エピソード3
気づけば、六月。
新学期から二ヶ月。学園の空気は、確実に変わっていた。
初めての出撃では、泣きながら武器を握っていた生徒たちも――
今では、血塗れのまま笑って帰ってくる。
名前の呼ばれない空席も、もう誰も問いたださない。
“死”は、教科書に書かれていたものよりも静かで、淡々と、生活の一部になっていった。
その日も、寮内のスピーカーが静寂を破った。
「――緊急事態発生、緊急事態発生。Bクラスの天使、東第七区域に出現。Sクラスはただちに戦闘態勢に移行。それ以外の生徒は避難誘導に尽力してください。繰り返します――」
「……Bクラス? 数年ぶりじゃない?」
朱莉が制服のボタンを留めながら、眉をわずかにひそめる。
澪はすでに出撃準備を終えていた。武器を握る手に迷いはなく、その目に感情の波はなかった。
「急ごう。先生が待ってる」
「……あんたに言われると、ほんとムカつく」
口調こそ皮肉だが、朱莉の足取りに迷いはない。任務は、感情と切り離して遂行されるものだ――彼女はもう、それを知っていた。
――東第七区域。
焦げた鉄の匂いと黒煙が、風に乗って肌にまとわりつく。
「状況は?」朱莉が現場の教師に問う。
「三年生が先行して交戦中だ。蜘蛛型のBクラス。だが、ただの蜘蛛じゃない……“変異種”だ」
教師の目は、黒煙の向こうを見据えていた。険しい顔。警戒と苦悩が混じっていた。
「炎が効かない。焼いても焼いても、分裂して数を増す。
さらに精神干渉――幻覚か、音か、視覚か……特定はできていないが、確実に“喰って”くる。肉体ではなく、心のほうを」
その傍らでは、女生徒が地面に崩れていた。
制服は泥まみれ。目は虚ろ。口元は笑っていたが、その笑顔は壊れた機械のようだった。
「あは、あはは……やめて……やだ……やだぁ……!!」
耳を塞ぎながら、地面に頭を何度も叩きつける。その叫びは、天使よりも恐ろしかった。
「この人……先輩、ですよね……?」
朱莉が言う。教師はゆっくりとうなずいた。
「精神干渉の影響だ。何を“媒体”にしているかは……まだ不明だ。深入りすれば、お前たちも同じになる」
そのとき、風がぴたりと止んだ。
音も熱気も、すべてが凍りついたような静寂。そこに、“それ”が現れた。
建物の壁を這いながら、蜘蛛のような姿の天使が姿を現す。
黒光りする節足、不気味に濡れた体表。腹部には、口のような裂け目。
その無数の目が、同時に“こちら”を見た。
そして、響く声。誰かの声のようでいて、決して人間のものではない。直接、脳の奥へと突き刺さるような音。
「……聞こえる。誰かの声が、直接頭に入ってくる……!」
朱莉が呟く。
隣で、澪は黙ったまま敵を見据えていた。動揺はなかった。澪にとっては、これもまた“異常”ではないのかもしれない。
朱莉は、その澪の横顔を見て、一瞬だけ口を引き結んだ。
「……“心を喰う”って、そういうこと……?」
肉体ではない。心を侵す敵。
彼女たちは、今まで知らなかった戦いの“かたち”と向き合わされていた。
「朱莉、行くよ」
澪の声は平坦だった。命令でも励ましでもない。ただ、任務遂行の意思だけがそこにあった。
だが朱莉は、足元に何かを感じて立ち止まった。
視線を落とすと、焼け焦げた赤黒い塊が転がっている。
その中に――銀色のネックレス。
見覚えのある、繊細な装飾。雫先輩が、いつも肌身離さず身につけていたもの。
「……雫、先輩……? うそ……」
朱莉の声は掠れ、震えた。
「朱莉? どうしたの?」
振り返った澪の瞳が、そのネックレスを見た瞬間、かすかに揺れた。
初めて見せる“動揺”――それは涙ではなかったが、確かに、心が動いていた。
澪はそっと、ネックレスを拾い上げる。血に濡れても、その輝きは消えていなかった。
雫の遺した光を手に、二人は静かに、蜘蛛の天使へと歩き出した。
一歩、また一歩。
それはまるで、彼女の意志を、戦いの中で引き継ぐように――