問1 (2) 下校
「やっぱりヤバいよな……英語」
授業での失態を思い出しながら昇降口で靴を履き替えていると、つぶやきがつい口から漏れた。
文系に進もうが理系に進もうが、英語の試験はついて回る。
英語を捨てるというのは、個性尊重のこの時代においてもやはり一つの王道である「大学進学ルート」を捨てるということを意味する。……それは避けたい。
でも、どこから勉強に手を付けたらいいのかさっぱり見当がつかないくらい、何もわからない。みんなどうやって勉強しているんだ? 手取り足取り教えてくれる家庭教師でもつけているのではないか? 二人三脚なら、僕ももっと手ごたえを感じながら頑張れそうなものだ。
あるいは、帰国子女とか、ハーフで片親が英語ネイティブだとか、幼少期から英語に触れる機会が多い人は、もっと少ない努力で英語をものにできるのだろう。
ずるいよなぁ……。
この世界の不平等さを呪いながら、校門へ向かって歩いた。
ふと、校舎から少し離れたところに建っている部室棟の前を通ったとき、バンドの演奏が聞こえた。
あまりよく聴こえないけど、かなり上手そうだ。僕も一応ギター弾きだ。家にあるアコギでコードを少しばかり練習したりする。レッスンなんて受けていないから、なかなか上手くならないけど。
いいよなぁ……。何か得意なことがあれば、勉強ができない悩みとも、もう少し上手く付き合っていけるんじゃないか? 特技がないというのが、若干のコンプレックスになっている気がする。
しかし、演奏の方がどんどん気になってきた。このバンドの人たちへの羨望の気持ちが、一層見てみたいという好奇心をくすぐる。モヤモヤしていた自意識の葛藤は、いつの間にかどこかへ吹き飛んでしまった。
曲は、椎名梨歩の『紅蓮日和』。僕も好きな曲だ。
所々失敗したりもするが、勢いのあるいい演奏だ。
でも、段々とはっきり聞こえてきた、この歌声は……。
僕は自然と足早になり、部室棟の楽器練習室の方へ向かう。
見てみたい。もっとよく聴きたい。
心臓が高鳴っていた。急いでいるからだろうか?
練習室の前に来た。
中を覗こうと 、扉の小窓に、そっと顔を近づける。
演奏の音に合わせて、心臓の鼓動が異様に大きく感じられる。
急いだせいではない。運動した時の心拍より、もっと激しい。
僕の心臓の鼓動を高めたのは、そのバンドの女性ボーカルだった。
歌声が、腹の底まで響く。圧倒的な歌唱力が、僕の心を掴んで揺さぶった。
原曲とは違った声質が独自の世界観や雰囲気を醸し出している。こんな曲だっけ? 原曲より激しく心に迫ってくる。歌声だ。歌う人によって、言葉がこれほどまでに力を持つなんて。
それだけじゃない。
女性ボーカルの、長い睫毛を携えた大きな眼。
筋の通った高めの鼻。
日本人離れした雰囲気の顔立ち。
長い髪を揺らしながら、一心に歌う姿は、これまでに見たもののなかで一番言葉に直しづらい。美しい、としか表現できない。僕にとっては、初めて見た芸能人のような、あるいは、学校の美術室に飾られている絵の中に紛れ込んでしまった本物のモナ・リザのような、まったく異次元のものだった。
ふと気づけば演奏は終わっていた。メンバー全員が余韻をたたえた顔で一息ついたところで、ちょうどこちらに気づきちらりと目線を投げかけてきた。
慌てて顔を背けようとした時。
一瞬の半分くらいの時間だった。
女性ボーカルと目が合った。
息を止めるようにして僕は足早に部室棟を出た。
最後に目が合ったシーンが、僕の脳内でYoutubeのショート動画のようにループ再生されていた。