エピソード4
建物の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
焦げた金属と血の匂いが、喉に絡みつくほど濃密だった。
「……ここ、何人いたの……?」
朱莉の声が沈む。
瓦礫の隙間には、黒焦げの死体が幾重にも積み重なっていた。中には、制服を着たままの者もいる。
まだ幼さの残る顔。そこには、たしかに“生きていた”時間の気配が残っていた。
澪は無言で周囲を見渡していた。
目に宿るのは無感情。だが、まるで死の総数を数えているような静けさがあった。
――世界は弱肉強食。
それは、天使も例外ではない。
だが、この異常な死体の数……普通のBクラスの仕業とは思えない。
「……ねぇ、澪。私たちって、本当に“人間”なのかな」
「……人間じゃないよ。朱莉も、わたしも」
「……知ってたけど、あんたに言われるとちょっと傷つくわね」
そうふざけてみせた朱莉の口元には、笑いはなかった。
学園の生徒たちは、天使に抗える力を持つ。
だがそれは“奇跡”ではない。
彼ら自身もまた、“人間の形をした天使の変異種”だった。
そのとき――
崩れかけた壁の向こうから、かすかなうめき声が聞こえた。
朱莉と澪が駆け寄ると、そこにはまだ“死にきれていない”男が横たわっていた。
制服は裂け、肉は焼けただれていたが、胸の奥で微かに光る“それ”がまだ残っていた。
「……やつら……天使は……コアを、狙ってる……
……このままだと……蜘蛛型は……Aクラスに……進化……する……前に、早く……!」
言い終える前に、男の体が痙攣し、動かなくなった。
「……まだ、取られてない」
澪がその胸に手を当てる。コアはまだそこにあった。
「朱莉、回収して。急いで」
「……そこまで知能が上がってるってこと? 進化スピード、異常すぎない?」
朱莉は黙ってうなずくと、手早く男の胸元を開いた。
血と肉の奥に、わずかに青白く光る小さな結晶体が埋まっている。
「……コアは心臓みたいなもんだって聞いてたけど、まさか“奪ってくる”とはね……」
「朱莉。吸収して。
ここに来るまで、子蜘蛛を何体も見た。あれは分裂じゃない、“繁殖”だよ。
確実に進化してる。次の段階に入る前に、こっちも強化しないと……!」
「ふぅん……譲ってくれるなんて、意外と優しいじゃない」
皮肉を残して、朱莉はコアを自分の胸に当てた。
その瞬間――
青い光が走り、肌を透けて全身へと流れ込む。
痛みと熱。力と記憶。
――それは、彼の“記憶”だった。
焼けた瓦礫。逃げ惑う仲間たち。
蜘蛛が天井から這い降り、コアを奪い取る光景。
“進化”の兆し。意識が喰われる恐怖。
言葉にならなかった絶望が、頭の中に直接響いてくる。
(……これが、コアの……“記憶”……?)
だが、次の瞬間。
その記憶が引き金になったのか、朱莉の視界が歪む。
今度は、自分の記憶――
もっと深く、もっと痛いものが暴れ出した。
焼け野原。引き裂かれる家族。笑う鴉の化け物。
朱莉はあのときの光景に呑まれていた。
「お父さん! お母さんっ!!」
叫びながら、手を伸ばす。
だが、両親の姿に飛びつこうとする彼女を制する、姉の手があった。
その手に引かれ、朱莉は逃げる。必死で。
天使の被害が及ばない、安全な場所へ――
だが、希望は長くは続かなかった。
天使は“力”を欲していた。
生き残るために“変化”する。
朱莉のコアの匂いを嗅ぎつけ、奴らは追ってきた。
そして――姉は、殺された。
その瞬間、朱莉は“覚醒”した。
天使としての本能。
力を求める衝動。
目の前の敵を殺しても、手は止まらなかった。
自我を失い、暴走する朱莉。
その狂気に終止符を打ったのは、学園の鎮静剤だった。
――現実。
朱莉は膝をつき、肩で息をしていた。
汗と涙が頬を伝っていたが、自覚はなかった。
「……朱莉、大丈夫?」
澪が声をかけたときには、蜘蛛の幻覚はもうそこにいた。
透明な糸が、いつの間にか二人を包み込んでいた。