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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第9話 私の庭


王都から手紙が届いた。封蝋には、王家の紋章が押されていた。


マティアスが恭しく差し出したその手紙を、温室の作業台で受け取った。土のついた指で封を切るのは躊躇われたが、ルーカスが「開けろ」と促した。


中身は、王族からの視察依頼だった。


辺境ソルヴェイグ領の薬草園が短期間で目覚ましい成果を上げていることが、王都にまで伝わっている。痩せた辺境の土地でこれほどの品質の薬草を大量栽培する技術に、王立薬草院が関心を示しているのだと。


「視察を受け入れてほしい。王立薬草院の薬師長と、王族の代理官が訪問する」


ルーカスが手紙を読み上げた。声が少し上擦っている。


「これは大きいな。王立薬草院が正式に関心を示しているということは、国家レベルでの薬草供給体制に組み込まれる可能性がある」


「そんなに大きなことなんですか」


「辺境領の薬草園が王都から注目されること自体、前例がない」


ルーカスの目が輝いていた。学者としての興奮が隠しきれていない。


「それと、もう一つ」


ルーカスは書簡の束から一通を取り出した。


「王立学術院から返答が来た。僕の論文が正式に受理された」


あの日の言葉を思い出した。庭の隅で初めて花を咲かせた日に、ルーカスが呟いた言葉。「この魔法の価値を、世に証明したい」。あの約束が、形になろうとしている。


「おめでとうございます」


「僕だけの成果じゃない。君の魔法がなければ、実証データは取れなかった」


お互いに少し気恥ずかしそうに目を逸らした。温室の棚に並ぶ薬草が、朝の光を受けて青々と輝いている。数ヶ月前は枯れかけの苗しかなかったこの場所が、今は辺境領の薬草供給の中心になろうとしている。ルーカスの理論と、私の魔法と、この痩せた辺境の土が、三つ揃って初めて実現したことだ。どれが欠けても成り立たなかった。



同じ頃、別の噂も届いていた。


アシュフォード公爵領で疫病が広がっている。冬の感冒が例年より重く、薬草の備蓄が底をついた。かつての薬草園は壊滅状態のまま復旧の目処が立たず、他領からの輸入で凌いでいるが量が足りない。


領民の間ではこう囁かれているという。「前の奥方様がいれば、こんなことにはならなかった」と。


皮肉なものだ。いた時は「不要」と言われ、いなくなったら「必要だった」と言われる。人の価値というのは、失われて初めて測られるものなのだろうか。


セレーヌ様の立場も揺らいでいるらしい。社交界で「あの公爵夫人を追い出した女」と陰で呼ばれ始めている。公爵夫人の座を手に入れたはずなのに、座った椅子が傾いている。グレン様との関係も冷え込んでいるという話が、商人づてに。


その噂を聞いた時。正直に言う。少しだけ、溜飲が下がった。


ひどい人間だと思う。領民が苦しんでいるのに。でも三年間封じられた怒りが完全に消えるには、まだ時間がかかる。


「あの庭が枯れたのは、私のせいではありません」


誰にも聞こえないように呟いた。使者に言えなかった言葉。


あなたたちが封じた。あなたたちが不要だと言った。枯れたのは、私のせいではない。



夕方、温室の片付けをしていた時。棚の下に、見覚えのないものが落ちていた。


拾い上げると、小さな芽が出ている。


鉢でも苗ポットでもない。裸の種。


あの種だ。


公爵邸を出る時に庭の隅から拾った一粒。枕元に置いていたのがいつの間にかポケットに入っていて、温室のどこかで落としたのだろう。


枯れた種だと思っていた。もう芽は出ないと。


でも、芽が出ている。小さな緑色の双葉が、種の殻を割って顔を出している。温室の床の、冷たい石の上で。土もなく水もなく、ただ私のポケットの中の温もりだけで。


私の魔力が無意識に注がれていたのだ。ポケットの中で、枕元で、ずっと。封印されていた三年間も、あの公爵邸でも。毎晩枕元に置いて、毎朝ポケットにしまって。お守りのように。自分でも気づかないまま、この種だけは枯らさなかった。


「……ずっと、生きてたんだ」


種のことを言っている。でも、それだけではなかった。


三年間、枯れたと思っていた。力を封じられ、価値を否定され、不要だと言われ続けて、私は自分が枯れたのだと思い込んでいた。


でも枯れてなどいなかった。封印の下で、魔力は脈打ち続けていた。この種に芽を出させるほどに。


私は三年間、自分のことを「枯れた人間」だと思っていた。価値のない、不要な、封じられて当然の存在だと。グレン様がそう言ったから。セレーヌ様がそう振る舞ったから。使用人たちが目を逸らしたから。


でも種は知っていた。私のポケットの中で、魔力の温もりを受け取り続けて、ずっと知っていた。この人は枯れていない、と。


喉が、詰まった。鎖骨の下が痛い。目の奥が熱い。


だめだ。また泣くのか。最近泣きすぎだ。でも。でもこの種は。


この種は私だ。


枯れたと思われて捨てられた種。でも実は、ずっと生きていた。そして今、芽を出した。


ここが、私の庭だ。


公爵邸の庭ではない。あの完璧な庭園ではない。ここだ。この辺境の、痩せた土地の、修理跡の残る温室が、私の場所だ。


温室の入り口にルーカスが立っていた。いつから見ていたのか。


「ルーカス。見て」


芽の出た種を見せた。ルーカスは近づいてきて、種を覗き込んだ。


「これは。発芽条件を満たしていないはずだが。土壌もない状態でこの大きさの双葉は、通常では」


学術用語が出かけて、止まった。


「……学名ではなく」


ルーカスが呟いた。独り言のような声。


「学名ではなく。好きだと、言いたい花がある」


え、と声が出た。


ルーカスは自分の言葉に自分で驚いた顔をして、耳まで真っ赤になった。


「い、今のは。論文の、結語の草案で」


「結語にそんなこと書くんですか」


「書かない。書かない。忘れてくれ」


忘れられるわけがなかった。


芽の出た種を両手で包んで、窓の外を見た。辺境の大地に夕日が沈んでいく。荒野の彼方に、訓練で咲かせた花畑の名残がかすかに色づいている。


種を鉢に植えた。丁寧に土をかぶせて、水をやった。温室の一番日当たりのいい場所に置いた。


咲くだろう。きっと。この種は、ここで咲く。


私と同じように。この場所で、もう一度。


鉢の中の双葉が、夕日を受けて小さく揺れた。まるで頷いているように。

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