エピソード9
澪が戻ってきたのは、あれからちょうど一週間後のことだった。
「朱莉、ただいま」
その声に振り返った朱莉は、息を呑み、次の瞬間には部屋を飛び出していた。
「あれは……澪じゃない……!」
背筋を冷たい水が伝うような感覚。澪はただ無言で、朱莉の逃げた先を見送っていた。
「颯! 彼方! いる!? お願い、話を聞いて!」
「どうした?顔、真っ青だぞ」
「澪が……澪が帰ってきた。でも、あれは……違うの」
朱莉の震え声に、周囲の生徒たちがざわめいた。颯と彼方は顔を見合わせ、黙って朱莉を部屋へ上げた。
「落ち着いて。何が違うって?」
「見た目は澪。でも纏ってる空気が……まるで別人。異質なの。……息をするのも怖かった」
「異質、か。俺は最初からそう思ってたけどな」
「彼方、それは言いすぎだろ……。まあ、不思議な子ではあったけど」
「違う。彼方の言うとおりかもしれない。初めて出会ったときと、同じだった。あの……不気味な感じ」
「……っ!」
玄関に、圧のような気配が迫る。三人が息を飲んで振り向くと、そこには澪が立っていた。
その目は感情を持たぬ人形のようで、けれど、どこか奥底に憎悪のような熱を孕んでいた。
「朱莉、いる?」
澪の一言が、壁に染み込むように重たく響いた。
「……澪ちゃん……?」
声を絞り出すのがやっとだった。
「今、彼方と颯に報告してただけ……ごめん」
「そう。急に走り出すから驚いた。じゃあ、私は部屋で荷解きしてるね」
淡々とした言葉を残し、澪は静かに去っていった。その場に残された三人の顔からは血の気が引いていた。
「今の……なんだ?」
「間違いない。あれは、澪じゃない……」
朱莉はついに涙をこぼした。
その夜、朱莉は覚悟を決めて自室へ戻った。
(怖い……でも、確認しなきゃ)
しかし、そこにいた澪は──
「おやすみ」
クマのぬいぐるみを大事そうに抱えて布団に潜る、以前と何一つ変わらぬ姿だった。
「……澪……?」
あの圧も、恐怖も、今はない。ただ、いつもの感情が薄い、けれど穏やかな澪がそこにいる。
朱莉は混乱したまま、眠れぬ夜を過ごした。
翌朝。
朱莉は自作のクマを手に登校した。眠そうな澪が隣を歩いている。何もなかったかのように。
「ねえ、澪。ちょっといい?」
「うん?」
「あなたのこと……教えてくれない?」
「……わかった。昨日、雰囲気変だったよね。寝ぼけてたの。私、寝込むとたまに変になるって言われる」
「体、弱いの?」
「違う。でも、たまに検査入院することはあるよ」
「好きなものとか、ある?」
「……ない。でも、朱莉と一緒に買ったぬいぐるみは好き。安心するから、ずっと一緒にいたい」
「それが好きなものなんだよ。……嫌いなものは?」
「それも、ないかな」
(やっぱり、見えない。言葉はあるのに、中身がない。まるで透明な存在みたい……)
「ありがとう、澪」
朱莉は颯と彼方の元へ向かった。
「……何一つわからなかった」
「寝ぼけてた、ねえ……。あれだけ雰囲気違ってて、絶対それだけじゃない」
「でも、一応元に戻ってはいるよ。……少なくとも、今は」
「拒絶心が残るのは仕方ないよ。それだけ怖かったんだ」
(……澪、本当に“戻って”きたのかな?)
数日、何事もなく過ぎていった。澪は以前と変わらぬ日々を過ごしている。けれど朱莉の胸のざわつきは、消えなかった。
ふと鏡を見ると、胸元の銀のネックレスが視界に映る。
「……そうだよね。進まなきゃ。もう、前に進まないと」
自分に言い聞かせるように、朱莉はネックレスを握りしめた。