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 目を開ければ、見慣れた天井が映し出される。


 ゆっくりと手を持ち上げ、目の位置で開閉する。握って、開いて、握って、開いて。

 身体はちゃんと海里の意思に沿って動く。この身体の使用権はまだ海里にある。


 安堵に近い感情を胸に落とし、海里は身体を起こした。


〈海里……起きたのか〉


 不安で揺れた隻眼が海里を見つめている。

 終わりに近いことを彼も悟っているのだ。失うことを恐れる顔に海里は笑いかける。

 その意味をまた知り、隻眼は大きく波打つ。


〈海里、俺が頼んだらお前は――〉


「やめないよ」


 静かな声は揺るぎなく、決して変わらない意思を伝えていた。


〈そんなにあの女が大切なのかっ⁉〉


「大切だよ。何よりも、誰よりも……かけがえのない人なんだ。残りのすべてを注いでも、華蓮のことは取り戻す。それだけは何を言われても譲る気はないよ」


 隻眼はただ揺れる。海里はそこから目を逸らさなかった。

 カイが――風斗が自分をどれだけ大切に思っているのかは知っている。自分の選択が風斗を傷付けることは理解している。

 だからこそ、向けられる感情のすべてを真っ向から受け止めようと思う。


〈俺にとっては海里がかけがえのない人なんだ……っ。海里のためなら……俺はっ、俺だって命を捨てられる。俺の命くらい、いくらでもくれてやる〉


 甲高い子供の声は悲痛な叫びを訴える。隻眼は歪み、透けた金色の髪が激しく揺れる。


〈海里が生きていられるなら、俺の命なんて食い潰されても構わな――〉


「怒るよ」


 短い言葉に風斗は小さく息を呑んだ。

 その目に、その声に怒りを乗せる。風斗自身にだって、彼の命を蔑ろにはさせないと。

 この考えは矛盾していて、ひどく傲慢なものだ。分かっている。


〈……海里は生きていないと駄目なんだ。海里がいない世界は終わったのと同じ……俺にはっ、壊れてるのと同じなんだ〉


 大きな目から大粒の涙が零れ落ちる。

 彼の身体と同様に透けたそれは零れ落ちても床を濡らすことはない。それでもとめどなく流れる涙は確かにあるものだ。

 あの頃のまま、変わらない風斗の容姿は止まったままの彼の世界を表している。


〈そんな世界で生きていたって意味がない。俺には海里しかいないんだ〉


 必死に伸ばされる手は透けていて、海里には触れられない。

 必死に並べられる言葉はどれも海里の意思は変えられない。


「そんなことないよ。世界はとっても広い。カイが――風斗が知らない世界もまだたくさんある」


〈でもっ、海里がいないなら……〉


「俺がいなくなっても、翔ちゃんがいる。妖華様が、処刑部隊のみんながいる。風斗は一人にならないよ」


〈そいつらが求めてるのは海里の方だろう⁉〉


 彼の声はただ海里を繋ぎ止めようとしていた。

 その姿を見つめて海里は笑んだ。柔らかく、愛を注ぐように柔らかく。


「風斗だって分かっているだろう?」


 翔生が気にかけているのは海里だけではない。

 妖華が愛を注いでいるのは海里だけではない。

 処刑部隊の面々が見ているのは海里だけではない。


 海里に向けられているそれらは同じように風斗にだって向けられているのだ。


「俺は、頑固で我が儘で……兄失格だから」


 こんなに泣かせて、こんなに傷付けて、それでも自分を曲げる気は少しもない。

 最低な兄だと自分でもそう思う。


「最後のお願いを聞いてほしい」


〈っ……海里はっ、ずるい〉


 それを言われてしまったら風斗は何も言い返せなくなってしまう。こういうときの海里は折れないと誰よりも知っている。

 顔を俯けて掻き消える風斗の姿。やはり自分は兄失格だ。

 いつも、これまでもこれからもずっと風斗に甘えてばかりだ。


「……。……取り敢えず、レオン辺りに状況確認を」


 気を失ってからどれだけの時間が経ったのか。

 考えながら立ち上がろうとした海里の鼻が甘い香りを捉えた。微かな香りに訝しる海里は一拍置いて聞こえたノック音に瞬きをする。


「入って」


 短い返答を聞いて、小さく息を呑んだ気配を感じた。

 眠っていると思っていた人物から返事が返ってきたのだ。驚くのも無理はない。


「海里様、健さんの使者が見えています。お通ししてもよろしいでしょうか」


 扉越しでも漂う甘い香りが来客者の正体を浮き彫りにする。


「うん、大丈夫」


 ゆっくりと扉が開かれ、白衣姿の青年が現れる。起き上がった海里の顔を見て安堵の表情を浮かべたレオンは、後ろにいる人物に中へ入るよう促す。


 そうして姿を現したのは闇色の女性だ。まとう漆黒のドレスは和室だと少し違和感がある。

 甘い香りを連れて足を踏み入れた女性に続くのは見覚えのある青年だ。

 会うときはいつも門衛の制服に身を包んでいた青年は私服姿で女性に付き従っている。


「紫苑さんと……八潮さん?」


 鼻腔を刺激する甘やかな香りで紫苑――夜が来ていることは分かっていたが、同行者もいるとは思っていなかったから少し驚いた。


 門衛、君江八潮。健の協力者である彼と、門衛ではない姿で会うのはこれが初めてだ。

 私服姿のせいで、顔と名前を一致させるのに少々時間を要してしまった。


「久しぶりね、武藤海里さん。目覚めたばかりで悪いわね」


 妖しく笑むその姿はそのタイミングを狙っていたと言わんばかりだ。

 彼女の後ろにいる存在を思えば、目覚めるタイミングを予測していても不思議はない。


「昨日の今日じゃ、多忙の春野家当主様は時間が取れないから私が代わりを務めさせてもらうわ。彼に比べれば、力不足かもしれないけれど」


「十分心強いですよ」


 昨日の今日ということは、海里が気を失ってからそれほど時間は経っていないらしい。精々、一晩眠ったくらいか。

 そう考える海里の横ではレオンが問うような視線を注いでいる。

 健にあまり近付きすぎるな、とレオンに注意されて日も経っていないのにこれである。鋭い視線を向けられることに文句は言えない。


「俺が健君に連絡したんだよ。……それで、紫苑さんを寄越してくれたんだと思う」


「そう、でしたか」


 不満げだ。とはいえ、反対もしない態度。

 緊急事態が起こっている中、有能な相手が協力してくれるのはありがたい。

 相手が健でなければ、という枕詞をつけながらそう考えているのが伝わってくる。


「想い人が攫われたというのに思っていたより落ち着いているのね」


「焦っても結果が得られるわけではありませんから」


「――健と同じ目ね」


 長い睫毛に縁取られた目が細められる。柔らかく、まるで好ましいものを見るように。

 唇は綻び、人々を惑わすほどの美貌は笑みで彩られる。


「覚悟を決めた目。譲る気のない目。――誰かの未来のために自分の未来を捧げる目」


 美麗な声で淡々と紡がれる言葉は海里の心根を端的に表している。

 視界の隅で金色が揺れる。何気なく目で追えば、表情を曇らせたレオンと目が合った。


 自分の未来を捧げる――つまり海里は、残り少ない命すべてを使ってでもは華蓮を助けようとしている。

 その事実を知り、レオンは迷うように瞳を揺らしている。


「好きな目よ」


 レオンの反応などお構いなしに夜は海里だけを目に留めて、目元を和らげる。


「健とは関係なく協力してあげてもいいくらいだわ」


「光栄です」


 海里もまたレオンから視線を外して答える。

 意思を変える気がないのだから、下手に言葉を交わしても傷付けるだけだ。今は他にすべきことがある。


「取り敢えず、今の状況を教えてくれるかしら。藤咲華蓮の所在はどこまで掴めているの?」


 海里は眠っていて知らないので、乞うようにレオンを見た。

 未だ暗い表情のレオンは話を振られて、すぐに表情を切り替えた。処刑部隊副隊長としての顔だ。


「ナグモさんが協力してくださっていますが、目ぼしい情報は何も……」


「日も経っていないのだから仕方のない話ね。連れ去ったのが藤咲桜――いえ、白き存在なら銀の目でも簡単に掴めないでしょうし」


 神生ゲームについてどこまで把握しているのか蠱惑的な笑みからは読み取れない。

 彼女はすべてを知っているわけではないはずだ。健は当事者ではない者へ不用意に情報を与える人間ではない。

 推測のみで、真実に近いところを見ているのだ。


「居所が掴めていないのなら、八潮を連れてきて正解だったわね。人探しなら頼りになるわよ」


「人より少し感知能力が高いだけやけど、できることはやらせてもらいます」


 門衛になるには高い感知能力が必須条件だと聞いたことがある。

 その上、健に選ばれた人。その実力は信用できる。


「力を貸すのは構わない。けれど、その前に一つ聞かせてもらえるですか」


「何ですか」


「藤咲華蓮の居所を知った先で貴方はどう動く? 貴方が愚者ではないことは知っているわ。それでも敢えて聞かせてほしい」


 一見すると無駄な行為。けれどもそこには確かな意味が込められている。そんな気がした。


「相手は藤咲桜。のこのこ助けに行って返り討ちに遭うだけかもしれないわよ」


「無謀な賭けに出るつもりはありません。俺の命はそんなに安くない」


 視界で金色がちらついた。今度は目を向けない。

 興味深そうに向けられる切れ長の目だけ見つめ続ける。


「勝つためではなく、取り戻すためなら打つ手はある。俺は一人じゃない。力を隠してくれる人がたくさんいますから……繋ぐために俺は華蓮を助けに行きます」


「繋ぐため、ね。貴方が生きることで繋がるものもあると思うけれど?」


「そこに俺の望む未来はありませんから」


「その目で未来を語るのね」


 静かな声でただ目を細めた夜。

 美貌に映し出された悲哀の色こそ、夜が問いかけた理由なのだと悟る。

 その美声が問いかけたのは海里でも、語りかけたのは別の誰かだ。


「さて、無駄話はおしまいにして本題に入りましょうか。クリスはこちらにいるかしら?」


 問う声を受けて、海里は隻眼をレオンへ向ける。小さく頷いたレオンは腰を浮かし、


「呼んで参ります」


 部屋を去っていく。

 ある程度は立ち直ってくれたようだ。もう心配はいらないだろう。


 これも目の前で妖しく微笑む彼女のお陰だ。

 間もなくしてレオンは姉であるクリスを連れて戻ってきた。


「お呼びですか、海里様」


 女性らしい起伏に富んだ身体を薄手の布だけで包んだ女性が妖艶に微笑む。

 同じ妖艶のようで、まとう雰囲気は夜のものとはどこか違う。


「八潮」


 短い呼びかけに応じて八潮は立ち上がる。そうして人好きのする表情でクリスと向き合う。


「クリスさんが張り巡らしとる糸を使わせてもらえます?」


「構わないわよぉ」


 詳しい事情を一切聞かないままにクリスはその手を差し出した。

 差し出された手には何もない。見えないだけで、そこには幾重にも絡み合った糸があるのだ。


「失礼します」


 差し出された手を八潮が触れた。不可視の糸に触れた。

 クリスの手から伸びる糸は史源町全体に張り巡らされている。

 その姿は蜘蛛の巣のごとく。クリスは自らを中心に伸ばした糸を介して情報収集を行っているのだ。


 今回も糸を使って情報を集め、華蓮の行方を追っていた。

 糸に触れる八潮は目を瞑り、気配を探ることに集中している。


「んー、目ぼしい気配はないな。上手く消されとる。俺の力でも探るのは難しいなあ」


「なら、霊力の痕跡を探りなさい。式の軌跡を辿れば、場所も絞れるわ」


「そうは言うても、俺は藤咲桜さんに会うたことあらへんし、精度は落ちるで」


「問題ないわ」


 迷いのない言葉に八潮は目を開けて夜を見た。

 暗い緑の目が闇色の女性をじっと見つめる。そこに驚きを宿しながらも、夜の言葉への不審は存在しない。


「健に似た霊力を探せばいいのよ。得意でしょう?」


「ああ。それなら問題あらへんな」


 詳細を省いた言葉に八潮は素直過ぎるほど素直に頷き、与えられた役割に専念する。

 そこにあるのは確かな信頼で、二人の付き合いの長さが窺える。


「何故、健さんの霊力を?」


「似ているから、だけでは不満かしら? 悪いけれど、私も似ている理由までは知らないわ」


 底知れなさを漂わせる夜の雰囲気からは、嘘か本当かは判断できない。

 けれども、これ以上は答える気がないのは今までのやり取りからも分かる。


 夜にしろ、健にしろ、言わないと決めたことは絶対に口を割らない。

 諦念の息を吐くレオンを横目に、海里は胸の内にささやかな理解を落とした。


(やっぱり、健君は……)


 度々示唆される健と桜の関係性。そこに触れられた気がした。


「見つけたで」


 思考の合間を縫うように八潮が声をあげた。


「もう、ですか⁉」


「早いわねぇ」


 早すぎる成果に驚く面々の中で夜だけ大きく表情を変えず、佇んでいる。

 これこそ君江八潮という男の真価なのだと物語っている。


「霊力の残滓は春ヶ峰学園で途切れとる。中っちゅうわけでもあらへんな。下……多分地下やな」


「春ヶ峰学園の地下……」


 知っている場所だ。

 闇そのもののような男と戦った場所。半身の幸福を願い続けていた男が封印されていた場所だ。


 確かに隠れ潜むには都合がいいと言える。

 あそこには彼の残滓が蔓延している。潜められた気配なら簡単に埋もれてしまうことだろう。


「さて、これで私たちの仕事は終わりかしらね」


 立ち上がる夜は闇色のドレスを翻し、背を向ける。切れ長の目は八潮を一瞥してから、綻んで海里を射抜いた。


「戦力が必要なら声をかけて」


「ありがとうございます」


 感謝の言葉に瞬きで応えて、夜は颯爽と部屋を後にした。甘い香りだけを残して。


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