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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第2話 枯れた土地に降り立つ


辺境の風は、花の匂いがしなかった。


馬車を降りた瞬間、冷たい空気が頬を叩く。アシュフォード領の温暖な気候とは別の国のようだ。見渡す限りの灰色がかった大地に、背の低い草がまばらに生えている。空は高く、雲が速い。


ソルヴェイグ辺境領。母の遠縁にあたる土地だと、離縁の手続きの中で知った。行く宛てのない私に、マティアスという老執事が手紙をくれたのだ。「お嬢様のお越しをお待ちしております」と、達筆な文字で。


屋敷は小さかった。公爵邸の玄関ホールほどの広さしかない建物が、丘の上にぽつんと建っている。壁は石造りで、蔦が這い、窓枠の塗装は剥がれかけていた。


けれど、嫌な感じはしなかった。


「イリスお嬢様、ようこそいらっしゃいました」


玄関に立っていたのは、白髪の老人だった。背筋がまっすぐで、皺の深い顔に穏やかな目をしている。


「遠路お疲れでしょう。お部屋をご用意しております」


「……ありがとうございます。ご迷惑をおかけします」


「迷惑だなんて」


マティアスは私の顔をじっと見て、それから少しだけ目を細めた。


「お母様に、似ていらっしゃる」


母の名前を聞いたのは久しぶりだった。嫁いでから三年、母との文通も途絶えていた。公爵家の体裁を考えて、実家とはなるべく距離を置くようにと言われていたから。


「母を、ご存知なのですか」


「ええ。若い頃、この領地にいらしたことがございます。あの方も美しい花をお咲かせになった」


花。その言葉に、反射的に手首を押さえた。封印の紋様はもう消えている。消えているのに、まだそこに重みがある気がした。


マティアスはそれ以上何も言わず、穏やかに微笑んで屋敷の中へ案内してくれた。



荷物を部屋に置いた後、屋敷の裏手にある温室を案内された。


扉を開けた先に見えたのは、枯れかけた苗が並ぶ棚と、土にまみれた白衣の背中だった。


「だめだ。また枯れた。土壌のpH値は適正のはずなのに、なぜ」


男は棚に向かって独り言を言いながら、手元のノートに何かを書き殴っている。白衣の裾には泥、眼鏡には土の跳ね、髪は寝癖なのか元々なのか判別がつかない。


「管理官殿。お客様がいらっしゃいましたよ」


マティアスが声をかけると、男は振り返った。


「ああ、すまない。聞いていなかった」


こちらを見て、言葉が止まった。


「……あなたが、ベルフラワー家の」


「イリスと申します。しばらくお世話になります」


「ルーカス・ソルヴェイグだ。この領地の管理官をしている。植物学が専門で……いや、ご覧の通り、学問と実践は別物でね」


ルーカスさんは苦笑いして、枯れた苗を示した。棚の上の植物はどれも元気がない。葉は黄ばみ、茎はしなだれ、土からは乾いた匂いがする。


「理論上は育つはずなんだ。温度、湿度、土壌成分、全部計算した。なのに」


「……水のあげすぎです」


言ってしまってから、口を押さえた。初対面の相手に、余計なことを。


「水のあげすぎ?」


「あ、いえ。すみません、出過ぎたことを」


「いや、続けてくれ」


ルーカスさんの目が変わった。学者の目だ。興味深いものを見つけた時の、真剣な目。


「……この品種は、少し乾燥気味のほうが根が強くなります。愛情のつもりで水をたくさんあげると、かえって根腐れを起こすんです」


言いながら、自分の言葉が妙なところに刺さった。愛情のつもりで、かえって。


「それから、この苗はもう少し日の当たる場所のほうが良いかもしれません。この棚の位置だと午前中しか光が入らないので……あの、本当に出過ぎたことを」


「いや。いや、待ってくれ」


ルーカスさんは目を輝かせてノートに書き込み始めた。「日照時間か。計算に入れていたが、棚の配置との相関を失念していた。こんな初歩的な。なるほど、だから南棚の苗だけ比較的元気だったのか」


独り言が止まらない。私のことを忘れたのか、棚の前でしゃがみ込んで土の状態を確かめ始めた。背中から嬉しそうな空気が伝わってくる。


不思議な人だ、と思った。この人は枯れた苗の前で絶望するのではなく、枯れた理由を知れたことを喜んでいる。


「すまない、お客様を放置して。お茶をどうぞ。そこの棚に」


示された棚には、素朴な陶器のカップとポット。注いでもらった茶を一口飲んだ。ほんのりと甘い、薬草の味がした。


「飲みやすいように、喉に良い薬草を少し混ぜてある。旅の後は喉が乾くだろう」


さりげない言葉だった。公爵邸では誰も、こんなことを気にかけてはくれなかった。


ふと、ルーカスさんの視線が一瞬だけ私の手首に止まった。封印が消えた跡。まだうっすらと痕跡が残っている。


彼は何も言わなかった。視線を戻し、ノートに目を落とした。


聞かないでくれたことに、ひどく安堵した。



夜。あてがわれた部屋は小さくて、窓が一つだけある。


ベッドに腰かけて、手のひらを見た。馬車の中で咲いた一輪は、いつの間にか萎れて散っていた。けれど指先には、かすかな温もりが残っている。


ポケットの種を取り出して、枕元に置いた。


公爵邸のことを考えた。今頃、グレン様は書斎で仕事をしているだろう。私がいなくなったことに、特に不便は感じていないはずだ。食事の席が一つ減るだけ。洗濯物が少し減るだけ。それだけ。


不思議なことに、それはもうあまり痛くなかった。とっくに覚悟していたからかもしれないし、痛みに慣れてしまったからかもしれない。


それよりも。


温室の枯れた苗を思い出す。ルーカスさんの白衣についた土。薬草茶の甘い味。マティアスの「お母様に似ていらっしゃる」という声。


この土地で、やり直せるだろうか。


わからない。でも、ここには花を封じる人がいない。枯れた苗の前で嬉しそうに理由を探す人がいて、母を知る老人がいて、寒いけれど嘘のない風が吹いている。


それだけで、今は十分だと思うことにした。


窓を閉めて、毛布に潜り込んだ。辺境の夜は寒い。公爵邸にはいつも暖炉が焚かれていたけれど、ここにはない。代わりにあるのは、分厚い毛布と、マティアスが湯たんぽを用意してくれていたという小さな温もりだけ。


誰かが、私のことを考えてくれている。


それだけで体が温まるなんて、単純な人間だと思う。でも三年間、湯たんぽを用意してくれる人はいなかった。


薬草茶の余韻が、まだ喉の奥に残っていた。

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