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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第7話 咲き直す


マティアスが私に見せたのは、色褪せた一枚の押し花だった。母の花だという。


暴走から二日。温室のガラスはルーカスさんが手配した職人が修理にかかっている。暴走で溢れた花は枯れ始め、領民たちの間には「あの女は危険だ」という噂が広がっていた。


リリはまだ来ない。


「お嬢様のお母様も、同じことをご経験されました」


マティアスは押し花を丁寧にテーブルに置いた。薄紫色。私が庭の隅で咲かせた花と、同じ色。


「同じ……暴走を?」


「ええ。お母様もベルフラワー家の植物魔法をお持ちでしたから。魔力の制御には苦労されていた。特に感情が高ぶると、魔力が溢れてしまうと」


母の話をこんなに詳しく聞いたのは初めてだった。公爵邸にいた三年間、実家との連絡は制限されていたし、それ以前も母は魔法の話をあまりしなかった。苦労していたから語りたくなかったのか、それとも私に同じ苦労をさせたくなかったのか。今となってはわからない。でもマティアスの口から聞く母は、私が知っている母よりずっと生き生きとしていた。


「お母様はこの辺境の荒野で練習をされた。誰もいない場所で、思い切り魔力を解放する。そうすることで蓄積した魔力を安全に放出し、制御の感覚を取り戻していかれた」


「荒野で……」


「温室のような狭い空間では、暴走した魔力の逃げ場がない。でも荒野なら、どれだけ花が咲いても壊れるものは何もありません」


マティアスは穏やかに微笑んだ。


「お母様は仰っていました。『花は閉じ込めるものではない。広い場所で、好きなだけ咲かせればいい』と」


好きなだけ。その言葉が、乾いた砂に水が染み込むように入ってきた。



翌朝、ルーカスさんと荒野に出た。見渡す限りの灰色の大地。風が強い。空が広い。


「ここなら、何を壊しても問題ない」


ルーカスさんがノートを開いた。風でページがはためく。


「蓄積魔力の放出は、一度の暴走では完了しない。意図的に、制御しながら放出する訓練をする」


「でも、あの時は制御できなかった」


「あの時は不意打ちだった。今は違う。覚悟を持って、自分から開く」


理屈は通っている。でも怖い。暴走の記憶がまだ生々しい。花が止まらなくなる感覚。ガラスが割れる音。リリの声。


「怖いか」


「……はい」


「そうだろうな」


特に慰めもせず、ただ頷いた。


「僕が魔力の波形を読む。暴走の兆候が出たら声をかける。波の谷で止め、吐き、止め、吐く」


「理論上は、ですか」


「……いや」


ルーカスさんは珍しく言い直した。


「大丈夫だ。君なら」


理論ではなく、信頼の言葉。この人がそういう言い方をするのは初めてだった。


手のひらを見た。まだ少し痺れが残っている。でもこの手で、三年ぶりに花を咲かせた。温室を壊すほどの花を。


目を閉じて、魔力の蓋を自分から開いた。


来る。


魔力が指先に押し寄せる。あの時と同じ圧力。恐怖で体が強張った。逃げたい。蓋を閉じたい。


花が咲いた。足元の灰色の大地に、一面の花が。白、紫、青、黄色。放射状に広がっていく。


「波が来る。止めろ」


息を止めた。吐く。また止める。吐く。波に乗るように繰り返す。


最初はぎこちなかった。二回目でタイミングを外して、花が一気に五メートル先まで広がった。ルーカスさんがノートに何かを書き込んでから「もう一度」と声をかけてくる。失敗しても責めない。データを取って、次に活かす。この人の冷静さが、今は何よりも心強い。


三回目で少し楽になった。五回目で、波のリズムが掴めた。魔力にも呼吸がある。植物に呼吸があるように、魔力にも吸って吐く周期がある。その谷間を狙えばいい。母はきっとこの感覚を知っていた。だから荒野で練習したのだ。


七回目。魔力が滑らかに流れ始めた。暴走ではない。意図的な解放。蛇口を全開にしながら、水の勢いを制御している感覚。あの温室では到底できなかったことが、この広い荒野ではできる。母も同じだったのだろうか。この同じ場所で、同じように、花を咲かせることを恐れながら、それでも手を伸ばしたのだろうか。


花が広がっていく。荒野の灰色が、色に変わっていく。


目を開けた。


荒野が花で埋まっていた。


見渡す限り。灰色だった大地が色とりどりの花で覆われている。温室で咲かせた繊細な花とは違う。もっと野生的で、力強くて、でたらめで。けれど、美しかった。


風が吹いて、花弁が舞い上がった。空に色が散る。


「枯れない花なんてない」


声が出た。自分に向けた言葉だった。


「でも、咲き直せる」


母が教えてくれたのだ。言葉ではなく、この同じ荒野で花を咲かせたという事実で。


ルーカスさんがノートを閉じて花畑を見回した。眼鏡を外して拭き始めたが、レンズに花粉がついているだけで、別に曇ってはいなかった。


「……美しい」


花のことなのか、それとも。聞かなかった。


帰り道、馬を並べて走りながら手首を見た。封印の痕跡、枯れ枝模様の最後の一筋が、いつの間にか完全に消えていた。ただの手首に戻っている。


三年分の枷が、ようやく全部消えた。


十六歳で刻まれた封印。三年間、毎朝目が覚めるたびに確認していた枯れ枝模様。まだあるか。まだ消えていないか。それが日課だった。いつの間にか、封印がある自分のほうが「普通」になっていた。ないほうが違和感を覚えるくらいに。


でも今、手首はただの手首だ。傷跡も、紋様の名残も、何も残っていない。三年間の証拠が何もない。まるで最初からなかったみたいに。


それが少しだけ悔しかった。消えてほしかったけれど、消えた後に「なかったこと」にされるのは嫌だった。あの三年間は確かにあった。封印は確かに私を縛っていた。それを忘れたくはない。


忘れたくはないけれど、囚われたくもない。前を向こう。


屋敷に戻ると、温室の前にリリが立っていた。俯いて、靴の先で地面を掻いている。


「……おねえちゃん」


「リリ」


「あのね。こわいって言って、ごめんなさい」


小さな声。目に涙が溜まっている。


「おねえちゃんの花、やっぱり好き。こわくない。好き」


膝をついて、リリと目線を合わせた。


「ありがとう、リリ。私も、自分の花が好きになれそうよ」


リリが抱きついてきた。小さな腕の力が、不思議なほど温かかった。この温もりを、ずっと忘れないでいよう。

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