「楽しみ」はよく噛んで味わって食べよう
よく、年を取ると体感時間がどんどん短くなってくるなんて話を聞く。
私自身それは年々身をもって実感しているのだけれど、それは単に老化しているというだけではない気がする。何だか大袈裟な言い方になるが、世界そのものがどんどん加速しているように感じるのだ。それも、もの凄いスピードで。
陳腐かもしれないが、卑近なたとえ話をしてみよう。
私は社会人になった頃、上京して一人暮らしをしていた。そしてお盆や正月、暫くぶりに帰省したとき、実家に居た家族たちの生活で、驚いたことがあった。
リビングで寝転がりながら、録画したテレビ番組や映画なんかを見る姿。それ自体は昔から見慣れた光景だった。でもその画面に映し出される映像は、倍速再生されていたのだ。
世界が加速するのと一緒に、どうやら人間たちも加速していたらしい。最早、等倍速で見るテレビなんていうのは、かったるくて仕方ないのだろう。なるべく速く、なるべく多くの情報量を目の中に取り込む。そんな習性が、無意識に現代を生きる人々には身に付いている気がする。
動画サイトの投稿主。黎明期は週に1回くらいの更新でも普通だった。3日に一度でも更新されれば、すごく精力的に活動している人なんだと感心していた。それが今や毎日投稿が当たり前、何なら主流は生配信へとシフトした。
巷に流れる音楽はどんどんテンポが速くなり、キーが高くなり、その分音数が密集していて、フルコーラスで3分もあれば充分だ。5分も6分もあるようなバラードは聴いていられない。イントロもギターソロも要らない。美味しいサビ部分だけ数回聴ければそれで良いのだ。
物語には興味あるけど、小説家の冗長な長文なんて読んでいられない。タイトルだけで全てわかるようにしてくれ。積み上げた緻密な伏線なんて要らないから、とにかく序盤で衝撃的な事件を起こせ。そしてストレスなく見られるように、主人公には都合の良いことばかり起こせ。
一瞬で見終わる絵を何十時間もかけて描くなんて馬鹿馬鹿しい。AIに作らせればどんな絵柄でもクリック一つで仕上がる。パースや人体構造なんて勉強しなくても、腱鞘炎になりかけながらデッサン練習なんてしなくても、ちょっとした注文のテキストを打ち込めば、誰でも無尽蔵に綺麗なイラストを量産することができるのだ。
どんな素敵な体験も、わざわざ足を使って現場まで出向く必要はない。自室でベッドに寝転がって、端末の画面を眺めているだけで、欲しいものは何でも手に入る。すべてが一瞬で。
これは情報の、そして娯楽の産業革命だ。
……でも量産される娯楽に対して、「楽しみ」は果たして同じだけ生まれたんだろうか。
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少し関係ない話になるけれど、小学生の頃、私には仲の良い幼馴染が居た。でも向こうが家庭の事情で海外へ引っ越すことになってしまって、私はひどく寂しい思いをした。
そんな幼馴染に向けて、私はよく手紙を書いていた。地球の裏側へのメッセージが届くまでに、そして返事が返ってくるまでには、何週間も待ったものだ。
返事を待っているとき、私は待ちきれなくて学校の授業も手に付かなくなっていた。でもそんな待ち遠しい期間も今思えば楽しくて、ようやっと海の向こうから届いた便箋を見たときの嬉しさといったら、きっとクリスマスの朝にサンタさんがくれたプレゼントを開けるときよりも大きなものだっただろう。
ところがそんな楽しみは、あるときから薄れてしまった。中学生になるくらいの頃、幼馴染から届いた手紙には、時間を操る横文字の呪文が書かれていた。……いや、ただのメールアドレスなんだけれども。
「これからはこっちに送ってくれれば、すぐに返信できるよ!」
そんな幼馴染からの文言に、はじめはすごくワクワクした。時差こそあれど、長くても2〜3日待てばお互い返事を受け取れるようになったからだ。
そして時代はさらに進み、知り合いとの主な連絡手段はメールからチャットへと変遷した。地球上のどこに居ても、一瞬でメッセージを送り合える。写真だって送れるし、何ならビデオ通話だってできる。なんと便利なことか。
でもその代償に、あの頃感じていたワクワク感は、もうどこにも無くなってしまった。
日本では見慣れない便箋や切手のデザイン。封を開けたときに香る遠い地の匂い。どんなメッセージをくれたんだろう、こんどはどんなメッセージを送ろう。この限られた手紙のスペースに、どんな言葉を書き並べよう。月に1回もない貴重なこの楽しみを、どんな気持ちで敷き詰めよう。
今日から見れば不便だったことも、きっと私の楽しみを形作る要素の一つだったんだと思う。
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唐突ながら、私は「創る」ことが好きだ。文章を書く。絵を描く。音楽を作る。どうしてかはわからないけれど、とにかく自分で何かを生み出すことへの心地良さが、3大欲求と同等にある。
そして、誰かが創作したものを嗜むのも好きだ。たとえ洗練された芸術作品でなくとも、その人の「人となり」が見えてくるような創作物を見ていると、まるで誰かの心の中を探検しているようで、その人の人生を追体験しているかのようで、とてもワクワクする。
でも極度に効率化された現代社会では、そんな誰かが生涯を懸けて作ったものさえ、一瞬で消費されてしまう。
たぶんそれは人類が、あるいは文明が次の段階へ進化していくために必要なスピードなんだと思う。
きっと、無駄なのだ。たった一秒のメロディのために何十時間の試行錯誤をすることも。一瞬でスワイプされてしまうイラストのために何百何千の線や色を描き重ねることも。ほんのひと言のセリフのために何万の言葉を考え巡らせることも。
その文化自体を次の時代へ連れて行けるほどの能力を持った者でもない限り。現代社会においては、この上なく無駄な時間と労力なのだろう。
あまりにも便利で加速度的に進むこの時代、「楽しみ」を貪る人々は、ひどく大食らいで、それでいて美味しい物のひと口目しか食べなくて、そのくせ大して咀嚼もせずに丸呑みしてしまうことばかりだ。
そして我々凡俗が全力を注いで作り上げた渾身の一品はといえば、誰に食べられることもなくやがて腐って捨てられていく。
でもそんなの、あんまりじゃないか。たとえ凡俗だとしても、そのすべてを不要だと切り捨ててしまうのは、私にとって彼ら彼女らの生き様を、人となりそのものを無価値だと言ってしまっているように感じる。
現実、たぶん私は昆虫食みたいなゲテモノは食べられないと思う。でも誰かが人を楽しませるために生涯を懸けて作った創作物であれば、たとえゲテモノだろうと何十回も咀嚼して残さず食べたいと思う。
その一秒の音に、一枚の絵に、ひとひらの言葉に、どれだけの時間をかけ、どれだけの意味を込めて作ったんだろう、と想像しながら。
身も蓋もないことを言うけれど、どうせ人生なんてチューインガムみたいなものだ。どんなことをしていても、本当に味があるのは最初だけで、あとは死ぬまで何の味も栄養もない塊を噛み続けるばかりだ。
ならせめて、そのガムの噛みごたえだとか、風船を作ってみたりとか、舌の上で転がして何かの形を作ってみたりだとか、そんなことも楽しめるように生きていきたい。誰かが自分の人生を凝縮して作ったガムなら尚更だ。
そんな私の仕事用デスクには、いつもボトルガムが常備されている。これが退屈で面倒な仕事から私を救ってくれる唯一のアイテムなのだ。
ちょっとしたことですぐ落ち込んでしまう、打たれ弱い私を支えてくれるのは、この便利で目まぐるしくて息苦しい消費社会じゃない。不便で非効率で無駄だらけの、気持ちの込もった「楽しみ」なのだ。
だからそんな「楽しみ」はよく噛んで味わって食べよう。美味しいものっていうのは、何故だか決まって体に悪く作られているんだから。