エピソード17
朝、部屋には澪の姿がなかった。
まだ薄暗い窓辺に冷たい光が差し込む頃、碧は目を覚ました。
「……こんな早くから何やってるのかしら。今日は休みだっていうのに」
独り言を呟きながら洗面台に立ち、制服に袖を通したそのタイミングで、澪が戻ってくる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
変わらない声。けれどどこか、昨日よりも柔らかく感じられた。
「今日は休みだから、遅くなったけど……施設、案内するね」
「うん。ありがとう」
ふたりは並んで食堂へ向かい、質素な朝食を前に腰を下ろした。
そこへ颯が姿を見せる。
「澪、おはよ。……その子は?」
「颯、おはよう。この子は碧。転入生だよ」
「へえ。噂の子か」
軽く相槌を打ち、颯は目を細めた。
「最近寒いんだから、防寒ちゃんとしとけよ? 今朝も薄着だったし」
「わかってる」
それだけ返すと、澪は黙ってパンにかじりついた。
碧はふたりのやり取りを、貼りつけたような笑顔で見守っている。
「……その顔、やめなくていいの?」
ふいに、澪が口を開いた。
「え?」
「ずっと笑ってるの。疲れない?」
「……人前だから、ね」
「……まあ、好きにすれば」
それ以上、澪は何も言わなかった。
*
施設の案内は端的だった。
職員室、教室棟、図書棟、食堂……そして鍛錬場へ向かう廊下の途中、碧が声を上げる。
「ねえ、入ってみたい」
「わかった」
鍛錬場の扉を開けた瞬間、金属のぶつかる甲高い音と、熱気が押し寄せる。
「……広い」
目を輝かせる碧の瞳に、反響する打撃音が映っていた。
天使たちが剣を交え、地を踏み鳴らす音。汗と血の気配。ここには、この世界の“現実”があった。
「ねえ、澪。手合わせ、してくれる?」
「いいよ」
ふたりは構えを取る。碧が一気に距離を詰めた、その瞬間――
次に地面に倒れていたのは、碧だった。
「……すごい、ね!」
地面に手をつきながら、それでも碧は笑っていた。
あまりに無傷なその笑顔に、澪の眉が僅かに動いた。
「1クラスしか違わないって、甘く見てた?」
「うん……ちょっと思ってた。ごめん」
笑みがゆっくりと崩れ、碧の本来の顔が現れる。
「何が起きたのか、全然わからなかった。鍛錬の差もあるんだろうけど、才能の差……かもしれない。埋められる気が、正直しない」
「強くなりたい?」
澪の問いかけは静かだった。だが、その瞳はまっすぐ碧を見つめていた。
「……当たり前でしょ」
その答えに、澪は一枚の紙を差し出す。
「私のトレーニングメニュー。……参考になるかもしれない」
「これ全部? 本気で……?」
碧の手がわずかに震える。記載された内容の密度は、初心者には到底こなせそうにないものだった。
「少しずつでいい。最終的に、これをこなせるようになって」
「……ありがとう」
引きつった笑顔のまま、碧は深く頭を下げた。
*
その日から、碧のトレーニングが始まった。
放課後の鍛錬場。最初は立ち上がれないほどの疲労に何度も倒れた。それでも、彼女はやめなかった。
天使は成長が早い――それは事実だ。
だが、それだけに危険でもある。放置すれば、才能は容易に“こちら側”に届いてしまう。芽は早めに摘まなければならない。
それが、この学園における鉄則だった。
*
「今日から冬休みになります。しっかり休んで、次に会うときまで元気でいること――以上!」
担任の締めくくりに教室がざわつく中、碧が澪の隣に声をかけた。
「ねえ、澪。冬休みって、何か予定あるの?」
「少しはあるけど……どうして?」
「初詣、一緒に行かない?」
「初詣?」
「うん。一年のはじまりに神様に“今年もよろしく”ってお願いしに行くやつ。……地元の風習みたいなもので、小さい頃からなんとなく行ってたの」
「……知らない。信仰はないし」
「私も別に宗教的な意味では行ってないよ。……けど、一緒に行ってくれたら嬉しいな」
短い沈黙のあと、澪はわずかに頷いた。
「……わかった。一緒に行こう」
「ふふっ、ありがとう」
その時、碧はようやく――ほんの少しだけ、“作り物じゃない”笑顔を見せた。




