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「暖かくなってきたと思ったけど、やっぱり夜になると寒いね」
突き刺す寒さが弱まり、春の暖かさが顔を出し始めた季節。
暖かさを齎す太陽が姿を隠せば、風の冷たさが勝つ。
暖房で温められた身体を冷たい風に晒した海里は隻眼で先客を見つめる。
小学生同然だった身長は二、三年かけて伸び、一六〇センチメートル代に届くまでになっている。子供と大人の中間を絶妙に表現した顔が海里に向けられる。
「お一人なんですね」
「二人きりがいいのかなって」
「いえ、レオンさんならついて来ると思っていたので」
レオンは健を警戒している。本音を見せない強者を相手にするなら当然のことだ。
しかし、海里は健の本当を知っている。だから警戒はしないし、二人きりになることにも躊躇いはない。
「健君はこんな目立つ場で仕掛けるようなタイプじゃないし、レオンじゃ健君には勝てない。ちゃんと説得すれば、レオンは分かってくれるよ」
真面目で心配性なだけで、レオンは頑なではない。
距離のある状態でも、健との付き合いは長い。信じるに至る理由はレオンの中にもある。
「海里さんらしいやり口ですね」
言葉の意味が分からず、小首を傾げる。
「どーぞ」
差し出されるのはシャンパングラスだ。透き通った液体が中で揺れている。
海里は今年で二十一になる。年齢的に飲酒は問題はないが。
「りんごジュースです。アルコールは入っていないのでご安心を。俺はまだ飲めない年齢ですし」
健の誕生日は十二月。今はまだ飲酒可能年齢に達していない健は当然ながら、お酒を飲むことはできない。
甘酸っぱい香りが鼻腔を擽り、確かにりんごジュースだと頷く。
「海里さんってあまりお酒を飲まれませんよね」
「お酒は身体によくないからね」
暈した返答の意味するところを悟って健は納得した素振りを見せる。
海里の身体は海里のものではない。弟の、風斗のものだ。
使わせてもらっている立場である以上、健康を損なう真似はなるべく避けたいというのが海里の心情だ。
「積極的に飲むほど好きでもないしね」
「まあ、俺もお酒を美味しいとは思えませんが。りんごジュースの方が余っ程、ですよ」
さも当たり前のように返す健の顔を見る。
二十歳以下でありながら、あっさりと飲酒経験を暴露したことに驚いて。
裏社会で生きてきた人間だと考えれば不思議はないが。
「春野家当主って機嫌取りのためにいろんな人から贈り物をされるんですよね」
「うん?」
「当然、幸さんの好みを調べて贈られるわけですが、幸さんは高級スイーツが贈られることが多かったわけです。でも、幸さん自身は甘い物が特別好きというわけではないので、そのほとんどが俺のお腹に収まっています」
ここまで来て健が何を話そうとしているのか、なんとなく分かってきた。
「高級スイーツはアルコールが入っているものも珍しくありませんから間違って食べたことがあるんです。ウイスキーボンボンとか」
「……てっきり処刑人の仕事で、だと思ってたよ」
「幸さんは面倒な人なので、その必要のある仕事は回してきませんよ」
和幸は貴族街の人間にしては珍しく良識のあるタイプだ。
治外法権である以上、二十歳以下の飲酒も罰されることのない貴族街。しかし、和幸は飲酒されることをよしとはしない。
そこを面倒と称する健に海里は苦笑を零した。
「飲んだところで俺はどーせ酔えないのに」
酔わない、ではなく酔えない。
言い回しの微妙な違いが気になって健を見た。凪いだ表情だ。
健は酔いたいのだろうか。
その細い肩が負うもの大きく重い。誰に言うこともできない隠し事だって多い。
酔いを言い訳に抱えたものをすべてぶちまけてしまいのかもしれない。
しかし、言い回し以外でそれを匂わせることなく佇む健。悟らせないよう努めているようにも見える。
頑ななその姿を見て、堪らない気持ちが込み上げた。
「海里さん?」
怪訝な声で海里は自分が健の手に触れていることに気付いた。
込み上げる感情に突き動かされて、つい手が伸びてしまった。
「ごめん、つい」
「いえ。ちょーどいーのでそのままで」
話そうとした手を掴み直される。重なる掌の間に石のようなものが生成される。
「華蓮さんの容態はどーですか。体調を崩していると聞きました」
「つわりが酷いみたいで。今は流紀さんが見てくれているよ」
妊娠してからずっと華蓮は体調を崩していた。普段の気の強さが鳴りを潜めた、弱々しい姿ばかりを最近はずっと見ている。
子供の誕生は自分が望むことでもあるのに、何もできないのがもどかしい。
「失礼を承知で言いますが、俺は正直、二人の間に子供ができると思っていませんでした」
「俺もだよ。種族の違いもあるけど、何より……この身体は俺のものではない」
生まれる子供は果たして海里の子供だと言っていいものなのか。
〈生まれる子供は海里さんの子ですよ〉
脳に直接響くような声だ。握った手の間に存在する石から声が届けられているのだ。
わざわざそんな面倒なことをしているのは誰にも聞かれたくないから、だろう。
誰にも――この世を創った帝天にすら聞かれたくない話。
〈健君にそう言ってもらえると心強いよ〉
健に倣い、意思へ意識を集中させて言葉を届ける。
〈そこが問題でもありますが〉
不穏をまとった言葉に海里は神妙な面持ちで続く言葉を持つ。
〈本来生まれるはずのない子供。俺がもたらした歪みにより生まれた存在。その意味は分かりますね?〉
〈生まれる子は異端ってことか……。出来損ないの神になる――〉
〈そーだったらまだ話は早かったんですけどね〉
表情は変わらない。しかし、健の声音には苦々しいものが滲んでいる。
異端として生まれ落ちた者はその存在を安定させるために帝天から力を奪う。そうして出来損ないの神が生まれるのだと、健は言っていた。
〈出来損ないの神とは別に異端者が生まれよーとしているんです〉
海里の知識は健から聞いたものばかりだ。付け焼き刃の知識でしかなく、その問題点が分からない。
〈力を奪わずとも異端が存在できるところまで世界は歪んでしまっている。しかし、帝天はそれを許さない〉
〈帝天が俺たちの子を狙っている……?〉
〈そーいうことです。華蓮さんの不調も帝天の手によるものでしょう〉
淡々と告げられる事実に衝撃を受けた隻眼が瞬く。
今の今まで考えてすらいなかった。自分の立場を自覚していたはずなのに抜け落ちていた。
緩んでいたのだ。幸せな日々に身も心も甘く溶かされていた。
〈――桜さんの捜索状況はどーなっていますか〉
あくまで機械的に、情報交換を進める健に海里もまた思考を切り替える。
〈手掛かりはまだ何も。クリスの包囲網にも引っ掛かってないよ〉
当代一の妖退治屋と謳われる女性、藤咲桜。彼女は半年前に突如として行方を晦ました。
勅命を受けて、処刑部隊が探しているが、未だに情報は掴めていない。
行き先どころか、行方不明になった原因すら分からない。自らの意思なのか、他者の介入があったのかさえも。
〈そーですか。では、妖華さんに引き上げるよーお伝えください。俺からと言えば、踏ん切りがつくでしょーから〉
健は海里が知らないことを知っている。桜の失踪、その真相をきっと知っている。
〈分かった、伝えるよ。その前に聞いてもいいかな?〉
〈何ですか?〉
〈桜さんの失踪に何があるの? 健君や妖華様が気にかけているのは知り合いだからじゃないよね? 力が理由でもない〉
海里が思い浮かべられるものはどれも理由としては弱い。
妖界の王が、私兵を使ってまで失踪した妖退治屋を探している。
親友だからというには彼女の立場が邪魔をする。他に何か理由があるはずだ。
〈桜さんは帝天の宿主なんです〉
刹那の迷いを滲ませ、健はそう言った。海里が聞かなければ、言うつもりはなかったのかもしれない。
〈帝天にも宿主がいたんだね〉
〈帝天と言えども、定めたルールの外は歩けない。一度の失敗より慎重になっていますからね。世に干渉するために器を用意したんです。――そして当代の器は桜さん、ただ〉
選ぶように紡がれる言葉は海里に聞かせたくないというより、健自身が口にしたくないように聞こえる。
それでも何とか感情を抑えながら言葉を紡いでいるのだ。
〈桜さんは帝天を退けるだけの力があった。その力があったから器に選ばれたとも言えるでしょーが、ともかく桜さんは結界の中に引き籠って、帝天を退け続けてきた〉
しかしそれは半年前に終わった。ゆっくりと事実を咀嚼して理解を落とし込む。
健や妖華が気にかける理由を遅れながらも理解した。
〈桜さんを連れ去ったのは帝天ってこと?〉
〈連れ去ったのか、誘き出したのかは分かりませんがおそらく。……桜さんは帝天の手に落ちた、ということになります〉
妖界の王に匹敵する力を持った人物が敵に回った。
突き付けられた事実は以外にも衝撃をもたらさなかった。感情を波立たせず、事実を事実として受け入れる。それ以上のものは生まれない。
表情を変えない海里に、健は微笑した。
〈相手は手強い。必要とあれば、俺も力を貸します。どの道、倒さなければならない相手ですしね〉
言いながら、健は肩をすくめる。
〈そのときまで力を温存したいのが本音なので、出来得る限りっていう枕詞はつきますが〉
そんな予防線を張っていても、健は必ず力を貸してくれるだろう。それが分かる海里は笑んだ。
「この石は差し上げます。お守りにはちょーどいーでしょう」
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バルコニーで二人の人物が話している。
一人は、藍髪の青年。女性と見紛うような顔立ちには見慣れた笑顔が浮かべられている。
一人は、今回のパーティの主役だ。仮面を外した無表情にも微笑が宿っている。
親友と弟。談笑とも、密談とも言うべき語り合いを星司は慣れた位置から見ていた。
「気になるのか?」
不意の声に驚いた星司は傍らを見る。まさに今日、一線を退いたばかりの人物だ。
「幸さん、話とかいいんですか」
「俺はこれから隠居生活する気なんだ。そんな奴に媚びを売っても意味がない……ってことで早々に逃げてきた」
「そんなんでいいんすか」
「パーティの主役があんなところで話している方が問題だろ」
呆れ気味で和幸は視線を健へ送る。つられて星司も会話を重ねる二人を見る。
「気になるのか?」
和幸は再度、同じ問いかけを投げかけた。
心が震えて、胸が詰まる思いがする。相変わらず自分は逃げ腰で嫌になる。
「気になるなら聞けばいい。はぐらかされるかもしれないが、ここで足踏みしているよりずっとマシだろ」
話せないことだったとしても、行動した星司を無下にはしない二人だ。
それは分かっている。分かっていて行動に踏み出せない星司が情けないだけ。
「俺は弱い……。気になっても踏み出せないままです。いろんなものを乗り越えて強くなった気になっても、結局弱いまま変われない」
「でもお前は、月と向き合った。海里とも。変わってないわけじゃないんだ」
健へと向けていた視線を、和幸は星司に向けた。
笑っていた。優しい顔で。慈しむような、温かい表情で。
「これでも俺はお前に期待しているんだぞ」
「なんで……っ」
揺れる問いかけに和幸は肩をすくめただけだ。肝心な答えは得られない。
ただ優しい顔のまま、星司と健を順繰りに見る。
「あいつは、健は弱い奴だよ。必死に強く見せているだけで……俺はお前にあいつの心を守ってほしいんだ」
再度、視線を健へ向けた和幸はその目元をさらに和らげる。それは彼が子供たちに向けるものとよく似ていた。
和幸は健のことも自分の子供と同じように思っているのだ。同じように愛している。
「俺だっていつまでも健の傍にいてやれるわけじゃないしな」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
幼い頃から健は春野家に入り浸っていた。兄の星司よりも、血の繫がりのない和幸の方が健を近くで見てきたのだ。
健に与えられなかった家族の情を、代わりに与え続けたのは和幸なのだ。
そのバトンを星司に渡そうとしているのだと気付き、震えた。
愛していないわけではない。昔は誰よりも愛しい弟だと思っていた。
か弱く、小さな弟を最後まで守り通すと己に誓った。誓ったはずだった。
けれども、その誓いはあっさりと破られ、渦巻く後悔が受け取る手を躊躇させる。
「健のこと、頼んだぞ。お兄ちゃん」
冗談めいた和幸の言葉にすら何も返せなかった。




