廻る歯車-9
朦朧とする。しかし額が発する痛みのおかげですぐに覚醒した。何があったのか思い出す。銀盆をぶつけられたせいで気を失ったのだ。気絶したのはおそらく数秒だろう。周囲の様子はまったく変わっていない。白髪の男はメイとフェリスの驚愕をものともせず、安楽椅子に深く腰掛けたままだ。
「くそ……っ」
呑気に紅茶をすするアッシュローズを見据え、うなる。
「いきなり何しやがるっ」
前髪に隠れている瞳がこちらを向いた。視線の気配で容易にわかる。案の定というべきか、感情のかけらもない声が彼の口から出てきた。
「気にするな」
「気にするわっ!」
とっさに、カッ、と口を開いたら、男が悩ましげに嘆息した。
「心の狭い奴だ」
「なっ……」
頭に血がのぼる。
「てめぇにだけは言われたくねえっ! ほとんど初対面の奴に迷いなく全力で盆投げつける奴がどこにいるってンだコラッ!」
「ここにいるが。……まぁ、とっさの行動だ。反射だな。膝の下あたりを叩いたら足が跳ねるのと同じ原理だ。だから赦せ」
「赦せるかーっ! つーかそれが人に謝る態度かぁぁっ!」
「我儘だな」
さすがにその切り返しは想像していなかった。というか、疲れがどっときた。もはや脱力する以外に手がない。
ガルシアはその場に這いつくばり、深々とため息をつく。
「ほんっとに……、てめぇにだけは言われたくねーよ」
それを納得と取ったのかあきらめと取ったのか、何にしてもこの話はここで終わりにするつもりらしい。アッシュローズが気を取り直すように紅茶をひとくち飲んで、それから話題を変えてきた。
「では、食べながらで構わん。私の質問に答えてくれたまえ」
「はいはい。ンだよ」
一瞬不愉快げな気配が流れてきたが、もちろん無視である。これだけひどい目に遭わされたのだ、多少のウサ晴らしくらい許されてしかるべきだろう。一方のアッシュローズもこれ以上の言い争いは不毛だと考えたのかもしれない。特に何も言わず話に戻った。
「さほど難しい話ではない」
そう前置いて、彼は嘆息まじりに話しかけてくる。
「ハルメシオンにある生産場がいくつかなくなれば、多少なりとも出回る奴隷の数が減ると思ったのに、一向に変化の兆しなしときている。となると考えられる出所はリンディアになるわけだが……国の様子はどうなっている? ここ最近、変わったことは起きたか?」
その質問に答えるのは簡単だ。だが意味のわからない単語が気になる。
ガルシアは頭を起こした。
「誘拐する馬鹿が増えてっけど……それより生産場ってなァ、なんだ?」
するとアッシュローズはしばし唇を止め、
「知らぬのか?」
今までで最も感情のない声で呟いた。それは、──そう、昨夜ハルメシオンの王子に対して忠告した口調に似ている。目に映らないほどの高所から見下す、高慢な声だ。
だが今回は腹が立つことはなかった。きっと己の無知を自覚しているからだろう。父王が政治を教えてくれないといっても、自分の力で学ぶことは可能のはず。知らないのは、物覚えのあまりよろしくないこの頭と、勉強を好きになれない性格が悪いのだ。だからガルシアはアッシュローズにまっすぐに向き直り、素直に頷いた。
「知らねえ。だから聞いてンだ。話の筋からして面白くねえもんだってのはわかっけど、何なんだ?」
そんなガルシアをどう思ったかはわからないが、思いのほかすんなりと答えをくれた。
「奴隷となる獣人を、人間が自分たちの都合のいいように産ませ、ある程度の年齢まで飼育し、教育し、出荷する……非人道的な場だ」
「そんなとこが、あンのか……?」
「ある。まだいくつもな」
そう言って肘掛けで頬杖をつくとアッシュローズは、ひた、とガルシアに視線を落とした。
「ではこちらからも質問だ。誘拐が増えたという話を真実とすると、ひとつ納得できんことがある。なぜハルメシオンにさらわれてくる獣人の数が減らない?」
「それは……親父、いや、国王に動く気がねえからだ」
ちょうど昨日、王と言い争いになった内容である。気分の悪さに、ガルシアは目を細めて歯軋りした。
「あの馬鹿親父、自分の身の安全にしか目が向いてねえ。人間に文句言わずに従ってりゃ国は安泰だとか考えてやがる。ふざけやがって……っ」
ムカムカする胸の内に苛立ち、当り散らしたい衝動に駆られた。が、こんなところで暴れるわけにもいかない。なんとか衝動を抑えて、ガルシアはミューイに顔を振った。目でテーブルの上のスコーンを指す。
「一個くれ」
「え? あ、えっと……蜂蜜でいいですか?」
一瞬遅れてガルシアの言いたいことを察したミューイが、スコーンを割りながら訊いてきた。ガルシアは体をテーブルに向ける。
「たっぷりなー」
「はい」
言葉通りにこぼれそうなほど蜂蜜を塗ったスコーンを差し出された。
ひとくちでほおばる。
狼の口でこういうものを食べると口の端からこぼれそうになるのが厄介だが、首を動かすことでなんとか防ぐ。しっかり噛んで味わって、喉を鳴らして飲み込んで、ガルシアは深く大きく息をついた。
「うまいっ」
尻尾を左右に振りながら目を細める。
「やっぱイライラしたときは、うまくて甘いもんを食べるに限るよなーっ。ミューイ、もう一個っ。今度はそっちのジャムがいいなっ」
ミューイが呆れまじりに笑う。
「いいですけど、お兄様、お話」
アッシュローズをちらと見ての言葉に、ガルシアは鼻から息を吹いた。
「食べながらでいいっつったのはあっちなんだからいいだろ。なぁ?」
最後はのんびりとこちらを見ている白い男に向けて言ったら、彼は軽く肩をすくめることで肯定を返してきた。
「では、最後の話だが」
「おう」
果実のジャムをたっぷり乗せたスコーンをぱくり。
アッシュローズがまさにそのタイミングを待っていたかのように言った。
「お前は今日から私の下僕だ。文句はないな」
ガルシアがスコーンを喉につかえさせたことは言うまでもない。
ミューイはもちろん、メイもフェリスも驚く衝撃発言だったせいで誰も背中をさすってくれず、ついでに飲めるものもなかったため、ガルシアは唾液だけでどうにかこうにかスコーンを嚥下した。ぜーはーと息をつき、なんとか声を出せる状態になるとすぐさまアッシュローズに吠えかかる。
「文句ありまくりだボケーっ! さらっとむちゃくちゃなこと言ってんじゃねえよっ!」
「どこの何が無茶だと?」
「全部だ全部! そもそも第一王子に誰かの奴隷になる義務はねえっ。むしろ拒否権があンだよっ。だから却下だーっ!」
これ以上の反論材料はあるまいと自信を持って言い切ったのに、なぜか敵の口元に浮かんだのは不敵な笑み。
「フ……そのような権利、私の前では塵に等しい。私がいいと言ったらいい。駄目だと言ったら駄目なのだよ、獣の王子。よってお前の意見こそ却下だ」
「だーっ、てめぇ何様だっ!」
「私はアッシュローズだ」
「名前なんざ訊いてねえっ!」
「お前がなんと吠えようとも、私はお前を下僕とするからそのつもりでな。今日よりここに住め。そして私の手伝いをしたまえ。いいな?」
「良くあるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。
が、アッシュローズはどこ吹く風とばかりに視線を逸らした。
「しかしそうなると、名がないのでは不便だな。どうしたものか」
「聞けよ人の話をっ!」
「何か良い呼び名があればいいのだが」
「だ・か・らっ、頼むから流すなっ!」
しかし無視。こちらを向こうとする気配すらない。
とそこでようやく我に返ったらしいメイが、おそるおそる口を出した。
「あのう……アッシュ様」
やはりガルシア相手のときとは違い、アッシュローズがすぐに振り向く。
「ん? どうした」
気楽な促しに、メイが肩から力を抜いた。
「下僕云々も納得できないですけど、とりあえずそっちは置いといて。……あいつの名前に何か問題でもあるんですか?」
するとアッシュローズは嘆息ひとつ、視線を落とした。
「気づいていなかったのかね」
怒ってはいない。呆れてもいない。ただ疲れたような声である。彼はまたため息をつくと、空いた手を振ってガルシアに催促してきた。
「仕方あるまい……。私が許す。もう一度お前の名を言いたまえ。フルネームでな」
動揺しているし混乱している上に腹の立つ言い方だが、無視していても話が進まない。話が進まなければどうしようもない。不承不承、ガルシアは口の先だけで簡潔に呟いた。
「ガルシア・リィズフェルト」
メイが名前を口の中で反芻する。
その表情が凍りついたのは唐突だった。硬直はすぐに解けたが、今度は一気に青ざめていく。先ほどのアッシュローズの反応そのままだ。
「な、なんだっ? なんだよいったいっ!」
叫ぶ。
しかしガルシアの文句を聞く相手はいなかった。
「い、い、いやぁぁぁぁぁっ! 何よそれーっ!」
絶叫したメイが握り拳を作ってアッシュローズに向き直る。
「わかりましたっ。あたしも嫌ですーっ。か、考えただけで鳥肌が……っ」
「そうだろう、そうだろう」
深く頷き、アッシュローズが励ますように彼女の腕を叩いた。
「よりにもよってこのような男……。せめてもう少し愛らしければ抵抗がなかったであろうに……なぁ?」
力強く──それも涙目で──何度も頷くメイ。
「ねぇねぇ、なにがやなの? ねー、ねぇってばぁっ」
フェリスがメイの袖をひっぱっているが、答える余裕もないのかメイは、彼の頭を撫でながら、あとでねと涙ながらに言う。
「ンだよ……」
ここまでめいっぱい拒否されると、腹が立つより悲しくなってくる。ガルシアは尻尾と耳を伏せた。
「なんだよ。そんなに俺の名前が気に入らねえかよ」
アッシュローズが力強くうなずく。
「愚問だ」
「ぐもんて……」
内心脂汗を垂らしながら、失礼極まりない即答に肩を落とした。
いきなり名前が気に食わないからと盆を投げつけてきたり、奴隷になれと言ってきたり。わけのわからない男だ、アッシュローズは。いったい何を考えているのか、かけらも読めない。
そんなありとあらゆる意味で不可解な男は、ひとしきりメイを慰めたあと、再び思案に戻っていった。
「体の特徴から名づけるのもな……揃えたようで気持ちが悪い。変形させるか。なら、そうだな……」
小さくうなり、
そして指を鳴らした。
「頭文字を取ってGR。それでは呼びにくいから、ジールと読むのはどうだ?」
真っ先に反応したのはメイ。
「それならオッケーですっ!」
満足したのはアッシュローズだけ。
「では決まりだな」
ガルシア本人に承諾を求めることなく決定である。相手の意思を無視するなど、冗談抜きで奴隷にする気満々なのかもしれない。
「ど、どうしよう……」
思わず不安を形作る言葉が漏れる。だがそれを解決するための案はひとつも浮かばない。
「あ、あのっ」
必死に考えるガルシアの横で、かすれた声を上げたのはミューイだ。
「お兄様には、やることがあるんですっ。ですから、その、お手伝いすることは無理ですわっ」
その言葉は無視できなかったのだろう。アッシュローズがミューイに柔らかく問いかけてきた。
「やることとは、何かね」
ミューイは怯んだようだったが、一瞬だけだ。すぐに胸を張り、しっかりと声にしていく。
「お兄様には双子の弟がおります。もう一人の兄様は、先日ハルメシオンの城から脱走し、怪我をした状態のまま、まだ戻っていらっしゃらないのです。……お父様は、きっとディル兄様を捜そうとすらなさいませんわ。ガルシア兄様にしか、助けられないんです。ですから……」
アッシュローズはしばし、話の内容の真偽を確かめるように押し黙っていたが。
「……そうか。なるほど。よくわかった」
深く頷き、中空に目をやる。
「それでは仕方ないな」
薄く深呼吸をして肩から力を抜いた。
どうやらあきらめる気になったようだ。ガルシアはミューイを振り返り、目で礼を言った。それに小さな笑顔を返してきたミューイも、うまくいったことに安堵しているようである。
しかし本当に助かった。奴隷などとんでもない。
(ったく、何考えてンだろうなぁ。でもまぁこれであきらめただろ。あとは帰って、ンで本当にディルを捜してやンねえとな)
「あぁ、これはひどい。かわいそうに、さぞ苦しかろう」
いきなりアッシュローズが意味不明の言葉を呟いた。
「……は?」
何を言っているんだこの馬鹿は?
思いながら視線を戻したガルシアは、一瞬の間を置いて目を見張ることとなった。
椅子に腰掛ける白い男、その膝上の空中に獣が一匹浮かんでいたのだ。漆黒の毛並みを血で汚した、自分によく似た、自分より一回り小柄な狼。見間違いでなければ──いや、間違えたりはしない。絶対に双子の弟、ディレイスだ。
アッシュローズはぐったりとした様子の狼に手をかざすと、大きく息を吸いこんだ。
「神の光よ。その大いなる慈愛でもて、か弱き子供を包みたまえ」
「…………あ、あれ? ここは……?」
ほとんど一瞬だった。
聞き覚えのある弟の声が聞こえると同時に、完全に力を失っていたはずの頭部が持ち上がる。きょろきょろとあたりを見渡すその動きにはもはや大怪我の名残すらない。
アッシュローズはどういう方法を用いているのか、ディレイスを音も立てないほど優しく床に降ろすと、流れるように立ち上がった。
こちらを向いた唇が綺麗な弧を描く。
ぞっとするほど美しい。
「お前は私に三つの借りができたわけだ。この借りは返してもらわねばな」
「──……て、誰がいつ借りなんざ作ったっ!」
「まずひとつめ」
アッシュローズはガルシアの怒号を流して、指を一本立てた。
「怒りに任せて王子を殺そうとしたお前を止めてやった。……あのまま殺していれば、お前はさぞやすっきりしたことだろう。だが、きっと人間の意識には獣人族への恐怖が植えつけられる。同時に凶暴な存在だという認識も強くなろう。そのことがよりいっそう残虐な迫害行動に繋がるかもしれぬとは考えなかったのかね」
口調こそ穏やかだが、その言葉には紛れもない非難が含まれていた。
ガルシアは奥歯を噛みしめる。
いちおう冷静な今は認められる。彼の言葉は真実だ。非は確かに自分にある。
そんな心境変化を察したのか、アッシュローズが二本目、三本目と指を立てた。
「ふたつめ。お前の妹を、今後の安全も含めて救い出した。そして弟。これで三つめだ」
指をひらひらと揺らしながら微笑む。
「なに、一晩の宿を提供してやったことまで持ち出して恩を売るつもりはない。これだけで充分すぎるだろう。もはや文句も反論もあるまい」
光に照らされて白く輝く男は、いっそ聞き惚れてしまいそうなほど綺麗な声で、決定打を繰り出す。
「お前は私のものだ。いいな、GR」
どうしよう。
だが本当に反論の余地がない。
完膚なきまでに追いつめられ、ガルシア改めGRは力なく頭を垂れた。




