エピソード2
花型との戦闘から三日。
今日はついに、実戦訓練の日だった。
朝の光が差し込む中、澪は静かに制服に袖を通す。
数日前までの“無感情”な仕草に、どこか柔らかさが宿っていた。
朱莉はその変化を鏡越しにとらえ、ふっと目を細める。
「……少しはマシになったじゃない、朝の顔つき。」
「……そう?」
「うん。“感情あります”って顔。」
「じゃあ、“嬉しい”。」
「……あーあ、またそれ口癖にしてるし。まあ、いいけどさ。」
そんなやりとりのさなか、訓練棟への出動を告げる校内放送が響いた。
前日、教官はこう言っていた。
「天使は脅威度によってSからEの六段階に分けられる。生徒もまた、同様にランク分けされる。今回の訓練では、Eクラスを相手にしてもらうが――油断はするな」
「Eでも“天使”には変わりない。舐めれば死ぬ。それを忘れるな」
市民避難が必要だった花型(Dランク)に比べれば脅威は低い。
だが、生徒たちの間に漂うのは緊張というより、どこか浮ついた期待感だった。
「……慣れって怖いわよね」
朱莉の独り言に、澪は小さく頷くだけだった。
訓練場の上階から、澪と同い年の彼方と颯が新人たちの様子を見下ろしていた。
「初めて“天使”を見る顔だな。緊張と期待が入り混じってる」
「油断せず見守ろう。何かあれば即対応する」
Sランクの彼らは補助監督として、現場に控えていた。
そしてもう一人――雫先輩も、同じくその場にいた。
「……澪も、少し変わったわね」
そう言った雫の目は、どこか嬉しげだった。
彼女はSランクの中でも一際信頼の厚い上級生。面倒見もよく、後輩からの人望もある。
「朱莉がうまく導いてるんでしょうね。でも……」
「でも?」と颯が問う。
「澪は“育ってる”。ただ戦えるだけじゃない。感情の芽が、ちゃんと出てきてる」
雫の声には、戦士というより姉のような温かさがあった。
訓練は無事に終了した。
Eクラスの“群体型”――小型で連携する天使たち――は、新人たちにとっては格好の訓練相手だった。
誰一人欠けることなく生還したことに、生徒たちは胸をなでおろす。
「はぁ〜、緊張したけど……楽しかった!」
「バカ、あれが“本物”だったら死んでたっての……」
その光景を見つめながら、澪はぽつりと呟く。
「……不思議ね。怖かったはずのことを、“楽しかった”って言えるんだ」
朱莉が言葉を探すように、そっと答える。
「それって、“生きてた”ってこと。死ななかった。助かった。だから笑える。それが、人間」
「それも……“嬉しい”? それとも別の名前?」
「そうね。嬉しいの一種。“安堵”って言葉もあるわ。覚えておいて損はない」
澪は、静かに空を見上げた。
(こんなにも……名前のある感情があるんだ)
「澪、朱莉!」
訓練後、雫先輩が声をかけてきた。
「今日はよくやったわ。見てて安心した。特に澪、あなた……表情が、柔らかくなった」
澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟く。
「……雫先輩。“安堵”って、こういうのですか?」
「ええ、まさにそれ。ちゃんと感じ取ってるわね」
雫は笑みを浮かべて、澪の頭にそっと手を置いた。
その温もりに、澪は少しだけ目を細める。
「……嬉しい、です」
「うん。それでいい」
そう言って去っていく雫の背中を、澪は目で追い続けた。
朱莉がふと笑う。
「まったく……ほんと、雫先輩には懐くのね。あたしのときより素直じゃない?」
「そう?」
「そうよ、絶対」
風が吹いた。
その風の中、澪の胸にまた一つ、新しい感情が生まれていた。
まだ名前のない、けれど確かな“芽吹き”が。