長編を書く才能がないけれど長編を書きたい。
短編を書く気が起きない。
なろうでポイントを稼ぎたければ短編で知名度を上げるのがいい、と、とあるエッセイには書いてあった。
かの手塚治虫大先生は、短編を数多く完成させることが上達の近道だ、とおっしゃった。
『バクマン。』の主人公たちは連載前に読み切りを大量に書くことで実力を身につけていた。
なるほど。
こうやって客観的に見てみると、短編を書くことはいいことづくめらしい。
しかしあいにく、私が書きたい物語は長編ばかりなのである。
10万字尺文庫一冊分の長編プロットと、最初の導入ならば山ほど作った。
こんな境遇の主人公が、こんな試練を経て、こんなクライマックスで、こんな風に成長する。
「キャラクターの成長」「関係性の変化」「伏線の回収」……そういう長編ならではの要素を中心に物語を楽しむ私にとって、作りたい物語もまた、長編ばかりになってしまうのだ。
いいじゃないか。どうせ趣味なんだから、余計なことを気にせずに長編を書けば。
そうおっしゃる声もあると思う。
しかし、長編を書こうとするならば、作者に求められる素養が2つある。それは短編の執筆には(ほとんど)要らないものだ。
”時間”と”忍耐”。
そして、そのどちらもが、どうやら、私には欠けているのだ。
まず時間。これは絶対的な「1日のうち執筆に当てることのできる時間」である。
短編が5000字、長編が10万字とざっくり定義し、執筆速度を1000字/時間と仮定すると、短編執筆に必要な時間は5時間、長編は100時間である。
その差は20倍。
内容を考えたり推敲したりする時間を加味すれば差はもっと開くだろう。
そして悲しいことに、筆者の私生活のうち、執筆に当てるのことのできる自由な時間は少ない。
ここで職業を明かすことなどはしないが、仕事と両立させながら100時間もかけて一本の長編を完成させるまでに、どれほどの日数がかかるのか……。考えるだけで憂鬱になってしまう。
次に忍耐。短編ならば発表した作品のウケが悪くても「次はもっと上手くやろう」と切り替えることが容易い。
しかし長編ともなると、一つの作品を長い間書き続けなければならない。
「小説家になろう」において、それは、読者から評価をもらえない期間も長いことを意味する。ブレイクしなければいつまでたっても注目されず底辺だからだ。執筆時間が取れないせいで投稿間隔が空いてしまうともなればなおさらだ。
そして筆者のメンタルは凡の凡人なので、人から評価や感想が少ないままモチベーションを保つことは、なかなかに難しい。
書き始めの頃に燃え盛っていた創作意欲はゆっくり鎮火していき……やがて「エタって」しまう。
数年前に一次創作を手を出して以来、一本の長編を完結させたことは、一度も、ない。
もちろん、ここに書いたことに当てはまらない作者様もたくさんいると思う。
短編を書くことが楽しい方。
執筆時間を取れる方。
評価がなくても書き続けられる芸術家肌の方。
このエッセイがそういう方々への「ひがみ」ではない、ということだけは言い訳めいているがここに記しておきたい。
要するに、ただの愚痴である。
執筆時間が少なく、短編を書く気が起こらず、人から感想をもらえないとモチベを維持できない……
つまり長編を書くのに「向いていない」筆者が、それでも、だとしても、俺が書きたいのは長編なのだ、筆を折ってたまるか、と自分を奮起させるために吐き出したゲロである。
「完結しました」。
そう宣言できる日を目指して。