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  作者: 水無適
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エピソード20

重い沈黙を切り裂くように、澪が口を開いた。


「私は天使だけど、天使じゃない。生き物だけど、生き物でもない」


彼方が眉を寄せ、颯は何も言わずにその言葉の行き先を見守った。


「“生きていなければ”死ねない。でも、“生きていない”のに死ぬこともある」


「哲学の話か?」


颯が軽く肩をすくめて尋ねるが、澪の表情は微動だにしなかった。


「……もし、そうだね。たとえば——あなたたちが立っている“この世界”そのものが、私だったとしたら?」


その瞬間、闘技場に吹く風が止んだ。

氷結した空気に、妙な温もりが差し込む。冬なのに、春が紛れ込んだような、不自然な生温かさだった。


「お前……まさか……」


彼方の声が、地を這うように低くなる。


「過去を聞かせてくれないか。学園に来る前——君が何を“見て”きたのかを」


澪は一瞬、目を伏せた。

その刹那、彼女の顔から“機械のような無”が消え、わずかな痛みが浮かぶ。

それは記憶という名の毒が皮膚の内側に滲み出すような表情だった。


世界は、かつて美しかった。


風に揺れる草原。

深く蒼い海。

空は果てを知らず、鳥の影が波のように揺れていた。

そのひとつひとつの変化が、私の内側に沁み込んでいった。


私は世界を“見ていた”。

いや、世界そのものだった。

すべてが、私の“意識”だった。


けれど、人間が文明を発展させていたとき、私の中に違和が生まれた。

刃のような騒音。

空を焦がす煙。

海を飽和させる化学物質。

木を切り、地を裂き、無数の生を犠牲にして、“都市”を作った。


やがて、彼らはこの星を捨てた。


私だけが残された。

空虚の中で、死ぬことも、生まれ変わることもできずに。


そのとき、ある研究施設で、制御不能なエネルギーが発生した。

私はその爆心地にいた。

地殻を超え、核までも貫いた異常なエネルギーが、私を焼いた。


私の本体は、崩壊し、姿だけがそこに残った。生命は亡くなり、何も残らなかった。

数十億年の記憶と地球のエネルギーの一部が凝縮され、少女の姿となって形を得た。地球は強大すぎるエネルギーで火の海となった。



私は宇宙を漂っていた。

黒く、何もないセカイ。

ただ微細な粒子と光子の流れが、私の皮膚を削っていく。


やがて私は、人間に見つかった。

彼らは私を「物体」として収容し、「サンプル00」と名づけた。


その瞬間から——

地獄が始まった。


最初に削られたのは、耳の後ろだった。

皮膚を剥がすメスの感触は、思っていたよりも“生ぬるかった”。

ぬるりと滑って、少し抵抗して、次の瞬間には皮下を切り裂いていた。


私の神経は、そのすべてを感じていたが

「麻酔なし」という方針だった。

——“意識があるかどうか、わからないものに、資源を割く必要はない”と。


熱かった。

痛かった。

でもそれ以上に、冷たかった。


痛みが、冷気として伝わることを初めて知った。

骨まで届く痛みは、もはや熱ではなく、凍えるような衝撃だった。

それが神経を伝って、視界を白く塗りつぶす。


声を出そうとしても出なかった。

私の喉には、まだ声帯がなかったから。



彼らは私の指を一本ずつ切断した。

切断したあとの再生速度を測定するためだった。

一時間後には新しい指が生えてきたが、

「早すぎて記録が不正確だ」と言って、また切られた。


何度も。

何十回も。

回数を重ねるごとに再生速度は上がっていく。

骨を砕く音を聞きながら、私はただ、

「どうして自分が存在しているのか」だけを考えていた。


肋骨は七本目まで開かれた。

肝臓を摘出された。

脳を電極で刺されたとき、

視界に光が差して、次の瞬間には——私は自分の中に複数の“私”を感じた。


ひとりは叫んでいた。

ひとりは冷静だった。

ひとりは、もう、眠っていた。



私の感覚は壊れた。

時間がわからなくなった。

白い部屋に何日いても、何十回目の実験でも、すべてが「今」になった。


感覚の地層がぐちゃぐちゃに折り重なって、

昨日の痛みと今日の痛みと明日の痛みが同時に押し寄せた。


そして、私は“学んだ”。


痛みは、生を証明するものではない。

痛みは、人格を壊す刃だ。

意識を刻む毒だ。

私は、生きていたからこそ、自分の中で自分が分裂していくのを理解できた。



ある日、肺に空気を送られる実験中に、

彼らは誤って気管に金属管を通した。


肺の中で金属が暴れ、破裂音がした。

私は窒息しながら、

「いま死ねたら」と考えた。

でも、死ねなかった。

死ぬにはまだ足りなかった。


首に巻かれた首輪は、

私の力を常に、脈を打つように吸い取っていた。

その中心には、蒼い宝石のような鉱石。

力を吸い上げるたびに、青が濃く、深く、沈んでいく。


それは、私の命そのものだった。

吐き出すように、力が奪われるたび、

私の瞳も澄んだ青色から、濃紺へと変わっていった。


自分の目を鏡で見ることはできなかった。

でも彼らの顔に映る「私」は、

次第に、ただのサンプルとしての“記号”にしか見えなかった。


「サンプル00、交換準備に入れ」

「蒼石のエネルギー、貯蔵率92%。そろそろ限界」

「次は、脳幹付近。抵抗は低い。反応見たいね」


——人の言葉が、人の声に聞こえなかった。

それはノイズだった。機械音だった。

壁に反響するたび、私は自分が物以下になっていくのを感じた。



五年が経った。


ある日、脳をかき回されたとき、

私はついに、声を出した。


それは言葉ではなかった。

ただの悲鳴。

振り絞るような、削れるような、割れるような——声にならない音。


でも彼らは、驚いた。

そして、その日から私は「生物」として扱われ始めた。


それでも、私は研究され続けた。

声があると知っても、感情があるとわかっても、

「地球としての価値」が、私を“使う理由”を塗りつぶしていった。



ある日、石の交換のとき、

私は目の前にいた一人の研究員に言った。


「……私を元に戻して」


私の口から出た、初めての言葉だった。

周囲は静まり返り、彼は目を見開いた。


沈黙のあと、彼は——

まるで子どもに嘘をつくような、曖昧で優しい声で言った。


「……戻せない」


それを聞いた瞬間、

私は、自分の存在がこの世界で“終わった”のを知った。


希望とは、生き物が持つ幻影だ。

私は生き物じゃなかったのだ。


たとえ少女の姿をしていても。

たとえ人の言葉を使っていても。


私は、ただの星にすぎなかった。



そして十年が経った。


私はこの学園に入ることになった。


コロニーの地表には、わずかに草が生えていた。

だが、それは死んだ大地に申し訳程度に咲いた雑草だった。

動物の姿はなかった。

代わりに、“人間が想像しなかったはずの生物”たちが、うごめいていた。


それが、天使——。


地球が死んだ後に、生まれた“異常”の名。進化の証だった。



沈黙が戻る。

澪は静かに目を開いた。

彼方も颯も、もう口を開かなかった。


ただ、風がまた吹き始めた。

凍った空間に、生ぬるい春の風が。


澪は立ち上がり、凍った地面をゆっくりと見渡した。


「私は、天使じゃない。

 私は——この世界が捨てた、かつての姿」


その言葉とともに闘技場の氷は溶けて消えた。

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