交換しましょう! お姉さま!
「交換しましょう! お姉さま!」
妹のシスティが、私の部屋まで来てそう言った。
決意は固そうだ。
拒否した所で、梃子でも動きそうにない。
それでも私は聞くしかなかった。
「本当に、いいの?」
「勿論です! もう私は、我慢できません! どうして、お姉さまばっかり……!」
「……」
「お姉さまばっかり、イジメられるなんてッ!」
システィは怒りに身体を震わせる。
私のために怒るなんて、何て愛おしいのかしら。
そんな有様を見て、今までの事を思い返す。
私、セレスはグレーヴァス伯爵家の長女。
家族はお父様とお母様そして双子の妹、システィ。
ここだけ見れば、何の変哲もない貴族の家系に見えるかもしれない。
でも実際は違う。
お父様とお母様は、明確な姉妹差別をしていた。
姉である私は厳しくしつけ、妹のシスティばかり甘やかした。
「本当にシスティは可愛い子ね」
「あぁ、それに比べてセレスときたら……」
事あるごとに私達を比較し、私だけを貶した。
褒められたことなど、殆どない。
少しでも非があれば、お父様もお母様も私に手を上げる。
だと言うのに、対するシスティに手を上げる事は一度としてなかった。
何を間違えても、彼女は怒られたりはしない。
「セレスは長女なのだから、我慢なさい」
「お前は本当に、何をやっても駄目だな」
何をしたところで、覆らない。
幼少の頃からずっとそうだった。
いつの間にか、私の表情には影が落ちていく。
同じ容姿である筈の私達には、次第に雰囲気の差が現れるようになったのだ。
システィも幼いながらに異変に気付き、両親に反発した事があった。
「お父さま! お母さま! 私だけでなく、お姉さまもちゃんと見てあげて下さい!」
「何てこと。あのセレスを気に掛けるなんて、本当にシスティは良い子ね」
「大丈夫さ。セレスは長女だ。時には我慢も必要なんだ」
しかし、何をしても全ては『姉思いの優しいシスティ』という意味に変わった。
結果として、私は更にぶたれるだけだった。
酷い話だ。
もう、道理も何もない。
彼らはただ『姉のセレス』というだけで、存在そのものを否定するのだ。
私は思考を打ち切って、目の前のシスティを見上げる。
顔は同じでも、私と違って明るさに磨きが掛かって、とても綺麗に見えた。
これならば、両親が溺愛するのも無理はない。
それは私も同じ。
しかしこの『交換』だけは、簡単には頷けなかった。
「私は大丈夫よ、システィ。もう、十分に慣れたわ」
「こんな事、慣れてはいけません! それにどうしてここまで比べられなければならないのかも、分かりません! 私達は瓜二つの、双子なのに!」
「……」
「ですから交換しましょう! 私達の『姉』と『妹』を!」
そう、システィが提案したのは『姉妹』の交換。
私がシスティになり、システィが私になるという話だった。
元々は瓜二つの私達。
衣装を変えれば誤魔化す事も出来る。
だが、それはつまりシスティが私の代わりにぶたれるという事。
私は彼女の震える手を優しく握った。
「駄目よ、システィ。そんな事をしたら、貴方までぶたれてしまう。血だって流してしまうわ。私にはそんな事……耐えられない」
「お姉さまが受ける罰を代わりに受けられるのなら、構いません! こんな事が続いていくなんて、私はもう、私を許せない!」
「システィ……」
「お願いします! どうか、私と代わって下さい!」
本当に優しい子。
既にシスティの覚悟は決まっていた。
この家は狂っている。
私もそれは同じ。
恐らく彼女だけが、まともな思考を保てているのだろう。
そんな子を崖下に突き落とさなければならないのだ。
あぁ、神よ。
愚かな私をお許しください。
断腸の思いで私は頷いた。
「分かったわ。けれど、ずっと交代なんて駄目よ。心が壊れてしまうわ。一日……一日交代にしましょう」
「お姉さま……!」
「けれど今日から、なんて事はしません。突然代われば、お父様やお母様も絶対に気付くわ。先ずはお互いに練習をしてから、ね」
「分かりました! 私、お姉さまを勉強します!」
そう言っておく。
瓜二つであっても、今まで形成されてきた雰囲気が簡単に真似できる訳はない。
時間を掛けてゆっくりと。
そこから始めていきましょう。
そこまで言うと、システィは可愛らしい笑顔で答えた。
何故、私がここまで妹のシスティを愛しているのか。
理解できないかもしれない。
始めは私も、システィを憎んでいた。
幼い故の嫉妬。
どうして妹ばかりが、とやり場のない怒りを抱いていた時があった。
けれどそれも、切っ掛けがあれば変わるもの。
ある時、お母様が私の頬をぶった。
「セレス! 貴方はまた、こんな事も出来ないなんてッ!」
よくある話。
一体、何で怒られていたのかも忘れた。
だが、その時だった。
それを見ていたシスティが、持っていた玩具で自分の頭を殴り始めたのだ。
何度も何度も。
私が呆然としていると、お母様の悲鳴が響く。
「システィ!? 何をしているのッ!? 止めてッッ!!」
遂にシスティの頭から血が流れ始める。
思わずお母様が玩具を取り上げると、彼女は私を見た。
お母様など、見ていなかった。
頬をぶたれ、赤く腫れあがった私の顔を見て、そしてニッコリと笑った。
「システィ……?」
「これで……お姉さまとお揃いですね……?」
その瞬間、私は雷に打たれたようだった。
何故、今まで気付かなかったのか。
システィはずっと、私を守ろうとしていた。
あの二人がどれだけ私を貶そうとも、あの子だけは庇い続けていた。
この狂った家の、最後の希望、最後の良心。
それなのに、私は自分の事ばかりで周りが見えていなかったのだ。
憎んでいた事が恥ずかしくなるばかり。
故に私が彼女にしてあげられるのは、愛する事だけ。
だからこそ、私は『交換』を願い出たシスティを抱き締めた。
「ありがとう、システィ。本当に、本当に嬉しいわ」
「うぅ……お姉さま……」
「少しの辛抱よ。この家を出て、生きられる歳になるまでの辛抱。それが過ぎたら、一緒に此処から逃げましょう」
「はい……!」
まだ私達は自立できるだけの歳も教養もない。
あと数年、この家から出るまでに知恵を付けなければならない。
そうすれば晴れて、私達は自由の身になれる。
私達はそれを確信し、『交換』の準備を始めた。
私はシスティの、システィは私の真似に努める。
始めは私にシスティの真似が出来るか、少し不安ではあったが、そこは練習を重ねる以外になかった。
テストとして、お屋敷の使用人にも試してみた。
彼らは所詮、ただの小間使い。
主人であるお父様やお母様の命令には逆らえない。
以前も私に優しくした使用人は、直ぐに辞めさせられてしまった。
だがこの屋敷の異常さには気付いていたらしい。
私達が成り代わっている事も、決して咎めようとも、密告しようともしなかった。
そして何度かの繰り返しを経て、私達は完全に入れ替わる。
一日限りの成り代わり。
部屋も、衣装も、身に着けるものも変えていく。
その日、私は先ずお父様の元へと向かった。
「どうした、システィ?」
バレれば、ぶたれる所では済まない。
そんな恐怖が私の足を止めたが、勇気を振り絞った。
システィの頑張りを無駄にしてなるものか。
私は何度も練習した笑顔を、お父様に見せた。
「いいえ。何でもありませんわ、お父様」
「そうか、何か困った事があれば言うんだぞ。私が力になるからな」
「……ありがとうございます」
するとお父様は、今まで私に見せた事のない笑顔を見せるだけだった。
全く、気付かれなかった。
あまりに拍子抜けで、全く実感がなかった。
夢か何かなのか。
よく分からなくて、今度はお母様の所を尋ねてみる。
「システィは今日も綺麗ね。本当に、抱きしめたくなっちゃうわ」
「お母様……?」
「ほら、こっちにおいで」
何かを言う間もなく、抱き締められた。
こんな事、今まで一度も経験しなかった。
お母様からの確かな抱擁。
ただ、親しみの感情は全くなかった。
分かったのは、本当に私がシスティと成り代わる事が出来たのだと言う事実だけだった。
その日の深夜、私達は皆が寝静まった後で顔を突き合わせる。
「お姉さま、どうでしたか?」
「全然気付かれなかったわ。自分でも驚いちゃうくらい」
「当然です。だって私達は双子、ですから」
システィは笑う。
しかし既に私は、彼女の異変に気付いていた。
「システィ……貴方、頬が……」
「あはは……少しぶたれちゃいました。でもっ、これってつまり、お姉さまの演技が出来ているって事ですよねっ。痛かったけど、ホッとしましたっ」
本当に、貴方という子は。
私は思わず赤くなった頬に触れた。
本当なら、私が受ける筈の罰。
その矛先がシスティへ向いた事実が、胸に突き刺さっていく。
それにしても、自分の愛する娘の正体も分からないなんて。
なんて、愚かな人達。
罪悪感と共に、沸々と二人への怒りが沸き上がるのだった。
翌日、私達は再び入れ替わる。
言ってしまえば元の状態だ。
私は自分の演技に戻ることにした。
対するシスティの、頬の腫れは治っている。
いつものように彼女は明るい笑みを浮かべた。
「今度は、私の番ね」
「はい、お姉さま。どうか、お気をつけて」
握り締め合っていた手を放し、そして今日という日に挑む。
やる事は変わらない。
私は使用人の如く、忙しなく動き回る。
だがやはり緊張する。
すると私が向かうよりも先に、お母様がやってきた。
監視しているのだろう。
昨日までの視線とは全く違い、酷く冷たいものだった。
「本当に鈍臭いわねぇ。もっとちゃんと出来ないの?」
「……」
「何とか言ったらどうなの? ホント、気が利かないんだから」
まさか、と私は思った。
あぁ、何てことだ。
本当に気付いていない。
気付かれていない。
昨日の出来事は夢ではなかったのだ。
こんなに呆気ないものだったのか。
そう思っていると、自然と笑みがこぼれる。
「何を笑っているの!?」
「ふ……ふふ……」
「わ、私を、私を馬鹿にしているのッ!? アンタって、アンタって子はッ!!」
顔に何か衝撃のようなものが伝わったが、それ所ではない。
こんなのは、ダメだ。
まるでピエロ。
脳裏にピエロの格好をしたお父様とお母様が映し出された。
さぁ、サーカスのお時間です。
滑稽、馬鹿馬鹿しい。
ブーイング必至。
その不釣り合いな有様に、私はとうとう吹き出した。
「うふっ、うふふふふふふふっ」
「っ!? き、気持ち悪い! もう知らないわッ!!」
するとお母様が、私に怯えて逃げていった。
いつも私を冷たい目で見てくる、あのお母様が。
なんて。
なんて、面白い。
こんなに面白い事なんて、生まれて初めて。
と、我に返ると視界に血相を変えたシスティが現れた。
「お姉さま!? まさか、お母様にッ!? ゆ、許せない……!」
「大丈夫……。ふふっ……大丈夫よ、システィ……。ちょっと、面白かっただけ……」
あぁ、貴方はこんな時でも気に掛けてくれるのね。
私は彼女の頭を優しく撫でた。
沸き上がっていた笑いも、此処までだ。
きっとこれが最初で最後の、人としての感情なのだろう。
「もう、吹っ切れたわ」
そうだ。
あの二人がピエロだと言うなら、私もピエロになってしまおう。
システィを、そして私自身を演じてみせよう。
目の前の愛する妹を傷つけないために、私は笑った。
それから私は、徐々にシスティの演技にも磨きが掛かっていった。
明るく振る舞い、令嬢の如くお淑やかであり続けた。
彼女が見える場所に怪我をすれば、私も同じように怪我をした。
これで私達は同じ。
そう言うと、彼女は泣きそうな顔で微笑んでくれた。
彼女も私の演技に拍車が掛かっていく。
決して、違いなどない。
貴方は私で、私は貴方。
神様であっても、もう見分けはつかないかもしれない。
もう直ぐだ。
もう直ぐ、二人で一緒に逃げ出せる。
●
そんな時だった。
お姉さまが、階段から足を滑らせたと聞いたのは。
私は血相を変えて、お姉さまの部屋へと駆け込む。
そこにいたのは頭に包帯を巻いた、愛する人の姿だった。
「お姉さまッ!」
「システィ……ごめんなさい……」
「一体、何があったと言うんです!?」
「お母様に突き落とされたの……愚図だからって……」
「ッ!?」
「失敗しちゃったわ……」
隣で看病をしていた使用人が、頭を下げて部屋から出て行く。
きっとお母様は何もしなかったのだろう。
階段から落ちたと嘘をついて、見かねた使用人が手当てをしたに違いない。
なんて、酷い事をするだろう。
これまで散々な仕打ちをしておいて、まだ足りないとでも言うのか。
お姉さまは、あの人達の玩具じゃない。
私の怒りは頂点に達しつつあった。
するとそれを逆撫でするかのように、部屋にずかずかと入り込んでくる者が二人。
紛れもない、お父様とお母様だった。
「何をしているの? システィ?」
「お母様! これは一体、どういう事ですか!?」
「どうもこうもないわ。セレスが勝手に足を滑らせたのよ。全く、本当に気持ち悪い子」
当然のような顔をして言い放つ。
どこ吹く風だ。
私の非難する言葉も、別の意味にすり替わっていく。
二人はひたすらは私を『姉を心配する可愛い妹』として接してくる。
「システィは相変わらず優しい子ね。こんなセレスを心配するなんて」
「あぁ。本当に優しい子に育ったものだよ」
あぁ、本当に気持ち悪い。
鳥肌が立つ。
私は二人から目を逸らして、お姉さまを見つめる。
お姉さまは不安そうな様子で私を見ていた。
大丈夫。
これ以上、貴方を傷つけさせはしない。
意を決すると、それを彼女も理解したのか互いに頷き合う。
そして私はおもむろに呟いた。
「本当に、馬鹿な人達」
「え……」
「まだ、気付いていないの? ピエロもここまで来ると、本当に呆れてしまうわ」
「し、システィ……? 一体何を……?」
態度が急変したせいか、意味が分からないといった様子をする二人。
これでもまだ分からないらしい。
ならば言葉で伝えてみせよう。
私は確かな事実を突き付けた。
「お父様、お母様。私がセレスよ」
「な……!? 何を言っているんだ、システィ! そんな冗談、言うものじゃない!」
「冗談? 私達はずっと前から日々、入れ替わっていたのですよ? 貴方達が私達を差別する事を見かねて、私の愛する妹、システィがそう提案してくれたのです」
「う、嘘でしょう……? 嘘よね? システィ? きっと、セレスにそう言えと言われて、言っているだけよね? そうでしょう?」
お母様が乾いた笑みを浮かべる。
信じられないのか、信じたくないのか。
今までの冷酷な態度は消え失せ、愚鈍な本性だけが露わになる。
私はこれ見よがしに溜め息をついた。
「はぁ……未だに私達の違いも分からないなんて、本当にどうしようもないのね。これは嘘でも何でもないわ。今の私はセレス。貴方達が大嫌いな、長女のセレスでございます」
「う……そ……」
「そしてお母様。貴方が階段から突き落とした大嫌いなセレスこそ、大好きな妹のシスティだったのですよ。これで、お分かりになりまして?」
分かりやすいように、暗い雰囲気を作ってみる。
今まで彼女が鬱陶しいと思っていた長女の佇まいだ。
すると私の目からも、裏切られたという心情が、お母様から面白い位に漏れ出てくる。
時間を掛けて、ようやく悟ったようだ。
笑いが凍り付いたお母様は、段々と全身を震わせる。
そして突如、私に向かって思い切り顔を上げた。
「あああああああああああ! セレスゥゥゥゥ!」
「……」
「返しなさいッ! システィを返しなさいッッ!!」
今まで見た事もない、鬼のような形相だった。
怒り狂ったお母様は、爪を立てて私を引っ掻いて来る。
まるで躾のなっていない、暴れるピエロ。
舞台に立つ資格もないだろう。
怖くはなかった。
あるのは同じ、いやそれ以上の怒りだけ。
力に怯えるだけの幼い頃とは違う。
だから私はそのまま力強く腕を振るい、その頬を打った。
パンッと小気味良い音が響き、お母様は尻もちをついた。
何が起きたというような顔をしている事が、余計に滑稽だった。
「あ……え……?」
「自分のしたことを棚に上げて、よくもそんなことが言えますね。もう私は、貴方に甚振られるだけの、か弱い女ではありません」
「っ……!?」
「自分が見下してきた相手にぶたれる気持ちは、いかがですか? 清々しましたよ? やっと、貴方の頬を打つことが出来て」
「な……」
「本当に、憎らしくて愚かしい。私を傷つけるだけでは飽き足らず、愛する妹の事すら見抜けずに傷つけるなんて。貴方に母親としての資格などありません」
「そ、そんな……私は……私はシスティの事を……」
「システィ? 貴方はただ『大好きな人形』と『大嫌いな人形』が、欲しかっただけでしょう?」
結局、彼女にとっては誰でも良かったのだ。
愛する人も、忌み嫌う人も。
ただそれが、姉と妹という分かり易い存在がいたから、こうなっただけ。
ベッドに横になっていたシスティの視線も冷たい。
既に私達は、彼女を親だとは思っていなかった。
すると我に返ったように、父が大声を上げた。
「何てことだ! 何てことをしたんだ! 母親でありながら、姉妹の違いも見抜けないとは……!」
「何を、被害者面をしているのですか、お父様?」
「なッ!?」
「貴方も同罪ですよ。一度でも、私達の違いに気付けましたか? おかしいと思いましたか?」
「そ、それは……!」
「私達の事など気にもかけずに、見て見ぬフリ。後の事はこの人や使用人に任せるばかり。そんなもの、いないも同然です。今更ここで父親面なんて、恥ずかしくないんですか?」
「な、何を言っているんだ……セレス……。わ、私は、お前達を躾けるために……。お前達を守ろうとして……」
「ふざけるのもいい加減にして下さい。貴方が守っていたのは、貴方自身の地位だけではないですか」
「……」
「結局、貴方達は私だけでなく、システィの事も見てはいなかったのです」
そこまで言うと、ベッドにいたシスティが嗚咽を漏らした。
そう、この二人は私達を見ていなかった。
見ていたのは『愛する妹』と『愛されない姉』という駒だけ。
入れ替わっていようがいまいが関係ない。
それが二人の歪んだ本質。
自分勝手で不条理なタチの悪さ。
私はシスティに近づいて涙を拭うと、呆然とする二人に向けて冷たい声で言い放った。
「出て行ってください」
「せ、セレス……」
「出て行ってくださいッ! 金輪際、私の妹に近寄らないでッ!!」
大声で叫ぶと、二人は怯えた様子で部屋から出て行った。
本当に情けない。
この程度の口喧嘩にも全く反論しないとは。
同じ血が通っている事すらも汚らわしく感じる。
するとシスティが、震える私の手を優しく握りしめた。
「お姉さま……?」
「えぇ。私はセレスよ、システィ」
「ごめんなさい、お姉さま……私……」
「謝る必要なんてないわ。もう終わったの。全て、終わったのよ」
私はシスティの手を握り返す。
彼女には何の非もない。
ただ私の代わりに、痛みに耐え続けてくれた。
声を押し殺して、それでも私を嫌ったりはしなかった。
だからこそ、その有り方を心の支えに出来た。
罪悪感で押し潰されそうで自暴自棄になる中、あの二人に立ち向かう事が出来たのだ。
そして、全て終わった。
私達はもう子供ではない。
ここから私達の人生が始まるのだ。
「ここから逃げましょう。一緒に」
「……はい」
もう、我慢する必要はなかった。
私達はその日の夜、屋敷から逃げ出した。
使用人には気付かれていただろうが、誰も追ってはこなかった。
真っ直ぐに屋敷を抜け、グレーヴァス伯の領地からも離れた。
遠くへ、ただ遠くへ。
あの二人の手の届かない所へと逃げた。
幸い、お金はあった。
二人がご褒美として、システィに渡していたお小遣いを溜め込んでいたからだ。
暫くは食い繋いでいけるだけの量はあった。
そして私達はとある辺境の町で、住み込みで働きながら居場所を確保した。
セレスとして使用人の如く働かされていた経験が功を奏したのだ。
雑用に近い仕事も任されたが、苦難はない。
屋敷にいた頃の方が、何十倍も苦しかったからだ。
あの地獄に比べれば、ここは天国。
神様が与えてくれた、至上の楽園。
やはり神様は、私達を見捨ててはいなかったのだ。
自然と私達の間には笑顔が増えていく。
もう、恐れるものなどない。
今、此処にいられるだけで私達は幸せなのだから。
それから半年以上の時間が経って。
一通の手紙が私達の元にやって来た。
「元使用人から手紙が来たわ。書いてあったのは、グレーヴァス家の顛末」
「どうなったの?」
「今まで事が全て、他の貴族に知られたようね。虐待の果てに子供を二人も無くした当主は、貴族としての信用を失って、その奥方は今も悪夢にうなされて寝たきりの状態みたいよ」
「そう。きっと没落するのも時間の問題ね」
「えぇ。使用人達も、見切りをつけて殆ど辞めていったみたい」
当然と言えば、当然の末路だ。
自分達の子供を蔑ろにしてきた者に、貴族としての器がある筈もない。
周りの評価は地に落ちた。
最早、手を下さなくても勝手に自滅するだろう。
私は彼女が読み上げた内容を頭の隅に追いやった。
「さぁ、こんな話をするのも此処までにしましょう。今日の仕事を、さっさと終わらせなくては」
「そう言えば、近所に評判のいいお菓子屋さんが出来たって話を聞いたわ。仕事終わりに、一緒に行きましょうか」
「あら、良いじゃない。お金も貯まってきたし、少しくらい奮発しても大丈夫よね」
楽しみだ。
笑顔で答えると、不意に彼女が私を見て首を傾げる。
何か顔についているのだろうか。
そう思っていると、遂に疑問を口にする。
「そう言えば気になっていたのだけど」
「何?」
「今日は、私がセレスの番でしょう?」
「何を言っているの、今日は私がセレスの番でしょう?」
「……」
「……」
「うふ」
「うふふ」
「それでは、今日は私がシスティですね。お姉さま」
「そうね、今日は私がセレスになりましょう。システィ」
成程、今日は違う日だったらしい。
そう、私はシスティ。
神様、ご覧になっていますか。
私は今、愛するお姉さまと共にいる事で、とても幸せなのです。
ですから、もう何も心配はありません。
これからは二人で共に生きていきます。
あぁ、今日はどんな楽しい一日が待っているのでしょうか。
楽しみで心が躍りそうです。
さぁ、行きましょう。
私の大好きな大好きな、お姉さま。