、何の前触れもなくおじさんを床に叩き落とした。
「うぐぅ!」
「おじさん! おじさん! おい何してんだ、やめろよ、おじさん死んじまうぞ!?」
僕の声など聞こえないというように、天使は何度も何度もおじさんを床に叩きつけた。鈍い音が何度も響く。最初は天使の腕を掴んでいたおじさんの手が脱力すると、天使はようやくおじさんの襟首から手を離した。
どさりと床に落ちたおじさんはぐったりとしているが、なんとか息も、意識もあるようだった。
「死ぬ? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。てめぇらはもう死んでんだ。二度は死ねねぇ」
僕は自分の失言に唇を噛んだ。ちゃんと痛覚はある。手だって、着ている服だって生前と変わらない。脚も動かない以外変わったところはなかった。それでも、やはり死んでいるのだろうか?
「死んでるよ、おまえは」
僕の心を見透かしたように、天使は言った。
見上げる僕に、天使は続ける。
「ここは『狭間』だ。ニンゲンの言うあの世と現世の間。死と生の中間。身体はねぇが、精神、つまり魂のみが存在する理の隙間だ」
僕はどこまでも続く、ただ真っ白な空間を見た。何もない、すべてが無の空間。生も、死も、世の理すら存在しない、有り得るはずのないセカイ。
「で、俺はその『外れたセカイ』に落ちた魂を、正しい場所に導く役目を担った天使様だ」
腕を組み、高慢な態度で僕を見下ろす天使は「さあ、崇めろ」と言わんばかりにニヤリと笑った。白と黒しか色彩を持たない天使が、いまさらながらに悪魔に見え始める。
ふと、僕は疑問を感じた。何故この天使はこんなことを僕に説明するんだろう。
さっき天使は、脚が動かないのに気付く前に逝く魂がほとんどだと言った。なら、ここに落ちた魂はすぐに天使に導かれ、正しい場所へいったということになる。つまり普通の魂は時間が短いはずだ。自分の前からいなくなる魂に狭間のことを説明しても意味はない。
なにか理由があるのか?
「ふぅん。顔のわりにゃ鋭いんだな」
「え?」
「『何で俺にこんな話をするんだろう』って顔してるぜ」
僕は思わず顔に手をやった。
天使が嗤う。
「わかりやすい反応だな。やっぱ馬鹿か?」
ひどい言われようだ。けど僕は言い返したりしなかった。おじさんのことが頭を過ぎったのもあるが、なにより今話している相手が、本来僕が口をきいていい相手ではない、と悟ったのが主な理由だ。
天使は僕に背を向けると、再びおじさんの襟首を掴んで持ち上げた。おじさんは意識が混濁しているのか、抵抗もせずされるがままになっている。
息を詰めた僕の前で、天使はまるで物を扱うように、おじさんを軽く揺すった。
「俺がおまえにこの話をしたのはおまえがこのじじいの命握ってっからだ」
「は?」
「だからおまえがこいつの命ぁ握ってるっつってんだよ。おまえの一言でこいつは『上』に逝くか『下』に堕ちるか決まる。こいつはおまえを殺したんだからな」
「はあっ!?」
なにを言い出すんだ、この天使は!?
「あ、あれは事故だろ! さっきあんたも言ってたじゃんか! こどもがいきなり飛び出してきたって。それを避けるためにハンドルをきったって。完全に不可抗力だろ」
「でもおまえを轢き、死なせたっつー事実に変わりはないんだぜ? それにこいつが運転中うわの空だったのは事実だしな」
それは初耳だ。僕は口をつぐんだ。
「徹夜でふらふらのまま一人で車に乗ったんだからよ、意識が飛んでもだぁれも気づいちゃくれねぇ。それで事故ったんだから世話ねぇよな」
天使はふん、と鼻で笑う。
その時、おじさんが天使の腕の先で「うぅっ」と身じろきした。半開きだった瞳が焦点を結んでいる。
僕の「おじさん!」という声は聞こえなかったのか、おじさんは天使を見つめ、掠れた声でこう言った。
「……部下が、風邪を……ひいて……遅らせるわけ、には……いかなかった……。私がやるしか、なかっ、たんだ……」
刹那、僕はそれを錯覚だと思った。あまりに現実味がなくて、そしてあまりに――恐ろしかったから。
天使が笑った。そこまでなら今までとなんら変わらない。しかし、その眼が今にもヒトを喰い殺しそうな眼だったら、口元から覗く犬歯が異様に鋭かったら、どうだろう。
僕には天使が、悪魔に見えた。
「あぁ――お優しいこった。風邪で辛いですーって部下のために夜遅〜くまで仕事して。いい上司だ。ああ、いい上司だぜ。けど……そりゃてめぇの事情だろうが。あ? そうだろ?」
天使は手を離し、おじさんを床に落とした。
僕は嫌な予感がした。あの天使の凄絶な笑みが脳裏を過ぎって、背筋が凍るような感覚に捕われる。
殺される。無意識にそう思った。
「このガキがてめぇの命握ってるっつった瞬間に言い訳かよ? はっ! だからニンゲンは嫌いなんだよ! 誰だっててめぇが一番大事。他人なんて二の次だよなぁ?」
「そん、な……」
「だってそうだろ? 俺がてめぇがこのガキを殺したって教えたあと、一度だって謝罪したか? してねぇよなぁ。『何で私なんだ』だと? てめぇが寝不足のまま車に乗ったからだよ。こっちのガキのが訊きたいだろうよ、『何で俺なんだ』ってな。それが本性なんだよ。結局自分だけがカワイイ醜いバケモノ。それがニンゲンだろ!? ……いいこと教えてやるよ。俺がこんな面倒くせぇ辺境の地を担当しているか。おまえらみたいな魂はな、頭潰しても心臓えぐっても死にゃしねぇんだよ。だからいくらでも」
天使が脚をあげる。
「好きなだけいたぶれんのさ!」
天使がおじさんに脚を振り下ろすのと、その軌道上に僕がからだを割り込ませたのは、ほぼ同時だった。
「……っ!」
なんて力だ! 僕はみっともない声をあげぬように歯を食いしばった。直撃を喰らった背中がぎしぎしと軋んでいる。力を『散らす』ように受けなければ、内蔵破裂くらいはいっていたかもしれない。
「……何のつもりだよ、おまえ」
低い声に顔をあげれば、天使の漆黒の瞳が僕を見下ろしていた。
仮面のような無表情だ。しかし僕にはそれが戸惑いを隠しているためのものに見えた。
僕はニヤリと口角を吊り上げた。
「根性、あるだろう?」
僕がさっきまで座っていた場所は、天使やおじさんがいる場所から約三メートルは離れていた。僕はその距離を動かない脚を引きずり、腕だけで這い進んだのだ。
僕の表情が気に入らなかったのか、天使は少しばかり苛立った口調で言った。
「聞いてねぇよ、そんなこと。何のつもりだっつってんだ」
「ん? ただあんたの蹴り喰らったら痛そうだなって思っただけだよ」
「答えになってねぇよ!」
「オレも、おじさんと同じだってこと」
天使が沈黙する。
僕はおじさんに覆いかぶさるようにしていた身体を起こし、天使に向き直った。
「オレは確かにこのおじさんに轢かれて、死んだかもしれない。でもおじさんを怨んじゃいないし、罰を与えようとも思ってない」
「は? んなこたどーでもいいわ。同じってどういう」
「おじさんは誰とも知らないこどもを護るためにハンドルを切った。あの勢いでハンドルを切れば脇に突っ込むってわかっていただろうにね。いや、咄嗟だったから考えていたわけじゃないのかな。まあ、つまりおじさんは脊髄反射で誰かを護る道を選んだってことだ。だから俺はおじさんを怨まない。オレが死んだことで一つの命が救われたんだ。悪くないだろう?」
僕は天使を見つめた。世界三大美女にも負けずと劣らない美しい顔容。その中でも一際光り輝く黒曜の瞳が僕の目に焼き付く。
ああ、綺麗だ、と思う。美しく、艶やかな、夜の湖面のような深い瞳。濡れた膜が光を反射して、煌めく闇夜の星を連想させる。深く、淡く、暘るく、昏く。憂いを宿し、同時に強い意思を持つ瞳。
一つのものにここまで惹かれたのは、初めてのことだった。見惚れてしまう。どこか遠く、手の届かぬ高みにあるものを欲するような、そんな感覚。
僕の頭を天使がぶん殴ったのは、僕が脳内にそんな考えを展開させてから数秒と経たない内だった。
「――――、いたい……」
「当たり前だ。痛ぇようにしたんだからな」
この天使は手加減というものを知らないらしい。僕の頭はあと少しでもげるところだった。
涙ぐむ僕を見下ろして、天使は黒瞳を細めた。
「んなもん、きれいごとだ」
「言うと思った」
僕は自然と笑っていた。何故だろう? 自分でもわからない。
そんな僕を天使はキョトンとした顔で見ている。もしかしたら、天使の意表を突けたのが嬉しかったのかもしれない。
「オレさ、結構恵まれた生活してたと思うんだよね」
天使は無表情に戻り、無言で続きを促してきた。
「両親ともに健在だし、生意気だけどなんだかんだ言って仲の良い妹もいるし、学校だって特にトラブルもなかった。頭も悪いほうじゃなかったし、運動音痴ってわけでもなかった。将来を夢見て、こうしたい、ああしたいって言える生活してた。嫌なことも少なくなかったけど、楽しいことのが多かったと思う……」
僕は身体の影で痛いほど拳をにぎりしめた。
掠れるな、僕の声。零すな、僕の目。深呼吸しろ。頬を濡らすことを、僕のちんけなプライドは良しとしないだろ。
「……だから、そんな生活を奪ったおじさんに対して、負の感情を抱いていないかって言われたら、オレは多分頷けない。オレの本音はおじさんと一緒だ。何でオレなんだ、まだ死にたくない……。ははっ……矛盾してるだろ? あんたの言う通りだ、きれいごとだよ。全く怨まないなんて不可能だ。そういう生き物なんだよ、ニンゲンって。どんなにベールで包んでも、誰もが絶対醜い部分を持ってる。認めたくなくてもオレ自身が一番わかるからね、そういうとこは。醜くて、見苦しくて……、誰かを護りたいって、思える綺麗さも持ってる。オレはニンゲンってそういう生き物だって……」
「そう、思ってるってか?」
「そう、信じてるんだよ」
うまく笑えただろうか? 正直、自信はない。
その時、身体を支えるために床に置いていた僕の手が、温かいなにかに包まれた。
視線を落とすと、おじさんの片手が僕のそれに重ねられていた。思わず強張った僕の手を、おじさんが弱々しく握る。
「……めんな……ごめん……ごめん、な……」
掠れた、小さな小さな声だったけれど、それはちゃんと僕らの耳に届いた。
僕はただその手を握り返した。何も言えなかった。何を言えばいいのかもわからなかった。僕はあなたを赦しているということを、伝えたかった。
そんな僕たちを見て、天使はその綺麗な弧を描く眉を歪め、大きくため息をついた。すっと右手を虚空に伸ばす。なにかを掴む動作をすると、ガラスが砕けるような音と共に『真っ白』だった空間にひびか入った。ひびの奥から『真っ黒』が覗く。
息を呑む僕たちの前で天使は一気に腕を引いた。清らかな白い空間にまがまがしい『真っ黒』なそれが姿を顕す。
「……なんだよ……それっ……」
僕のつぶやきに答えるように、天使は身の丈ほどもある漆黒の鎌を軽く持ち上げた。
「これか?」
「それ以外に何があるっていうの!?」
「鎌だ」
「いや、それは見ればわかる……」
「俺の相棒。銘は教えねぇ。こいつを呼んでいいのは俺だけだからな。こいつは天界、人界において空間を斬ることの出来る唯一無二の刃だ」
そう言って鎌を片手に笑う姿は、もうそのまんま悪魔だ。僕らニンゲンの認識する天使というのは、実は悪魔を指す言葉だったのか? 頭を抱えたくなるくらい、今の天使の姿は悪魔以外には見えなかった。
「クソじじい、感謝しろよ。そのガキのおかげでおまえは堕ちなくてすむんだからな」
え、と声をあげた僕とおじさんの前で、天使は刃を一閃した。ひゅん、と風を斬る音が響き、僕は思わず身をすくませる。鎌の刃渡りは一・五メートルくらい。あんなをあんなスピードで振るったのが万が一にでも当たったら、痛いどころか胴体真っ二つだろう。
しかし僕の思考はそこまでだった。天使が刃を振るったその先に、一瞬にして『真っ黒』が出現したからだ。
それは言うならば、丸。円。球ではない。立体ではなかった。まるでそこに壁があって、その一部を漆黒の鎌で丸く切り取ったような、そんな感じだ。
呆気にとられる僕に、天使は言った。
「おまえ、歳は幾つだ?」
「え?」
「歳は幾つだって訊いてんだよ」
「十九……」
「十九か。んじゃ、十年やるよ」
「は?」
この天使は物事が唐突すぎる。とりあえず僕は詳しい説明を求むぞ。
そう言うと、天使は悪びれもせずこう宣った。
「俺様権限で寿命を十年、与えてやる。だからそれで俺に見せてみろ。おまえの信じるニンゲンってやつを」
「え……」
僕の頭がそれを理解するまで、軽く見積もって五秒を要した。
「ええぇええ!? ちょ、ちょっと待って、」
「待たない」
「えぇ!? 待ってよ!」
「時間がねぇんだよ。さっさと穴ん中入れ。そうすればおまえは身体に戻れる」
「そうじゃなくて、」
「だあぁ! うるせぇな! 言う通りにしてりゃいいんだよ!」
あまりの剣幕に思わず口をつぐんだ僕を、天使は穴の前まで引きずって来ると、とん、と僕の背を軽く押した。
それだけで吹き飛ぶ僕。忘れていたけど、天使は怪力だった。
反転する視界。『真っ黒』に放り出された僕は、こっちを見て微笑むおじさんの口が五つの言葉を紡ぐのを見た。思わず、手を伸ばす。最後に吊り上がった天使の口元を捉え、僕の視界は『真っ黒』に塗り潰された。
僕は青い空の下、小さくため息をついた。
ここは病院の屋上だ。僕の他にここに在るのは、丁寧に洗われ、干されている洗濯物だけ。
――三日前。長時間の心肺停止から奇跡的に生還した僕は、両親が泣き、妹に怒り、医者が信じられないと驚いているのを、ベットの上で他人事のように眺めていた。それは単純に生き返ったのだという実感が沸かなかったからなのだが、喋れることに気づいた僕が最初に訊いたのは、おじさんのことだった。
医者の先生におじさんは即死だったと聞いたとき、僕は落ち込んだ顔をしていたんだと思う。そばにいた妹は、涙で頬を濡らしながら、はっきり怒った口調で言った。
――自分の心配だけしてろよ! ばか!
僕はそれに苦笑で返すしかなかった。それからというもの、僕を支配しているのはあの『真っ白』な空間での出来事だけだ。
「和彦、こんなとこでなにやってんだよ」
僕が振り向くと、そこには妹の楓が洗濯籠を持って立っていた。
高校一年生の楓は、僕のことを名前で呼ぶ。まあ、兄さんなんて呼ばれたら逆に鳥肌ものだから、僕としてはあまり気にしていない。
楓は答えない僕に痺れを切らしたのか、ふん、と顔を逸らし籠をよっこらせと持ち直すと、竿のほうに歩き出した。洗濯の詰まった籠が重いのか、足元がふらふらだ。見兼ねた僕が籠を持ってやろうと手を伸ばすと、楓は「いい」と言って僕の手を弾いた。
「和彦は病人なんだから、余計なことすんな。これくらい一人で運べる」
楓はそのままふらふらと竿までたどり着くと、洗濯を干し始めた。言うまでもなく、僕の服だ。自分のくらい自分で、と思ったけど、きっとまた楓に怒られるなと思い、また一人思考に沈むことにした。
暫く無言が続く。
先に口を開いたのは楓だった。
「うざいよ」
「は?」
予想外の言葉に僕は声をあげた。本当にこの妹は僕を兄と思っているのか? 飾りも何もないストレートな罵倒に、さすがの僕も辟易する。
楓の口舌は止まらない。
「何悩んでんのか知らないけどさぁ、うじうじすんの止めてくれる? それ一番ムカつく。一人で三日も悩んで解決しなかったんだろ。もう一人じゃ答えなんてでねぇに決まってんじゃん」
背中でそれを聞きながら、僕は思わず微笑んだ。
「……楓」
「なに」
「慰めてくれてんの?」
「は? 自惚れんなよ、ばーか」
口調は荒いけれど、その声は温かかった。
一人で悩むなと、この器用な妹は言っている。相談しろと、暗にそう言ってくれているのだ。
僕は心の奥の留め金が緩んだのを感じた。言うべきではない、とわかっていても、僕の口は止まらなかった。
「……オレ、十年後は何してるのかな……」
「さあ?」
即答だった。
がくっと脱力する膝を何とかその場に留め、僕は口元を引き攣らせた。
こっちが真面目に訊いてるってのに、こいつは……!
なにか言ってやろうと口を開いた僕は、次の楓の言葉に文句のすべてが消滅したのを感じた。
「やりたいことを、してんじゃないの」
僕はつかの間言葉というものを忘れた。心中に渦巻くそれを表現する術を、その時の僕は持たなかった。ただ、キリストの声でも拝聴するかのように、僕より後に生まれた、僕が護るべき存在である少女の言葉を聞いていた。
「和彦が何したいのかは知らねぇけど、無事大学にも入れたんだし、また昔習ってた空手でも始めてさ。四年間遊んで、勉強して、……やりたいことなんて自ずと見つかんだろうし。何で焦ってんのかは知んない。やっぱり死にかけたからか、それとも違う理由かも知んない。でもさ、ゆっくりでいいんじゃない? かず兄に急ぎ足は似合わねぇよ」
楓は笑っていた。
きっと平気な顔をしていても、僕の瀕死というのは彼女に少なからず衝撃を与えていたんだろう。無意識に昔の呼び名で僕を呼ぶほどに。
僕の中に溜まっていたなにかがすっと抜ける。無意識のうちに身体が強張っていたんだなと、いまさら気がついた。
「ゆっくりでいい、か」
そうだ、自ずと見つかる。急いで探して半端なことをするより、じっくり時間をかけて自分が納得できることをすればいい。
僕はまた、空を仰いだ。
――おじさん、あなたがどうなったのか知らないけど、きっと天国に行けたのだと僕は信じています。
――そこから見えますか? オレ、あなたに自慢できるように生きます。
――あんたが本当に天使かどうかわかんないけど、ちゃんと見せるよ。ニンゲンの生き様を………
また思い付きで書いてしまいました……。連載の方の執筆しなくちゃって、わかってるのですが……。
初めて書いた一人称。どうでしたか?
感想などいただけるとうれしいです!