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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第8話 戻りません


公爵家の紋章がついた馬車が、辺境の一本道に砂埃を立てていた。


温室の修理がほぼ終わり、薬草園の再建も順調に進んでいた頃。荒野での訓練を重ねるうちに魔力の制御は安定し、以前より力強い花を咲かせられるようになっていた。辺境の暮らしにも慣れ、領民と言葉を交わすようになっていた。


そんな穏やかな午後に、それは来た。


「旧奥方様にお目通りを願いたい。アシュフォード公爵家よりの使者でございます」


マティアスが困った顔で取り次いだ。土のついた手を拭きながら、居間に向かった。


使者は公爵家の紋章入りの外套を着た中年の男だった。見覚えがある。公爵邸の事務官の一人。名前は覚えていない。三年間、すれ違っても挨拶程度しかしなかった人。それでも彼の顔を見た瞬間、あの屋敷の匂いがした。書斎の紅茶と、庭園の手入れされた芝と、冷たい廊下の石の匂い。一瞬で、あの三年間に引き戻される。


「お久しぶりでございます。……旧奥方様がお元気そうで、何よりでございます」


言葉に詰まったのが見えた。「奥方様」と呼びかけて、慌てて「旧」をつけた。


「ご用件は」


「公爵様がお戻りを望んでおられます」


「領地の薬草供給が深刻な状況にございまして。旧奥方様のお力を」


「戻りません」


即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。


使者は目を見開いた。条件次第では応じると思っていたのだろう。


「旧奥方様、どうか今一度」


「考える余地はありません。私はもう、アシュフォード家の人間ではありません」


「しかし、領民が」


「領民の方々には申し訳なく思います。けれど」


ここで言葉が詰まった。言いたいことが、渋滞した。


必要なのは私じゃなくて、私の魔法でしょう。三年間、その魔法を封じたのはどなたですか。三年間花を禁じておいて、今さら花を求めるのですか。必要な時だけ引っ張り出して、不要になったら。


言え。言ってしまえ。


「三年間、その魔法を封じたのはどなたですか」


声に出たのは、一文だけだった。それ以上は出なかった。それ以上言ったら、震える。震えたくなかった。この人の前では。


使者が黙った。答えられるはずがない。この人も知っていた。公爵夫人の手首に封印が刻まれていたことを。「体が弱い」と紹介されていたことを。三年間、一度も花を咲かせなかったことを。


皆知っていて、誰も何も言わなかった。


「お引き取りください」


使者は深々と頭を下げて、出ていった。馬車が砂埃を上げて去っていくのを窓から見送った。


爪が掌に食い込んでいた。怒りだと思った。でも違った。爪を緩めた時、掌に残ったのは怒りではなく、ひどく冷たい悲しみだった。


(必要なのは私じゃなくて、私の魔法)


三年前からずっとそうだ。ベルフラワー家の「植物魔法の血筋」が必要で、「イリス」が必要だったわけではない。そして今も同じだ。「植物魔法」が必要なだけ。私という人間は、いつだって後回しで、いつだって交換可能な部品扱いだった。


違う。ここは違う。ルーカスは私の魔法だけでなく、私の意見を聞く。私の体調を気にする。私の背丈に棚を合わせる。


それがどれだけ救いになっているか、あの使者にはわからないだろう。



窓の外を見ていたら、ルーカスさんが温室から出てきた。使者の馬車が去ったことに気づいたのだろう。こちらを見て、少し迷ってから、歩いてきた。


「大丈夫か」


「はい。もう平気です」


平気ではなかった。でもこれ以上誰かに心配をかけたくない。


ルーカスさんは同じ方向を見ていた。しばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……論文の話をしてもいいか」


唐突だった。でもこの人はいつもそうだ。


「僕が王立学術院に提出した論文のことだ。植物魔法の学術的再評価に関する」


「ええ。以前お聞きしました」


「あの論文の目的は、学術的な再評価だけじゃない」


ルーカスさんは眼鏡を押し上げた。夕日を反射して、レンズがオレンジ色に光った。


「植物魔法が正当に評価されれば、封印される魔法使いはいなくなる。“庶民の魔法”だからと蔑まれることもなくなる。君のような人が、二度と花を奪われることがないように」


足が止まった。


この人は。きっかけは、私だったのか。


「僕が君の魔法を初めて見た日。庭の隅で花を咲かせた日に思った。こんな美しい魔法を封じる世界のほうが間違っている、と」


あの日、ルーカスさんはノートに夢中で、私のことは意識の外にあるように見えた。でも本当は見ていたのだ。花を、ではなく、花を封じられていた私を。


背骨の一番下から、何かが這い上がってきた。名前のない感情だった。怒りでも悲しみでもなく、もっと柔らかくて、でも確かに熱い。


「……ルーカス」


さん、をつけなかった。意図的に。声に出してみると、その二音が空気の中で違う響きを持った。「ルーカスさん」は丁寧で距離がある。「ルーカス」は近い。近いのが怖くなかったと言えば嘘になる。でも、この人にだけは近づきたいと思った。


「ルーカス」


もう一度。彼は少し驚いた顔をして、耳の先が赤くなった。夕日のせいではない。


「ありがとう。私の花を、ただの道具じゃなく見てくれて」


ルーカスは何か言おうとして、口を開けて、閉じて、もう一度開けて、結局、眼鏡を直すだけだった。三回直した。四回目に手を伸ばしかけて、自分でやめた。


沈黙が流れた。気まずくはなかった。


温室のほうから、子供たちの声が聞こえてきた。リリと、その友達。最近は何人かの子供たちが温室に遊びに来るようになっていた。


「おねえちゃーん! お花見せてー!」


「おねえちゃんすごいー! きのうの花まだ咲いてるよー!」


すごい。きれい。公爵邸では一度も聞けなかった言葉が、ここでは毎日飛んでくる。


まぶたの裏側がじんとした。泣きはしない。代わりに、笑った。


「目にゴミが……」


「風が強いからな」


ルーカスがさりげなく風上に立った。私の顔が見えない位置に。


子供たちに囲まれながら、小さな花を咲かせて見せた。リリが「紫がいい!」と叫び、友達が「白!」「ピンク!」とリクエストを飛ばしてくる。一輪ずつ、色を変えて咲かせた。


使者が残していった公爵家の名刺を、ポケットの中でそっと握りつぶした。


もう戻らない。ここが、私の場所だ。


夕日が辺境の大地を赤く染めていた。明日も、花を咲かせよう。

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