二夜目 答え
物書きを名乗っておいて何だが、私はあまり読書をしない。当然、嫌いではない。webの物を含めれば両の手で数え切れない程度には気に入っている作品があるし、何なら私の部屋には割と大量の本がある。読書をしないというよりは、1話完結型の作品を除いて、1度読んだ本をもう1度読むという事をしない。そりゃ全くしない訳ではないが、読み返すなら数ヶ月経ってから、というケースがほとんどだ。
理由としては、『知っているのがつまらない』からだ。どんな難解なストーリーも、どんな複雑な問題も、答えが分かればお終いだ。2周目以降は当然面白くもあるのだが、それでもどこかに『ああはいはい、こうなるんだよね』のような感情がある。
本に限った話ではない。RPGなどのゲームでも同じだ。何度も見た死、何度も見た裏切り、何度も見た真相。最も、それでその作品の面白さが色褪せる訳ではないが。
何の話がしたいのかと言うと、私の人生に対する答えの話だ。
当然、まだ成人もしていない私が人生を語るなど烏滸がましいとは思う。だがそれでも、私の見出した答えが間違っているとは言わせない。私の見出した答えとは即ち『死』だ。どんな人格者でも、どんな偉人でも、いつかは死ぬ。どうせ全部無駄になるというのに、皆は何を思って懸命に生きているのだろうか。
その問いに対して、私の中3の頃の同級生はこう答えた。
「死ぬまでを楽しく生きるのが大事なんだよ」
じゃあ楽しく生きるって何だ?そりゃ当然私にだって趣味はあるが、それも『答え』のせいで全力になる事は出来ない。如何なる娯楽を見つけたとて、結局その空虚から逃れる事は出来ない。
ある者は私に
「現実を見ろ」
と言った。
こっちの台詞だ。
『死』こそ直視するべき現実ではないのか。それと真剣に向き合った結果、私がこうなったんだ。
またある者は
「もっと真面目にやれ」
と言った。
出来るか馬鹿が。
私はその真面目が報われないって事を、少なくともお前よりは分かっている。
本気の努力や真面目な取り組みが全くの無駄なんて言うつもりは毛頭無い。ただ、それが報われるのはほんの一握りの選ばれた人間だけだって話だ。努力による成功談がやけに耳に入って来るのは、日向に居るのは成功した、選ばれた奴らだけだからだ。
私は他者と人生について話す事はしない。
話したとて、待っている物が嘲りと非難、否定だけだという事くらい、私にだって分かるからだ。