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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第3話 三年ぶりの花


種を手に取った時、指が震えていた。三年分の恐怖が、爪の先まで染みていた。


辺境に来て数日が経った。屋敷の暮らしには少しずつ慣れてきたけれど、魔法だけはまだ使えていない。封印は解けたのに、自分で自分を封じているような感覚がある。


花を咲かせてはいけない。


三年間、毎日そう言い聞かせてきたのだ。たった数日で消える呪いではない。


その朝、私は屋敷の裏手、温室から離れた庭の隅にいた。誰の目にも触れない場所。土は硬く灰色で、雑草すらまばらにしか生えていない。


手のひらに、温室から一粒だけもらった種がある。何の種かはわからない。ルーカスさんの棚に転がっていた、ラベルのない種だった。


魔力を注げば、芽が出る。はずだ。三年前の私なら、朝食前にできたこと。


でも今は、指先を種に近づけるだけで、喉の奥が詰まる。


(また封じられたら?)


(また「いらない」と言われたら?)


(咲かせた花が、誰かに嫌がられたら?)


馬鹿みたい。ここには、グレン様はいない。セレーヌ様もいない。誰も私の花を封じる人はいない。頭ではわかっている。わかっているのに、指が動かない。


深く息を吸った。冷たい辺境の空気が肺を満たす。


花の匂いがしない空気。この土地には、花が足りない。


だったら、咲かせればいい。


目を閉じた。指先に意識を集中する。三年間使わなかった回路を、恐る恐る開く。


魔力が、動いた。


錆びた水道管に水が通るような、ぎこちない感覚。痛みに近い圧力が手首を通過して、指先に溜まっていく。


種に触れた。


最初は何も起きなかった。土の中で種が沈黙している。やっぱりだめだ、三年も使わなかったから、もう。


ぴ、と。


土の表面にひび割れが走った。


小さな緑色の芽が、ひびの隙間から顔を出す。針の先ほどの大きさだったそれが、私の魔力に応えるように、ゆっくりと伸びていく。


茎が伸びる。葉が開く。蕾がふくらんで、ほどけた。


薄紫色の花。小さな、素朴な花。名前は知らないけれど、花弁が光を透かして輝いている。辺境の灰色の土の上に、その一輪だけが色を持っていた。


膝から力が抜けて、地面にへたり込んだ。土が冷たい。スカートの裾が泥で汚れる。でもそんなことはどうでもよくて、目の前の一輪から目が離せない。


咲いた。


三年間、封印の下で眠っていた力。誰にも求められず、手首の枯れ枝模様の下で息を潜めていた魔力が、今、花になっている。


指先がじんと温かい。この感覚を忘れていた。花を咲かせる時の、体温が溢れるような感覚。十六歳の頃は当たり前だったそれが、今はひどく尊い。土に膝をついたまま、しばらく動けなかった。冷たいはずの地面が、気にならなかった。花の色だけが目に入っている。世界に色が戻ってきた、と思った。三年間モノクロだった視界に、一輪の薄紫が差し込んだ。


「素晴らしい」


声がして、肩が跳ねた。


振り返ると、温室の入り口にルーカスさんが立っていた。白衣に今日も土がついている。眼鏡の奥の目が、花に釘づけだった。


「こんな精度の魔力制御は見たことがない。発芽から開花まで三十秒もかかっていないだろう。この土壌条件で、促成栽培ではなく自然開花に近い形で……」


早口だった。ノートを取り出して、花を観察しながらぶつぶつと学術用語を呟いている。


「……見ていたんですか」


「ああ。温室の窓から、君が庭の隅にいるのが見えたから。いや、すまない。覗き見をしたわけでは」


少し慌てた顔をしたが、すぐにまた花に目を戻した。慌てたはずなのに、花を見た途端にもう私のことは意識の外にあるらしい。


「この魔法の学術的価値は計り知れない。植物魔法は長年過小評価されてきたが、これほどの精度を持つ実践例があるなら、論文になる。いや、論文にしなければならない。植物魔法の再評価に繋がる」


ルーカスさんの声には熱があった。苗を枯らしてしまった時とは別人のようだ。目の前で起きたことの意味が、学者としての回路を通って一気に形になっている。その勢いに少し圧倒された。


「……再評価?」


「ああ。植物魔法は今、学術界でも『庶民の魔法』として軽視されている。だが実際には、土壌改良、促成栽培、生態系制御と応用範囲は膨大だ。正当に評価されるべきなんだ」


ルーカスさんは花ではなく私を見た。学者の目だった。でもそこにあるのは研究対象を見る冷たさではなく、敬意のようなもの。


「この魔法の価値を、世に証明したい」


唐突な言葉だった。初めて会って数日の相手に言うことだろうか。でもこの人は本気だった。目を見ればわかる。使命感のようなもの。


「……どうして、そこまで」


言いかけて、やめた。その答えを聞くのが、少し怖かった。私の魔法に価値があると言われることが、嬉しいのか怖いのか、自分でもわからなかった。


ルーカスさんは口を開きかけ、迷ったのか、ノートに視線を落とした。眼鏡のレンズに午前の光が反射して、一瞬だけ表情が読めなくなった。


風が吹いた。薄紫の花びらが揺れる。



夕方、台所で夕食の支度を手伝っていると、マティアスが窓の外を見て微笑んだ。


「庭の隅に、花が咲いていますね」


「……はい」


「お嬢様のお母様と同じ色の花だ」


手が止まった。


「母も……紫の花を?」


「ええ。この屋敷にいらした頃、庭じゅうを紫の花でいっぱいになさった。寒い土地でしたから、領民の方々がそれは喜んで」


知らなかった。母がこの土地にいたことも、ここで花を咲かせていたことも。


「お母様は自由に花をお咲かせだった。きっとお嬢様も」


マティアスはそれ以上言わなかった。でも、「自由に」という言葉が喉の奥に残った。


自由に咲かせていい。ここでは、自由に。公爵邸では一度も言われなかった言葉だ。あの屋敷では「慎んでいただきたい」が私への唯一の指示だった。


その夜、枕元に置いた種を見つめながら、指先にまだ残る魔力の余韻を感じていた。


錆びていた水道管に、少しだけ水が通った。まだぎこちないけれど、確かに通った。


明日もう一輪、咲かせてみようか。


そう思えたことが、たぶん、今日一番の収穫だった。


窓の外では風が木々を揺らしている。辺境の夜風は、公爵邸のそれとは違って、土と草の匂いがする。冷たいけれど、生きている匂いだ。この土地の匂いだ。

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