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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第1話 花嫁は、花を知らなかった


「花のない花嫁」。それが、三年間の私だった。


「君にはもっとふさわしい場所がある」


グレン様はそう言って、銀の万年筆を差し出した。離縁届の署名欄を示す指先には、迷いがない。


書斎の窓から差し込む午後の光が、机上の書類を白く照らしている。紅茶はとうに冷めていた。出された時に一口だけ含んだきり、私はカップに触れていない。


ああ、やっぱり。


不思議と驚きはなかった。この日が来ることを、どこかでずっと知っていた。


三年前、私はこの屋敷に嫁いできた。ベルフラワー子爵家の長女として、十六歳で。持参金の代わりに差し出したのは、一族に伝わる植物魔法の血筋。


けれど嫁入りの翌月、私の手首には封印が刻まれた。


「公爵家の夫人が、庭先で花を咲かせるような真似は慎んでいただきたい」


グレン様はそう言った。合理的な口調だった。婚姻契約の付帯条項にも、確かに記載がある。私は頷いた。十六歳の私は。意味を理解していたかと問われれば、正直に言えば、わからない。ただ頷くしかなかった。嫁いだばかりの私に、公爵様の言葉に逆らうすべなど、ない。


それから三年。


花を咲かせなかった。


庭園には専属の庭師がいて、季節ごとに完璧な花壇を作る。私の力など必要ない。食事はいつも一人。「体が弱い」と紹介された社交の場では、壁際に立っている以外にやることがなかった。セレーヌ様がグレン様の隣で華やかに笑う声を聞きながら、私は自分の手首の枯れ枝模様を袖で隠していた。


あの紋様を見るたびに思った。


私は、花を咲かせてはいけない人間なのだ、と。


たぶん、グレン様は悪い人ではないのだろう。領地経営は確かに優秀で、税収を五年で一・五倍にしたと聞いた。使用人への待遇も悪くない。ただ、花の魔法に価値を見出せない。それだけのこと。


それだけのことで、私の三年間は枯れた。


枯れた花瓶の水を替えること。使用人が捨てる前の萎れた花束を、そっと指で撫でること。それだけが、花に触れられる唯一の時間だった。魔力は使えない。けれど花に触れていると、指先がほんの少しだけ温かくなる気がした。封印の奥で、私の魔力が微かに息をしているのだと、後になって知る。


「イリス」


名前を呼ばれて顔を上げる。グレン様が万年筆を持ったまま、わずかに眉を寄せていた。


「聞いていたか」


「……はい。署名すればよろしいのですね」


万年筆を受け取った。銀の軸が冷たい。重い。この一本が、三年間の終わりを書く道具なのだと思うと、奇妙な気持ちになった。


名前を書く。一画ずつ、丁寧に。


イリス・ベルフラワー。


旧姓を書くのは三年ぶりだった。アシュフォードの名を、もう二度と書かなくていい。


ペン先を紙から離した瞬間、手首がじんと熱くなった。


枯れ枝のように這っていた封印の紋様が、端から薄れていく。婚姻契約に紐づいた封印だ。契約が切れれば、封印も解ける。三年分の重みが、じわりと溶けるように消えていく。


グレン様は私の手首には目もくれなかった。書類を確認し、引き出しにしまう。それだけ。三年間の結婚が、引き出しの中に消えた。


「荷物はすでにまとめてある。馬車も手配した」


どこまでも手際がいい。さすが領地経営に長けた方だと、場違いな感心が頭をよぎる。


「……お心遣いに感謝いたします」


立ち上がる。膝が少し笑ったけれど、気づかれてはいないはずだ。背筋を伸ばす。最後くらい、きちんと立って出ていきたかった。


書斎を出る。長い廊下を歩く。振り返らなかった。


三年間暮らした屋敷なのに、私の痕跡はどこにもない。壁に飾られた花はすべて庭師が活けたもので、私が触れた花は一輪もない。


この屋敷で、私は何を残しただろう。


何も、残していない。


玄関ホールを抜ける時、壁の大きな鏡にちらりと自分が映った。薄い色の髪を低い位置で束ね、地味な灰色の旅装に身を包んだ女。三年前に嫁いできた時は、母がくれた花の刺繍入りのドレスを着ていた。あのドレスは、いつの間にか衣装部屋から消えていた。


……今日の空は高いな。


そんなことを考えた。考えるしかなかった。それ以外のことを考えたら、たぶん。


たぶん、私は。


いや、いい。行こう。



馬車に乗り込む時、使用人が一人も見送りに出なかったことに気づいた。


当然だ。私はこの屋敷で、ほとんど誰とも言葉を交わさなかった。朝の挨拶と、食事の礼と、おやすみなさい。それ以上の会話を、自分から求めたことがない。


御者が手綱を取り、馬車が動き出す。窓の外をアシュフォード公爵邸の白い外壁が流れていく。完璧に手入れされた庭園の緑が、午後の光の中で揺れている。あの庭を、私は三年間、窓越しにしか見なかった。


正門を抜けた。外壁が遠ざかる。


その時だった。


指先が、温かい。


見下ろすと、封印の消えた右手の人差し指の先に、小さな蕾がついていた。


白い、五弁の花。名前も知らない野の花。教本にも載っていないような、ありふれた花。


私の魔力が、勝手に咲かせたのだ。


ぽつり、と蕾が開く。花びらが、一枚ずつ、ためらうように広がっていく。


馬車の揺れの中で、私はその一輪をじっと見つめた。指の上で、花びらが風に揺れている。こんなに小さいのに。こんなに頼りないのに。確かに、咲いている。


鼻の奥がつんとした。


唇を噛んだ。奥歯の裏側まで力が入った。泣いてはいけない。三年間泣かなかったのだ。今さら、こんなところで。


だから泣かなかった。代わりに、声だけが漏れた。


「……咲いた」


小さくて、不格好で、名前もない花。


けれどこれは私が咲かせた花だ。三年ぶりに、私自身の力で。誰の許可も要らなかった。婚姻契約も、付帯条項も、公爵様のお言葉も。ただ指先から魔力を注いだだけで、花は咲いた。こんなに簡単なことだったのだ。こんなに簡単なことを、三年間禁じられていた。


ポケットに手を入れた。指先に触れたのは、小さな種。出発前に、庭の隅から一粒だけ拾ったもの。なぜ拾ったのか自分でもわからない。ただ、何か一つだけ持っていきたかった。


種を握りしめたまま、窓の外を見た。


見知らぬ道が続いている。


私は——まだ、咲けるのだろうか。


答えは出なかった。でも、指の上の花は、まだ咲いている。馬車の窓の外に、知らない町並みが流れていく。ここがどこかもわからない。でも少なくとも、あの白い壁の中ではない。

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