第6話 暴走
花が、止まらなかった。
その朝も普段通りに温室で作業をしていた。薬草の苗に魔力を注ぎ、根の成長を促す。昨夜感じた指先の痺れは朝になったら消えていた。だから大丈夫だと思った。
指先が、熱い。
いつもと違う。注いだ魔力が苗に吸収されずに溢れ返っている。量が、昨日までとまるで違う。体の奥底から押し上げられるような圧力。
手のひらの下で、薬草が異常な速度で成長を始めた。茎が伸びる。枝が分かれる。葉が開く。一本だった苗が五本に増え、十本に増え、棚を覆い尽くしていく。
止まって。
止まらない。
魔力が指先から噴き出すように溢れている。蛇口を閉めようとしているのに、ハンドルが空回りする。三年分の封印で蓄積された魔力が、堰を切ったように流れ出している。
棚の苗が爆発的に成長し、ガラスの壁に蔦が張り付いた。窓が軋む音。薬草だけではない。名も知らない花が温室のあちこちから咲き出した。天井に向かって茎が伸び、花が開き、花弁が散って床を埋めていく。色が溢れている。美しいはずなのに、今はただ恐ろしかった。
みしり、と温室の柱が鳴った。
ガラスにひびが入った。外の冷気が一筋、頬を撫でる。
「イリスさん!」
外からルーカスさんの声。
「来ないで! 近づかないでください!」
叫んだ。でも足が動かない。花に埋もれた床に座り込んでしまった。止められない。止め方がわからない。
また、だ。また私の花が壊している。
封じられるのも当然だ。こんな制御もできない力、迷惑でしかない。グレン様が封印したのは正しかった。セレーヌ様が「田舎の魔法」と嗤ったのも、正しかった。だって見ろ、この有様を。棚は倒れ、ガラスは割れ、数日かけて育てた薬草は暴走の花に飲み込まれている。私がここにいる意味なんて。
温室の扉が開いた。ルーカスさんが花を踏みながら入ってきた。
「来ないでと言った」
「言っただろう。僕は理論担当だ」
息が上がっている。走ってきた。でも声は不思議なほど落ち着いていた。白衣の裾に花弁がまとわりついている。普段と同じ格好なのに、花に埋もれた温室の中ではどこか場違いで、それでいてこの人以外にここに立つべき人間はいないと思った。
暴走する花の群れを見回して、ノートを取り出した。この期に及んでノートを。この人は世界が崩壊しても最初にノートを開くのだろう。
「蓄積魔力の放出反応だ。封印が長期間続いた後に起きる現象で、Meisner論文に報告がある。魔力の総量が閾値を超えると制御系を迂回して放出される。つまり、君のせいじゃない」
「でも、温室が」
「温室は直せる。ガラスは買える。だが君の魔法は、買えない」
私の前にしゃがみ込んだ。花に囲まれた中で、眼鏡のレンズに花弁が一枚くっついていた。それに気づかないまま、真剣な目。
「暴走とはいえ、こんな種類の花を同時に咲かせられる魔力量は記録にない。君の魔法は制御を外れてもなお美し」
温室の外で、泣き声がした。
「おねえちゃん!」
リリだ。割れた窓の隙間から中を覗き込んでいる。溢れ返った花と、座り込んだ私と、散乱した温室を見て。
「お花のおねえちゃん、こわい」
こわい。
そう言われた。花が、こわいと。
頭の中で何かが切れた。
ああ。やっぱりそうだ。こわいよね。私の花はこわいよね。グレン様もそう思った。セレーヌ様も。だからあの公爵邸で、三年間。三年間私は。
だめだ。だめだ。そっちに行くな。
でも止まらない。花と同じだ。止め方がわからない。思考が。花が。魔力が。リリの声が。あの子の顔。泣いていた。私を見て泣いていた。怖がっていた。私の。花を。
咲くな。咲くな。お願いだから。
涙が溢れた。花と一緒に。魔力が漏れるたびに足元に小さな花がぽつぽつ咲いていく。泣くたびに増える。自分の弱さが、目に見える形で広がっていく。
「イリスさん」
ルーカスさんの声。近い。感情を排した、学者の声。
「制御できる」
「蓄積魔力の放出には波形がある。波の谷間で呼吸を止めれば、魔力の出力を一時的にゼロにできる。僕がタイミングを計る。君は、僕の合図で息を止めるだけでいい」
理屈だった。感情の嵐の中に、冷たい理屈が差し込まれた。
「できるか」
「……はい」
声が出た。震えていたけれど。
ルーカスさんは暴走する花の揺れを見つめていた。花びらの揺れ方から魔力の波形を読み取ろうとしている。
「三つ数える。三で止めろ。ひとつ」
花が揺れる。ルーカスさんの声だけに集中する。
「ふたつ」
魔力の圧が一瞬弱まるのを感じた。波の谷。
「三」
息を止めた。指先の魔力が、止まった。花の成長が止まる。温室が静かになる。一瞬だけ、世界が止まったような錯覚。
ゆっくり息を吐いた。魔力が再び動き出したが、さっきより穏やかだった。
「もう一度。同じタイミングで」
三回繰り返した。波の谷で止め、吐き、止め、吐き。そのたびに暴走は弱まり、四回目には魔力漏出がほぼ止まった。
温室は花で埋まっていた。壁のガラスは二枚割れ、棚は蔦に覆われ、床に花弁が積もっている。数日かけて育てた薬草は暴走の花に飲み込まれ、計器類はずれ、ノートも花弁まみれ。
惨状だった。けれどルーカスさんは温室を見回しても顔色を変えなかった。壊れたガラスの枚数を数え、倒れた棚の位置を確認し、ノートの花弁を払ってページを開いた。この人の冷静さは、鈍感とは違う。壊れたものを嘆くより先に、次に何をすべきかを考える性分なのだ。
私は花の中に座り込んだまま、泣いていた。声は出ない。ただ涙が流れ続けるだけ。
「……ごめんなさい。温室を、壊してしまって」
「温室は直せると言った」
「でも、薬草が。数日分の作業が全部」
「データは取ってある。やり直せる」
淡々とした口調。慰めでも励ましでもなく、事実を並べている。優しい言葉をかけられたら、もっと崩れてしまう。だからこれが、今の私には正しかった。この人は私が何を必要としているか、理屈で判断して、理屈で与えてくれる。感情ではなく。それがどれほど助かるか、本人は気づいていないのだろう。
「僕が理論を出す。君が実践する」
ルーカスさんが、散乱した花の中に立って言った。
「制御できる。僕たちなら」
眼鏡に花弁がくっついたまま。それがなんだかおかしくて、泣きながら、少しだけ口の端が上がった。




