エピソード5
……暗い。何も見えない。
ここはどこ?
……なにも感じない。音も、匂いも、重さも、ない。
私は――誰?
まばゆい光が、唐突に迫ってきた。
白――いや、“虚無”だ。それがすべてを飲み込むように、視界を覆った。
何かが――砕けたような音が、した気がした。
「――っ!」
澪は息を呑んで目を見開いた。瞬間、現実に引き戻される。
目の前、巨大な蜘蛛の顎が、自分に迫っていた。
口を開け、澪と――彼女の腕の中で気を失っている朱莉を食らおうとしていた。
「っっっ……!」
澪は即座に朱莉を抱え直し、跳躍する。瓦礫を蹴り、廃墟の隙間へと滑り込んだ。
肺が焼ける。鼓動が、耳を打つ。
「……いまの……なんだったの……?」
あれは幻覚? 記憶? それとも――
蜘蛛型天使の能力、“精神干渉”。その影響だと澪はすぐに判断した。
けれど、あの空っぽの世界――ただの幻には、思えなかった。
何かが、確かに“割れて”いた。
「朱莉……!」
身を寄せる彼女はまだ意識が戻っていない。鼓動はある。だが反応がない。
「寝てる場合じゃない」
澪の声には、かすかな苛立ちと焦りが混じっていた。
ぴしゃり、と朱莉の頬を叩く。
「起きなさい、朱莉。――いいかげんにして」
冷たい声が、朱莉の耳に届いた。
「……う……はぁ……っ」
朱莉がゆっくりと目を開ける。
彼女の意識の奥では、いくつもの記憶が交錯していた。
それは朱莉自身のものではない。――戦いの中で取り込んだ“誰かの最期”。
コアから流れ込んだ、血と痛みの記憶。
でも、その奥にあった。
夢のような、幻覚のような――けれど確かに、自分の記憶。
白い天井。薬品の匂い。消毒液のしみ込んだ空気。
――ここは……病院?
「私は……何をしてたんだっけ……?」
「目が覚めましたか?」
優しげな声とともに、見知らぬ男が近づいてきた。
「……だれ……?」
「初めまして。私は“天使の研究”をしている者です。ある学園の学長もしています。
――あなたには、これからその学園に通ってもらいます」
「……学園? それって、なんの……?」
朱莉の視界に、何か赤いものがちらついた。
「……あの光景は……夢だったの?
お父さんは? お母さんは? お姉ちゃんは……?」
男は一瞬だけ、口を閉ざした。だが、冷徹に告げた。
「……全員、お亡くなりになりました」
沈黙。言葉が、耳に届かない。
嘘。
嘘だ、嘘だ、嘘だ――。
あんなに優しかった姉さんが?
朝食を作ってくれた母さんが?
大きな背中で守ってくれた父さんが?
そんなの――
そんなの、あんまりだ。
手の甲に、ぽつりと涙が落ちた。視界が、にじむ。
それからのことは、よく覚えていない。
気づけば私は学園にいた。
剣を握り、訓練を受け、敵を知り、自分を理解しようとした。
痛みで過去を塗り潰しながら――
それでも、消えない声がある。あの日から止まったままの、心の底の声。
16歳。高等部。
そこで――私は澪と出会った。