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問1 (4) 本屋

 芽ヶ崎駅の改札をくぐる。家の最寄り駅の隣だけど、芽ヶ崎駅で降りたことはあまりない。

 雑踏の中、本屋のあるビルの入り口がどこなのか多少まごついたけど、ミルネの表記に従いドアをくぐり、エスカレーターで本屋のあるフロアに向かった。



 本屋のフロアには意外と多くの人がいた。皆知識を得るために自由時間を費やすような意識高い系なのだろう。

 しかし僕だって今はやる気に燃えている。漫画コーナー? 全く興味ないぜ。

 さて、本題の本棚を探そう。参考書コーナーに移動する。



 そこにあった本棚には、全てにぎっしりと種々多様な英語の参考書や問題集が収められていた。英文法、英語長文、単語。こんなにたくさんあったのか……。

 これほど多く英語に関する本が出版されているのは、それだけ英語を極める道のりが険しいものだから、だろうか。

 平積みにされている参考書の帯を見ると、「文法参考書の決定版」、「40年のロングセラー」、「日本一わかりやすい!」などと美辞麗句が踊っている。結局、どれが一番いいんだよ……。頭のいいクラスメイトに、オススメでも聞いてから来ればよかったかな。


 今日は一旦諦めてやっぱり漫画コーナーにでも行こうかという考えが頭をかすめ、ここを離れる前にもう一度、と本棚全体を見渡すと、視界の端にある1冊の本が目に留まった。


 本棚の、一番上の段の一番端に、追いやられたという様子で、他と比べてひときわ分厚い、黒い背表紙の本がひっそりと収まっている。

 その異質さが気になって、手を伸ばして取ってみた。

 分厚く、参考書というよりは辞書のようでもある。帯には誰かの推薦文が載っていて、こう書いてある。


 「勉強が苦手なそこのキミ! 今これを読んでいるキミ! この本はそんなキミの唯一無二の味方だ!」


 表紙には銀文字の仰々しい字体で『文型で学ぶ<グラマー>英文法』とタイトルがつづられている。

 「グラマー」(”grammar”)はまさに「文法」という意味だ。しかし、他と比べるとその文字だけ少し小さいフォントになっていて、「英文法」の文字の上に来ている。つまり「英文法」と書いて「グラマー」と読ませるつもりのようだ。

 間違っても「魅惑」(”glamour”)ではあるまい。

 さすがに英語参考書、そんなに滑稽で基本的な間違いをするわけがないか。


 それにしても、他の参考書がどれも目を引く表紙や帯をつけているのに対し、この本は地味だ。売ろうという気がないのかもしれない。

 しかし……この厚さだ。内容はぎっしりと詰まっているだろう。

 それに、こんなに堅そうな参考書は、きっと人気がない。友人で持っている人も見たことがない。でもその分、習得することができれば、他の人に差をつけられるかもしれない。


 本の最初のページを開いた。前書きに目を通してみる。


「"Explosion"。皆さんは、この単語を知っていますか? そう、『爆発』ですね。それでは、この単語の"品詞"は何でしょう? ……」


 品詞? あまり考えたことがないな。中学校の先生が文法の話をするときに行っていた気もする。さらにページをパラパラとめくってみる。イラストなどが載っていないので、少し堅い感じがする。

 こんな堅くて分厚い参考書、読み切って使いこなすことが、果たして自分にできるんだろうか。

 問題はそこだ。英語の参考書なんて買ったことがない。理解できるだろうか……こんな自分に。


 だがしかし、なんとか挽回しなければ⋯⋯。今日の学校の授業にもついていけなかった自分には、この機を逃すともう後がないように思える。

 「やるしかない」なのだ。僕は、変わりたい。自分で自分のことをすごいと思えるように。

 今は、ダメなんだ。惨めなんだ。今まではなんだかんだその事実に目を背けてきた。でも、今はもう、それじゃあ我慢ができない。

 脳裏に、さっきのバンドの姿が浮かんだ。

 「憧れ」に近づきたい。そう思ってしまった。


 今までの自分を捨ててもいい。いや、捨てなくちゃあいけないんだ。幼虫のままでは、蝶になることはできない。這ったままでたまるか。飛びたい。成長したい。その為なら、今はいくら這ってでも、変わってやる。


(“……欲しいか……”)


 ん? ……何か聞こえた気がする。


(“……力が……欲しいか……”)


 頭の中で声がした。「力」……?


(“……英語力が……欲しいか……”)



 え? あぁ、「力」って……英語力かい。もっと何かこう、格好いいのを想像したわ。右腕が強靭な武器になるみたいな。


 というか、一体何だ、この声は。


 その時、下腹部に激しい痛みが走った。


 痛ったた……どうしたんだ? 普段経験したことのない痛みだ。盲腸? 今日ため込んだストレス?

 徐々に痛みが強まっていく。

 やばい。この腹痛は、あれだ。とりあえず、トイレだ。

 急がなければ!


 本屋の出口に走る。レジの前を通り過ぎた時、あっと気づいた。参考書だ。レジにいる店員が、こちらをじっと睨んでいる。僕はすぐに踵を返し、レジで参考書を購入した。


「本にカバーは……」


「だっ大丈夫です! レシートも結構です!」


 食い気味にそう言って、渡された本をひったくるようにして、本屋を出る。腹痛がますます強くなってきている。

 あまり来たことのない駅ビルだったことを思い出した。どこにトイレがあるのかよくわからない。

 辺りを見回し、トイレのマークのついた看板を頼りに走る。道の両脇には店が並んでいるが、買い物中の他人の目なんて気にしていられない。走れ! 久留主。


 看板の指す方向に角を曲がるが、その先にはまた別の看板がある。なんで1回で着かないんだよ、と怒り出したい気持ちとひどい腹痛を堪えて、とにかく走る。視界が狭く、暗くなってきた気がする。何度曲がったか、廊下の先にようやくトイレのマークが見えた。間に合った!


 運良く個室は空いていた。中に駆け込み、鍵を閉める。これで個室が空いていなかったら、アウトだった……。

 ベルトを急いで外そうとした。


 しかし。


「……あれ?」


 おかしい。痛みが消えている?


 不思議に思いながら、息を落ち着かせ、下半身に意識を集中してみる。

 しかし、まったく何の異常もない。それどころかむしろ、台風が去った翌日の空のように、すっきりと快調だ。


 僕は諦めてトイレの個室から出た。一体なんだったんだろうか。突発性の痛み……本当に病気なのかもしれない。しかし、痛みの跡すら感じられない。おかしいと首をかしげながらも手を洗う。

 やけにアンティークな作りの蛇口だ。蛇口の横にはソープディスペンサーではなく、固形の石鹸が置いてある。慣れていないから、触るのに抵抗があるな。

 手を洗い終えて鏡を見た時、さらなる違和感を感じた。

 なんだかトイレの室内全体が、レトロな感じがする。壁の色味がなんだか珍しい。床は陶器だろうか? タイルの模様がお洒落だ。

 洗った手を振りながらトイレを出た。

 そして、呆気に取られた。

 廊下は床が木でできている。窓にはこれまた雰囲気のある格子がはめられている。極めつけに、LEDでも蛍光灯でもなく、白熱電球のランプが壁についている。こんな建物だったっけ?


 腹痛で辺りを見る余裕がなかったとはいえ、こんな様子だっただろうか。

 来た道も定かではないけれど、とりあえず廊下を進む。廊下を突き当たると、右手にドアがあり、開けると外に出られた。


 外は駅のホームだった。


 しかし、全く、僕の知っている駅のホームの光景ではなかった。


 ホームから見える駅の外には、見慣れない町が広がっていた。


 現代とは思えない。横浜にある歴史的な建物のような。まるで明治か大正時代のような。

 ホームには人影もまばらにあった。それで少し安心することもできたけど、何やら着ているものも、見慣れない。モンペと言っただろうか、そんなものを履いている人もいれば、ワンピースを着たやけに洒落た髪型の人もいた。


 まだ、状況が把握できていない。ここは、こんな風ではなかったはずだ。僕が参考書を買いに来たのは、県内では有数の都会の駅ビル、ミルネだ。


 頭がぼんやりしてきた。ノイローゼでおかしくなってしまったのだろうか。

 いや、それもない。まだ勉強をしていないんだから……。


 そんなことを考えていると、少し遠くの方で何かの響く音が聞こえた。

 よく聞き覚えのある音。

 しかしそれはテレビや映画に出てくるもので、本物は聞いたことのない音。


 それは、蒸気機関車の汽笛だった。それから段々と近づいてきた小刻みに蒸気を吐く音も、ホームに滑り込んできた巨体の汽車も、僕には実際の自分が目にして体験している出来事には到底思えなかった。


 ただ、幽体離脱した自分が映画の世界にでも入り込んでしまったのかもしれないと、目の前にゆっくりと止まった汽車の発する煙の匂いを嗅ぎながら、ぼんやりと考えた。

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