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これで終わりなのかとぼんやり考える。後悔もなければ、不思議と寂しさも湧かない。
どうせなら最後の言葉くらいは交わしたかったな、と想い人の顔を思い浮かべた。
目が覚めて海里が死んだと知ったら、彼女はなんと思うのだろう。
悲しませるのは嫌だな。でも悲しんでくれるのは嬉しいな。
そう考える海里の耳にふと言い合うような声が聞こえた。
「――さんは――――ですか?」
「さあ? ――――です。――で、――――」
仄かな苛立ちを滲ませた声と、はぐらかすような声。
声を彩る感情を含めて聞き覚えのあるものだ。
傍で話している二人の声を聞いて、まだ終わりではないのだと海里は意識を浮上させた。
隻眼に映るのは知っている天上で、少し視線を動かせば、二人の人物が目に入る。
眠っているときにも声は聞こえていたので驚きはない。
「レ、オン。……健君」
掠れた声で呼べば、二対の目が向けられた。
一対は驚きと安堵を宿し、もう一対は感情を一つも映し出していない。
「お目覚めになったんですね。お身体の方は……」
「大丈夫。ちょっと怠いけど……ごめんね、心配かけて」
身体を起こそうとして失敗する。腕に力が入らない。
見かねたレオンが補助してくれてなんとか身体を起こした。壁に身体を預けながらも、海里は心配かけまいと微笑みを浮かべる。
肩から零れ落ちた髪の色が目に入り、そっと瞬きをする。
金色が混じった藍色の髪を。本来の髪色を取り戻しつつある髪を。
「――レオンさん、少し席を外していただけますか」
「健さん!」
「お願いします。大事な話があるんです」
無機質な目に見つめられ、レオンは込み上げる万感の思いを呑み込んだ。
「……分かりました。何かあれば呼んでください」
渋々立ち上がったレオンは一礼ののちに立ち去っていく。
部屋には海里と健、そして傍らに潜むように立つカイ――風斗だけが残される。
「下手に言葉を重ねるのも面倒ですし、単刀直入に言わせていただきます」
じっと見つめる健の目に海里は居住まいを正す。
感情を極限まで削ぎ落した目は静かに海里を射抜いた。
「――俺は海里さんを殺しに来ました」
金色が傍を駆ける。海里にしか見えないその少年が殺意だけを宿らせて健に掴みかかる。
掴みかかっているように見えるが、透けた手では海里に触れることはできない。
そのことに歯噛みする風斗はただ殺意を滾らせる。
〈海里! 今すぐレオンを呼んでこいつをっ――〉
「風斗、下がって」
〈でも、こいつは海里を……〉
「いいから下がって」
悲しげに瞳を揺らした風斗は躊躇いがちに健から離れた。
「ごめんね」
「いえ。怒るのは当然のことだと思います。俺には風斗さんの姿は見えませんから問題はありませんよ」
変わらない表情は本当に気にしていないようだ。
見えずとも肌を刺す殺気は感じているだろうに涼しい顔を崩さない。殺気を向けられることは慣れていると言わんばかりだ。
「……海里さんは思っていたより驚かないんですね」
「なんとなく、そうなんだろうなーって。華蓮が誘拐されたときから今まで……健の計画なんじゃない?」
予感を口にすれば、無機質だった目が見開かれる。
ここに来て初めて健が感情を映し出す。
きっとレオンの反応も、風斗の反応も健にとっては予想通り。海里だけが違ったのだ。
「気付いてたんですね」
観念したように息を吐き出した健は無表情を貼り直す。
「計画というほど高尚なものではありませんよ。ちょっとした罠を張っていただけですよ。帝天が嵌まってくれるかは賭けの要素が強いものでしたし」
「パーティの日、藤咲邸が手薄になることを見込んで罠を張ったの?」
海里とレオンはパーティに参加しており、クリスも妖界に戻っていた。
藤咲邸に入り浸っている百鬼もパーティの警備要員として駆り出されていた。
藤咲邸に残っていたのは流紀とレミのみ。青ノ幹部の娘二人はそれでも充分な戦力だ。
「あの家には桜さんの結界が残っています。いくら幹部の娘でも力を充分には出せない。消息絶った友人が敵に回って流紀は相当動揺したでしょーし」
穴はあったと語る健。悪びれもしない態度に怒る気は起きない。
それを不思議だとも思わなかった。
「怒らないんですね」
意外だと訴える目こそ、海里にとって意外なものだった。
だって海里の中にはそもそも怒る理由こそ見つからない。
「健君が保険を用意していないわけがないからね。アフターケアを怠らないのが健君だ。そうだろう?」
決して短くない付き合いの中で、健という人間に対して海里が出した結論がそれだ。
「だから、健君は俺を延命させる方法も用意してるんじゃないかな」
「そーですね」
淡白な返答に風斗が劇的な反応を見せる。
縋るような思いを滲ませた目で健を睨んでいる。
「今回の一件で進んだ分の補填ぐらいは、と考えてはいましたが、少々誤算がありまして」
利用する責任はきちんと取る。それが健のやり方だ。
「もしかして龍王が関係してる?」
海里は気を失う寸前、龍王の姿を見た。
藍色の青年。姿を見たのは数回しかない上に遠目だったが、あれは確かに龍王だった。
浮世離れした雰囲気と、銀に輝く目は見間違いようがない。
「藍の子、海里さんの運命は龍王さんが握っているといっても過言ではありません。そこに介入することは難しい」
「龍王は俺の死を定めた。だから健君にはどうすることもできないと?」
「まあ、そーですね。なので俺は定めに逆らわず、海里さんを殺すことに決めました」
その結論に海里が思うことはない。
海里は元々一度死んだ人間だ。二度目の生の中で自分の死はとうに受け入れていた。
龍王を目にした瞬間、こうなることもを予想もしていて、少しの寂しさだけが胸にある。
「……にしても、海里さんにここまで推測されるとは思ってませんでした。気付かれたとしてもレオンさんやクリスさんくらいだと」
「ああ、さっきレオンと言い合ってたのはそういうことか」
目覚める前から聞こえていた二人の声に納得を落とした。
「何が目的だ、って問い詰められて大変でしたよ」
「いつもみたいに上手くはぐらかしたんだろう?」
無表情に笑みが乗せられる。肯定とも否定とも取れる笑みは彼らしい。
「さて、そろそろ――」
話は終わりだと告げる彼は笑みのまま、その手を海里へと伸ばした。
慌てて止めようとする風斗の手が健の手をすり抜ける。
悔しそうに顔を歪める弟の顔を横目に海里は左腕を差し出した。鈍痛が脈打つ左腕を刺激しないように触れた健はそっと口を開く。
「解除」
唱えれば、海里の左腕にかけられていた術が解かれる。
数年前、健によって施された時間の流れを遅くする術だ。
左腕には残り時間を示すタトゥーがある。その流れを遅くすれば、海里に流れる時間もまた遅くなる。
ほんの気休め程度。それでも確かに海里を延命させていた術が今解かれた。
それはまるで操り糸を切られた感覚に近い。
「別れを言うくらいの時間はあると思います」
「う、ん。ありがとう、健君」
声がまだ出ることに安堵しつつ、笑みを浮かべる。これすらもあと少しでできなくなるのだ。
左腕以外に痛みもなく、苦しみもなく、肉体を操るための糸が一本ずつ切れていくような感覚だけが海里を襲う。少しずつ身体を動かせなくなっていく。
この身体の使用権が本来の持ち主に返されようとしているのだ。
「では、俺は――」
「海里様。星司さんと翔生さんがお見えです」
健が腰を浮かせたのと同時にレオンの声が投げかけられた。向けられた顔に頷きを返す。
「話は終わったので、どうぞ通してください」
海里に代わって答えた健は立ちあがり、星司と翔生を迎える。
思わぬ人物の出迎えに二人はそれぞれ顔に驚きを映し出していた。
「俺の用は終わったから、後は友人同士でごゆっくり」
言葉を投げかけられることを嫌う態度で健は横を通り過ぎようとする。その腕が掴まれた。
無機質な目が、感情もなくつかんだ相手――星司の顔を見上げる。
「お前なら、海里のこと……いや、なんでもない」
「……俺でも、海里さんを延命させることはできないよ。する気もない」
「っ分かってる。悪い、引き止めて」
縋る思いが咄嗟の行動に出てしまったのだと謝罪する星司。
離された手をじっと見つめた健は、改めて星司を見上げた。
「大切な人を失いたくないと思う気持ちは悪いことじゃないと思うよ」
柔らかく音にして健は星司の横を通り過ぎている。
感情を抜け落ちた顔は優しさで溢れていた。
「二人ともいらっしゃい。ごめんね、こんな姿で」
「カイが謝ることじゃないだろ」
呆れた顔の翔生が腰を下ろし、遅れて星司も腰を落ち着ける。
どこか神妙な空気を落として、数年来の友人は顔を合わせる。
三人ともそれぞれ、言うべき言葉を探すように視線を落とした。
「ふふっ」
暗く沈むようにすら思える空気を、零れ落ちた海里の笑声が壊した。
「なに笑ってんだよ」
「ごめん。こういう雰囲気珍しいなと思ったらおかしくなっちゃって」
「誰のせいだと思ってんだよ。…ったく、カイらしいな」
笑声を合図に空気が弛緩する。互いに表情が和らいだ顔を向け合う。
「暗いのもらしくねえしな」
からりと笑う翔生が潔く思考を切り換えたのが分かった。
翔生はこういうとき、切り換えが早い。暗さを消し去ったような彼の笑みが海里は昔から好きだった。
「……二人にお願いがあるんだ」
本当なら終わりの言葉を残さずに逝けたらと思っていた。最期まで笑って、悲しい気配を感じないまま別れるのがいい。
でも、せっかく別れを交わす時間があるなら無駄にしたくない。
きちんと最期を伝えて、未来を託して終わりにしたいと今は思う。
「俺が…いなくなった後、風斗のことを二人に頼みたい」
「言われなくてもそのつもりだよ、馬鹿。フウだって、カイと同じくらい俺の大事な友達なんだ。最期まで見捨てる気はねーよ」
「ありがとう、翔ちゃん」
迷いを捨て去った目に頼もしさを覚えて、笑みを浮かべる。
大丈夫。海里がいなくなった先でも、きっと大丈夫なのだと。
不安はもとからなく、それでも安堵に近い感情で胸を満たした。
「海里」
震える声に呼ばれて、微笑みを向ける。
癖のように浮かべていた微笑みで未来を見る。消えかけの灯火を抱きながら、真っ直ぐに未来を見る隻眼に圧倒されたように星司は息を呑んだ。
「星司、頼りにしてるよ」
心からの願いを込めて、海里は星司にささやかな呪いをかけた。
この呪いがいつか星司に力を与えてくれたらいいと思う。