第8話 勇者、テーブルマナーを教える
――翌朝。
俺はキッチンでソーセージを焼いていた。ソーセージの皮が熱で弾け、肉汁が滴る。そろそろ食べごろだ。
「ふああ……」
大きな欠伸が出る。眠い。昨夜は夢見が悪くてよく眠れなかった。まさか親父の夢を見るなんてな。
親父のことなんて長い間忘れていた。いや、忘れようとしていた。少し薄情に感じるかもしれない。でも忘れたくなるくらい、親父の人生は虚しかったと思う。勇者としてチヤホヤされることはなく、朝から晩まで畑仕事。美女ではなく泥まみれのジャガイモに囲まれる日々。もし俺が親父の立場だったら――考えるだけで気が滅入る。
「……あっ、あの、ご主人様」
その時、背後でスウの声がした。いかん、いかん。何を暗い気分になっているんだ。俺にはスウがいるじゃないか!
俺は口角をこれでもかと上げると、振り返った。
「おはよう、スウ……って、え!?」
なぜかスウは今にも泣き出しそうな悲痛な表情をしていた。
「ど、どうしたんだ、スウ! どこか痛いのか?」
「あっ、ちが、違います。スウは、スウはとんでもない過ちを犯してしまいました。ご主人様、申し訳ありませんでした!」
スウはなぜか頭を深く下げる。
「一体何の話をしているんだ? とりあえず頭を上げてくれ」
「……あっ、寝坊したことを怒っていないんですか?」
「寝坊? まだ朝の6時だぞ。むしろ早いだろ」
「でっ、でもご主人様は起きていたじゃないですか! 奴隷がご主人様より遅く起きるなんて、とても許されることではありません。どんな罰でも受けます」
スウは両目をギュッと閉じた。小さな体はカタカタと小刻みに揺れていて――。
俺は小さなため息を吐くと、スウの頭に軽くチョップした。
「はい、罰終了!」
「えっ? えっ?」
目を白黒させるスウに、俺はしゃがんで目線を合わせた。できるだけ優しい声色で、
「昨日はよく眠れたか?」
「あっ、はい。生まれてはじめてあんなフカフカなベッドで寝ました。とっても深く眠れて夢も見ませんでした」
「それはよかったな。これからは朝は8時までに起きればいい。俺は筋トレがあるから早く起きているが、気にしなくていいからな」
「あっ、で、でも」
「これは命令だ。お前は奴隷じゃなくて第二の魔王になるんだから、早起きなど不要なんだ」
「あっ……はい」
ようやくスウは笑顔を見せた。
やれやれ、スウの奴隷根性は骨の髄まで染み込んでいるみたいだな。魔王のように傲慢になるには時間がかかりそうだ。
スウは鼻をヒクヒクさせると、
「あっ、焦げ臭いです」
「し、しまった!」
◇
食卓の上にはパンとサラダ、そして焦げたソーセージが並んでいる。
「ご、ごめんなさい!」
「気にしなくていいよ。食べれないというほどではないし」
「で、でも……そせじが焦げてしまったのは、スウのせいです。本当にごめんなさい!」
「あー、もう! 謝るの禁止! これは命令だからな?」
ようやくスウが黙る。俺は大きなため息をひとつ。
「……じゃ、食べるか」
「は、はい」
するとスウがソーセージに手を伸ばす。昨日みたいに手掴みで食べるつもりなのだろう、そうはいかない。俺はスウの手を軽く叩いた。
「こら! お行儀が悪いぞ」
「あっ、あっ……。す、すいません」
「いいか、スウ? 魔王たるものテーブルマナーは完璧でなくてはいかん」
「あっ、て、てぶるまなーってなんですか?」
そこからか。
「お前は仮にも第二の魔王を名乗ることになる。魔王というくらいだから全てのモンスターや魔族を統べる存在だ」
「は、はぁ」
「そんな魔王が手掴みで食事をしていたら格好悪いだろう。下手したら魔王かどうか疑われる! だからテーブルマナー、つまり正しい食事の方法を習得する必要があるんだ」
「あっ、な、なるほど。でもスウにてぶるまなーなんてできるでしょうか?」
「そんなに難しいものじゃないから大丈夫だ。俺の動きをよく見て、真似してみてくれ。まずは姿勢だ。椅子に深く座って、背筋をピンと伸ばす」
「あっ、はい」
スウが姿勢を直したのを見届けると、俺は両手を合わせこう言った。
「いただきます」
少し遅れて、スウも言う。
「あっ、いた、いただきます」
「よし、じゃあ食べ始めるか」
「あっ、あの。この『いただきます』にはどんな意味があるんですか?」
言われてみればなんでだろう。あまり深く考えたことはなかったな。俺は少し考えると、
「おそらく食材や食材を作ってくれた人、料理してくれた人への感謝の気持ちの表現だ」
「あっ、その、魔王が人間に感謝していいんですか?」
……言われてみればそうだな。じゃあ魔王は食事をする前は何と言うのだろう? いただく、は謙譲語だから変だよな。食べてやるぞ、とか? いや、なんか格好悪いな。いっそ無言の方がいいか?
俺が黙り込んでいるとスウが慌てた様子で、
「あっ、す、すいません。くだらない質問でした!」
「いや、そんなことはない。とても良い質問だ。魔王の立場で物事を考えられるなんて、魔王としての自覚が芽生えた証拠だ。偉いぞ、スウ」
「あっ、えっ、その、ありがとうございます」
「まあ魔王らしい食事前の挨拶はおいおい考えるとしよう。とりあえず今は『いただきます』と言ってくれ」
「あっ、はい。いただきます」
「よし、しっかり言えたな。次はフォークの使い方だ」
俺はテーブルに置かれていたフォークを手に取り、スウに見せてやる。
「これがフォークだ。この四叉に分かれた先っぽで食材を刺して口に運ぶ」
「あっ、な、なるほどです」
「持ち方はこうだ」
「あっ、こ、こうですか?」
スウは俺の真似をして右手でフォークを持つ。少しぎこちないがしっかり持てている。よし、次のステップだ。
「今度はフォークで食材を突き刺してみるぞ。スウ、よく見ているんだぞ」
フォークでソーセージを刺すと、そのまま口に運んで見せる。そしてソーセージをがぶりと噛みちぎった。
スウはパチパチと拍手をしながら、
「あっ、す、すごいです、そせじ食べるのが上手です!」
「ま、まあな」
こんな簡単なことで褒められるなんて。なんか少し恥ずかしいな。
俺は小さく咳払いをすると、
「さ、次はスウがやってみてくれ」
「あっ、は、はい」
スウはフォークをソーセージにゆっくり近付ける。緊張しているのだろうか、手が小刻みに揺れていた。
「えい!」
スウは掛け声とともに、フォークを突き出す。しかし刺す力が弱かったのだろう、フォークはソーセージに刺さらなかった。
「あっ、あれ? あれ?」
何度もリトライするスウだったがソーセージは刺さらない。ソーセージの皮に弾き返され、フォークの先が皿に当たる音だけが響く。
俺は少し後悔していた。フォーク初心者のスウにソーセージは難しかったようだ。もっと柔らかい、例えばホットケーキとかにしておけばよかった。
とりあえず今回は終わりにしよう――スウを制止しようと、俺が口を開いた時だ。彼女のフォークに弾かれたソーセージが兎みたいにぴょんと皿を跳び出し、そのまま床に落ちてしまった。
スウのルビーの双眸が、みるみる潤んでいく。ま、まずい。
「だ、大丈夫だ。毎日床掃除しているし、それにほら――3秒ルールだ!」
「あっ、3秒ルール、ですか?」
「そうそう! 床に落ちた食べ物でも3秒以内なら食べて大丈夫って言われているんだ。ほら!」
俺は床に落ちたソーセージを素早く拾うと、食べてみせた。
「うん、美味しい! だから俺は怒らないし、スウも気にしなくていいからな? さ、食事を続けよう。そうだ、パンはどうだ? パンは手掴みで食べていいんだぞ?」
「は、はい」
スウはバターがたっぷり染み込んだパンを掴むと、がぶりと齧り付いた。
「……あっ、美味しいです」
そこでようやく、本日初となるスウの笑顔を拝むことができた。俺はほっとすると同時に、ひどく疲れていた。もしかして、いや、もしかしなくても、スウって面倒臭い女の子なのかもしれない。
「あーもう! 寝坊しちゃったじゃない!」
その時、妹のランチャがダイニングに駆け込んできた。長い金髪はボサボサで、スカートのチャックは半分までしか閉まっていない。ランチャは俺を睨みつけると、
「7時に起こしてって言ってるでしょ! なんで起こしてくれないの!」
「目覚まし時計を使えよ」
「目覚ましじゃ起きれないから、恥を忍んでアンタに頼んでいるんでしょ。あーもう、完全に遅刻だわ」
「朝ごはんはどうする?」
ランチャは食卓を一瞥すると、
「うわ、ソーセージ焦げているじゃない。不味そうだからいらないわ」
「な、なんてこと言うんだ、お前は!」
「は? 何怒ってるの? ソーセージもまともに焼けないアンタが悪いんじゃない! この自称勇者のクソニート!」
「なんだと!? そもそもソーセージが焦げたのはスウのせ……」
ハッとした俺は口をつぐむ。しかし全ては後の祭りだった。スウの大きな瞳からは、多粒の涙がぼろぼろ溢れていて――。
ランチャもスウの涙に気が付いたのか、
「スウちゃん、どうしたの? まさか、キハダに変なことされたんじゃ……」
「違う!」
「じゃあなんでスウちゃんは泣いているのよ!」
声を殺して泣くスウに、俺を睨みつけるランチャ。こんな感じで、魔王育成計画の第一日目は始まったわけだが、先行き不安すぎるだろ……。