紅蓮の血涙-3
「──…………ッ!」
アッシュローズは安楽椅子から崩れ落ちた。床に這いつくばり、痛みを訴える己の体を抱く。
「あしゅっ、あしゅ、だいじょうぶっ?」
フェリスが少しでも楽になるようにと何度も背中をさすってくれるが、ひどくならない代わりに改善もしない。体の奥底が刺すように痛い。これはリンディアに張っておいた結界に害意と悪意が触れた──否、違う。内部に侵入して暴れているのを知らせているのだ。
空間を越えて視線を伸ばす。
視える。感じる。リンディアの首都が襲われている。暴力にさらされ、無数の恐怖と絶望が溢れて渦巻いている。その中心にいるのはリュンデン・ハルメシオス。そして彼の前に立ち塞がっているのは鮮やかな熱を宿す男。GR。
しかし、熱が記憶にあるものより弱い。
濡れている、慟哭で。壊れかけている、絶望で。
アッシュローズは自らの体に繋げていた結界魔法を外した。立ち上がる。
「行かねば……、あのままでは、あいつが……っ」
「ちょ、アッシュっ。どこに行く気っ?」
背後から友人が制止してくる。しかし振り返らずに庭に出た。
「待ってっ。駄目だってばっ!」
あっさり追いついたハウヤが目の前に立ち塞がった。アッシュローズの両肩を掴んで首を振る。
「落ち着いて。ね? 下界のことは下界の者に任せればいい。きみが何もかも背負う必要なんてないんだ」
いついかなるときでも理性を手放さない温和な彼の心は、今まで一度もアッシュローズの精神を傷つけたことがない。なのに、ハウヤがその言葉を口にした瞬間、針で刺したような痛みが心臓をえぐった。
なぜか。
答えはひとつだ。
「ハウヤ、お前……黙っていたなっ?」
彼の頬が驚愕で強張った。自身がおこなった虚偽を証明した。
アッシュローズは彼の服を掴む。
「リュンデンが攻め込むことを知っていたのかっ」
ハウヤに調べようと思えば調べられないことはない。特に人間の動向については誰よりも速く正確な情報を集められる男だ。どんなに小規模な軍でも動くには数日を要する。ということは数日前にはすでにこの情報を手に入れていたことになる。この、回避できたかもしれない争いを。
心が荒れる。理性が揺らぐ。
感情に逆らわず、抑えることも考えずにアッシュローズは、彼の胸倉を揺すった。
「なぜだハウヤ! なぜ教えなかったっ!」
「っ、歴史を動かすかもしれない重大な事象だからに決まってるでしょ! それに教えたらきみは絶対に無茶するじゃないかっ!」
ハウヤが手を握りしめてくる。
「向こうの状況は僕にもわかる。わかるから、言うよ。行っちゃ駄目だ。その状態じゃ、死者の残留思念どころか生きてる人たちの感情すら受け止めきれない。浄化なんてとんでもないっ」
自分で作った自分の体だ。許容量くらい把握している。けれど。
「それでも……。行かせてくれ」
優しい友の手の中で拳を握る。
「出逢えたのだ。たった一年で、求めていた『王』に」
顔を上げ、まっすぐに視線を交わす。
「私の、シアリィの願いを託せる人はほかにいないっ。失えないのだ、あいつだけは!」
翠の瞳が大きくなった。
アッシュローズは息を吸い、そして吐き出す。
「頼む、行かせてくれ。……お前に剣を向けたくない」
「アッシュ……」
ハウヤが目を伏せ、抱きついてきた。アッシュローズを抱え込むように、アッシュローズにすがるように。友人とも兄弟とも言える彼の抱擁は、どんなときでも優しい。
「ほんとにきみは頑固だよね」
「すまない」
「謝らないでよ。僕、きみのそういうところも好きなんだからさ。……でも」
勢いよく離れたハウヤは、アッシュローズの肩に手を置いたまま表情を引き締めた。
「今回ばかりは僕も譲れない! ひどすぎる状況だってわかってる場所に行かせてたまるもんかっ。僕が行くっ」
「だが────」
「駄目ったらだーめ! 僕に逆らわないでくれるっ? それにさぁ、ここできみが行ったらGRに帰ってもらった意味がなくなるじゃない」
つんと顎を上げて胸を張るハウヤは、傲然としていて、しかし頼もしい。すべてを任せたくなる。だが彼の好意を素直に受け止められないのも事実なのだ。
アッシュローズが口を閉ざしたのを了承の印だなどと勘違いしてはいないだろう。けれどハウヤは手を離して後退した。魔力を放つ。
「きみみたいには戦えないけど、少なくとも生きてる人は助けられる。なんとかするから、ちゃんと待ってて。あ、また千里眼を使っちゃ駄目だよっ? いいねっ?」
そして軽く宙に跳ぶと同時にハウヤの姿がかき消えた。リンディアに転移したのだ。
庭に風の音だけが残った。
春が始まったばかりの世界は、まだ色が薄い。──寒い。
(ハウヤの言う通りだ。だいいち、もう二度とあいつに関わらないと決めたではないか。ここで会ってどうする)
左肩を抱きしめる。
少しだけ、温かくなった。
(……だが……)
一緒にいた時間より離れてからの時間のほうが長いはずなのに、温もりは相変わらず心の拠り所になっている。ただただ感謝するばかりの優しさ。その心に何も報いることができないのは、やはり悔しい。
顔を上げる。
目に入るのは穏やかな空の色。
愛する人が好んでいた色。
(それとも、行くべきなのだろうか。この手で助けるべきなのだろうか。……シアリィ。きみなら、何と言っただろう……)
「……あしゅ」
呼ばれ、見下ろすと、愛しい人を母として慕う子供がローブの端を握りしめていた。彼から伝わってくる感情は複雑で、ひとことでは表しきれない。けれどひとつだけはっきりと言えることがある。そこに、疑心はない。
「ぼくね、じーゆ、だいすき」
真っ青な瞳を愛らしく細めて、フェリスは笑う。
「やさしくって、ぽかぽかで、おっきくって、かっこいいかや。だいすきっ」
かつて虐待によって死にかけたとは思えない元気な笑顔で、アッシュローズに抱きつく。
「あしゅは? あしゅは、じーゆのことすき?」
即答はできなかった。ただ、泣きたくなった。
膝をつき、幼子を抱きしめる。
フェリスが頬を擦り寄せてきた。
「あのね? 『きやい』はいっぱいわかゆけど、『だいすき』はいつもかくぇんぼしてゆかや、ここにいゆよっていわないと、わかんないんだって」
優しい優しい励ましの心が、傷ついた心に染み込んでくる。
「ままがいってたの。だいすきっておもったや、ぎゅってすゆの。そしたや、なかよしさんになぇゆんだって」
言葉の通りにぎゅっとしがみついて、フェリスが腕の中で顔を上げる。
「だかや、じーゆのとこいって、いっぱいいっぱいぎゅーってしたやいいんだよ。そしたやなかよしさんになぇゆよ、ぜーったい」
「フェリス……」
「アッシュ様」
それまで黙っていた少女がリビングから降りてくる。
「早く行かないと、GRが文句言い出しますよ。遅いって」
楽しげに笑うメイは、傍らに立つとフェリスの手を引いた。アッシュローズから離れて二人一緒に屋敷を背に立つ。
ハウヤとの会話から、今のリンディアがアッシュローズにとっては死の谷に等しい場所であることをわかっているはずだ。なのに、二人の笑顔は揺らがない。互いの震える手を握りしめて、不安を押し殺しながらも、アッシュローズの背中を押してくる。
「あたしたちはハウヤ様ほど心配性じゃありませんから。どうぞお気をつけていってらっしゃいませ」
「いってゃっしゃい! がんばってねっ」
ここまで言われたら、もう拒絶できないではないか。嫌だなどと言えるわけがない。
アッシュローズは左手を胸の高さまで上げた。袖を滑り落とし、薬指にはめた白金のリングを見つめる。父なる神を裏切って愛した人間の女性──シアリィとの間に残された、最後の形ある絆。そこに右手を重ね、抱きしめて、想いを込める。
そして肩から力を抜いて立ち上がった。ローブの裾を芝生の上で滑らせ、体の向きを変える。
「フェリス、メイ……ありがとう。愛しているよ」
大切な笑顔を瞳に焼きつけた。
魔法を紡ぐ。
「大地よ、我が身をかの地へ運べ」
足下で感じたわずかな鳴動。刹那、風景がマーブル状に溶けた。
そして急速に歪みが戻ったとき、景色は慣れた屋敷でなく荒れた市街地に変わっていた。




