エピソード18
朝、朱莉の姿はもうどこにもない。
代わりにいるのは碧——それだけのことに、澪の心は未だ馴染めずにいた。
頭では理解している。朱莉はもういない。けれど、澪の内側ではまだ何かが拒絶している。あの空白に蓋をしようとするたび、蓋の裏側で血が滲んだ。
(また朝から……いない)
ベッドから起き上がった碧は、静まり返った部屋を見渡し、小さく息をついた。
夜のうちに澪が眠っていた形跡はない。身体は動いていても、あの人は確実に壊れかけている——そう思った。
*
その存在は、誰からも「人」として認識されていなかった。
今にも消えそうな透明感。
儚げな青の瞳。空を模したような銀髪。
まるで世界の輪郭そのものに溶け込んでしまったかのようだった。
感情がない。ただ“存在しているだけ”の物体。多くはそう考えた。
「私を、元に戻して」
それが言語を使ったのは、ある冬の日。
誰もが度肝を抜かれた。自我などないと思われていた。だからこそ、言葉の重さが際立った。
「お前、話せたのか。前から意識はあると考えてはいたが」
「うん。この姿になったときから、ずっと」
「……だが、戻すことはできない」
「どうして? 寒いよ、ずっと」
「技術が足りない。皆、望んではいるが……どうしても、どうしても無理なんだ」
「——全部、そっちの都合じゃない」
「……ぐうの音も出ないな」
その日から、その存在に「名前」が与えられることはなかった。
語られることも、語ることも。
ただ、記憶の底で凍ったまま残された。
*
「……最近、よく昔の夢を見る」
澪は中庭の片隅で空を見上げながら、誰にでもなく呟いた。
顔色は悪い。睡眠不足が限界を迎えつつあるのが見て取れる。
少し離れた場所では、碧と颯が特訓を続けていた。氷の張る気温のなか、ふたりの息が白く弾ける。
「碧ちゃん、いい感じ!」
「ほんと!? やった!」
颯の声が弾む。風の性質を持つふたりは、練習相手として相性がよかった。
「澪ー!」
碧が呼びかけると、澪は重い動作でゆっくりと近づいた。
「見て、これ!」
碧が両手に集中させた力が、微かな風の渦を生む。成功だ。
「……うん、悪くない」
「だよな! 俺なんか発動まで二ヶ月かかったぞ。碧は半月でこれかよ〜すげーな〜」
颯は軽く碧の頭を撫でた。碧は恥ずかしそうに笑いながら髪を整える。
「碧は……風、だったっけ?」
「うん。でも、澪や颯みたいに複数使えないと思う。澪は何個使えるの?」
「……わからない」
「じゃあ、発動までどれくらいかかったの?」
「気づいたときには、できてたよ」
あまりにシンプルな答えに、碧の表情が固まる。
「まじで……?」
颯は澪から静かに距離を取った。
「——あ、俺、彼方に呼ばれてたんだった!じゃ、またな!」
勢いよく逃げていく颯に碧が手を振り、ふと澪に向き直る。
「そうだ、明日……初詣、何時にする?」
「ああ……朝ごはんのあとでいい?」
「うん!でも、混むから暇つぶしも持っていこうね。今じゃ神社も少ないし、毎年行列なんだ」
「覚悟しておく」
碧には微かな笑みがあった。
その笑みの下に潜む“痛み”は、澪の目に映っていた。
*
廊下の奥、静まり返った空間で、颯は足を止める。彼方の姿を探し、そして口を開いた。
「……彼方、大事な話がある」
その声は、冗談めかした軽さを捨て去っていた。




