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教授と人魚

作者: 田崎毛々(けも)

教授と人魚


 私には、教授、と呼ぶ友人がいる。

 若くして有名私立大学の教授にまで上り詰めたその男は、五十もそこそこであっさりとその地位を捨てた。

 その教授から、つい先日、葉書が届いた。

『買った家がようやく落ち着いた。遊びにこないか。君に見せたいものがある』

 たったそれだけの文章しか書かれていない一葉の紙切れ。

 それによって私は、この夏、暑い盛りを、わざわざ赤道近くまで出かけていくこととなった。

 私と教授は、そんな感じの付き合いだった。




一、教授とエルフ

『やあ、よく来たね。

 遠いところをわざわざ、大変だったろう?

日本は相変わらず今年も蒸し暑いんだろうね。

こっちの方がずっとも過ごしやすいだろう? 緯度は低いけれどね。

 おや、どうしたんだい、そんな難しい顔をして。

 こんな所まで呼びつけたからと言って、怒るような君じゃあないだろう?

 今、メアリにお茶の仕度をさせているから……君の好みは、確かキーマンだったかな。彼女の拵えるナスのタルトは絶品だよ。君の好物だろう?

 ああ、メアリはこっちに来てから雇った女給でね、少しなら言葉も分かるし、また料理の腕も中々のものでね……なに、歯痛?

 おやしらずが痛い。それでさっきからそんな顔をしていたのか。

 そういえば君は調度そんな年頃だったか。

 おやしらずとはまた、君も調度いいときに調度いいものを患っているものだ。おっと、何も君の不運を喜んでいるわけじゃあない。

 ん? どこへ行こうというんだい?

 薬屋? 痛み止め?

 それは賢明な判断とは言いかねるね。この辺りで売っている薬は、とてもじゃないが安心して口にできる代物じゃあないよ。後で、私用の薬を分けてあげよう。

 おやしらず、なんてものは生えたら最後、抜くしか芸のない困り者だからね。生えてこないにこしたことはない。

 最近では、おやしらずが生えてこない若い人が増えているそうだ。私は非常にそのことを喜んでいるんだよ。

 おやメアリ、ご苦労様。君の淹れる紅茶はいつも絶品だ。

 そうそう、いつも通り、私のカップには砂糖を三つと、こちらのお客には……そう睨まないでくれたまえ。歯痛だからといって、紅茶に砂糖を入れちゃならん、という法はないだろう?

 メアリ、悪いんだがね、こちらのお客には堪え性がなくてね、痛み止めの薬を切望されているんだ。二階の引き出しから、ちょっと持ってきてはくれないかな?

 そう、私の書斎の机の引き出しの、下から二番目に入っていると思うよ。そこになければ、薬箱の中にも、二・三錠残っていたかも知れない。頼むよ。

 さて、何の話をしていたんだったか。

 そうそう、おやしらず。

 君なら聞いたことがあるだろうが、動物というものはね、アゴが退化したものほど賢いんだよ。

 例えばワニがいるだろう? 彼らは非常に発達したアゴを持っているね。それは彼らの最たる特徴であり、進化の長所でもある。

 けれど、彼らはそのために多くのものを犠牲にしている。発達しすぎたアゴは、それを支えるための膨大かつ強力な筋肉を必要とするんだ。彼らの頭は、その大半がアゴを支えるための筋肉によって占められることとなった。

 彼らの脳は頭蓋の端へと押し込められて、さらなる進化を望むべくもない。

 彼らは彼らが普段捕食しているどんな生物より、ずっとも小さな脳しか持ち得ないんだ。

 同じことが、ヒトにも言える。

 サルからヒトに近づくに連れ、私たちのご先祖様方のアゴは退化し、それに比例してアゴを支える筋肉の量も減り、その空いた空間を埋めるように、大脳はより大きく、複雑に進化していったわけだ。

 どうしたね? そんな顔をして。さほど難しい話でもないだろう?

 ああ、そうだったね。おやしらず。

 そういえば遅いね、メアリは。いったい何に手間取っているのか。ん? 痛み止めの薬は、寝室の棚のワイングラスとブランデーの間だっただろうか?

 まあ、ともかく、もう君には、なぜ私がおやしらずの話題を喜んだか分かっている、と思うけれど、おやしらずの生えてこない人間が増えているということは、つまり、ヒトのアゴがさらに退化してきている、逆を言えば、ヒトの大脳はさらに進化する可能性を持っている、ということなんだよ。

 ヒトは種として進化の限界にたどり着いた、最早これ以上の進化は望むべくもない、なんてことが言われて久しいけれど、私の説が正しければ、ヒトという種の未来は、まだ閉ざされてなどいなかった、ということだよ。

 これを喜ばずして、いったい何を喜ぶというんだね?

 君が今味わっている痛みは、私がついぞ味わうことのなかった、進化と退化との間のせめぎあいだ。心して味わいたまえ。

 何を不服げな顔をしているのかね。

 何も、君におやしらずが生えて私にないからと言って、君のほうが脳が軽いとか、サルに近い、とか言っているわけではないよ?

 おや、メアリ。遅かったね。

 痛み止めは……なに、私の寝台の下に落ちていた? そんなところまで移動しているとは、これまた実に不可解な現象だねぇ。

 ああ、タルトも焼きあがったんだね。これは美味しそうだ。

 ここはもういいから、君は下がって通常の業務に励んでくれたまえ。

 ほら、君のご要望のものだよ。

 私としては、もっと君にその痛みを堪能してもらいたいところなんだが、どうやら君はその歯のせいで、私の話を落ち着いて聞くどころではなさそうだからねぇ。仕方ないかな。

 そう、先ほどヒトの進化はまだ終わっていない、と言ったが、このままヒトが進化し続けたら、どんな姿になると思うね?

 まず、アゴが退化して細くなり、それに比例して脳の容量は増えていく。それに伴って文明は進み、筋肉を使うことも少なくなって、手足は細く、体は華奢になっていく。そうすると、男女の外見的な差は少なくなって、全体的に中性的になっていくだろう。一方で外部からの刺激は増え、肥大した脳の容量に伴って、刺激を取り入れるための器官は発達していく。まあ、目や耳が大きくなっていくんじゃないかな。

 そう、君のよく知っているものに例えると……

 メアリ、どうしたんだい?

 それはまだ復元作業の途中なんだ。貴重な標本だからね、君一人で動かして、万が一のことがあっては困る。後で私も手伝うから、その場に置いておいてくれたまえ。

 何を妙な顔をしているのかね。

 今、メアリに新しく手に入れた標本の整理を手伝ってもらっていてね、忙しないのは許してくれたまえよ。

 あれはつい先ごろポリネシアで見つけた化石でね、骨格から生存時の姿を復元している途中なんだよ。学会で発表するつもりはないが、まあ、あれを発見したのは、私が初めてなんじゃあないかね。

 君は、超古代文明、というものを信じるかい?

 私もつい最近まで信じてはいなかったんだがね、あの化石を発見してから、少々見解が変わってきてね。

 私が今まで話してきた仮説に、恐ろしく合致する骨格だと思わないかい?

 各地の伝承にも残っているね。

 ヒトには昔、現在の人類よりも遥かに進化した骨格を持つ種が存在していた。

今現在の我々の中に、その高度な血は受け継がれていないけれどね』


「エルフ……」

 私は、呆然とその復元途中の骨格と、教授の顔とを見比べた。


 ハイ・エイシャント・エルフ、とでも言ったかね……

 私たちの種も進化していけばあんな風になるのかも知れない。そうすると、何かね、私たちの種も、やはりそこで滅びるように、なっているのかも知れないねぇ?




二、教授と人魚

そうそう、君を呼んだのはこんな話のためじゃあない。

 この家にはね、ちょっと大きめの室内プールがあってね。それが気に入って買ったんだが、君にそれを見せたくてね。

 君は以前、未だ発見されていない、ヒトの進化途中の化石について一家言あると言っていたね。

 ん? メアリ、お客さんのカップがひび割れそうだ。もう一杯、おいしいお茶を淹れてやってくれたまえ。私の淹れたお茶は、とても飲めた代物じゃあないからねぇ。

 今度はアッサムにしてみようか。君はコーヒーの方がいいんだろうが、私はどうもあの香りが苦手でね。どうしても、というなら豆もないことはないが、ずいぶん古い上に、キリマンジェロ一種しか置いていないよ。

 君の好みはトラジャだったかマハラジャだったか。

 ああ、メアリ、ありがとう。いい香りだ。君の淹れる紅茶は格別だよ。

 どうしたね? 君はアッサムも嫌いじゃあなかっただろう?

 紅茶の豊かな香りに身を任せ、遥かなる古代の風に思いを馳せる。これぞ私と君との共通の楽しみではなかったかね?

 そう、古代。君は、なぎさ原人、というものを知っていたかな。

 ダーウィン以来、サルからヒトへの進化は疑いようのない事実として人の脳髄に刻み込まれてはいるが、その途中過程を裏付ける資料は、不自然といっていいほど些少しか発見されてはいない。

 それより一億年も昔の生物の化石は、これほどまで多く発見されているというのに、だ。我々の祖先は、それほどに少なく、また、特殊な場所で生活していたのだろうか。

 その答えとなるのが、なぎさ原人の説だ。

 どうしたね、さっきかに何をそんなにキョロキョロと……

 手洗いなら、君から見て右手のドアを開けて左だ。

 腹具合でも芳しくないのかね? この国の水は、日本人には毒も同じだ。

 聞こえているかい?

 まあ、君は疾うにこんなことは知っているだろうから、聞こえてなくとも構いはしないがね。

 今学会で主流となっている人類進化の説というのは、元々アフリカの豊かな森林に暮らしていたご先祖様方は、アフリカ東部の大地の隆起により東西に分断され、その内東に逃れたご先祖様は、東端の食料の乏しい草原で暮らさねばならなくなってしまった。その環境を生き抜くため、後ろ足で立ち上がり、手を用い火を生み出すに至った、というものなんだがね。

 もろちん、他にも説はある。

 そのひとつが、ヒトの父祖は、草原の外的から逃れるため、その敵の恐れる海へと入り、そこで生活していた、という……それが、今言ったところの、なぎさ原人だよ。

 水中に入り、呼吸をしようと思えば、自然背筋は伸び、二足歩行に近い格好になってくる。重力の影響が少ないから、水中で立ち上がるほうが、陸上で立ち上がったと考えるより進化の都合上無理がない。海水で溺れさせないよう子どもを育て、食料を確保し、慣れない環境で生き抜くために、陸の時より多く手も用いたかも知れない。

 暖かい水中で生活すれば、当然体毛は薄くなり、呼吸のため首から上を水上に出していれば、頭髪はなくならない。ヒトの鼻の下の筋は、上唇をめくり上げるとぴったりと鼻の形に合わさって、鼻の穴を塞ぎ、それをもって水中で生活していた頃の名残だ、という学者もいる。ヒトの指のまたにある水かきも、水中生活の名残で、その頃はもっと発達していた、という説もある。

 それに何より、ヒトが進化の途中、海の中で生活していたとすれば、その進化過程の化石や痕跡が発見されない、ということにも納得がいく……

 おや、おかえり。顔色が悪いね。

 メアリ、お客さんに胃腸薬を。今度こそ、書斎の机の上から一段目に入っていると思うよ。

 歯痛のときは、それどころじゃあなかったんだろうねぇ。

 その様子じゃあ、今日一緒にプールで泳ぐのは無理のようだね。

 ん? 私とではないよ。私はカナヅチだからね。私の友人とだよ。

 そうそう、一般の説では、その後なぎさ原人は何かのきっかけで陸に上がり、火を使うことを覚えるわけだが、私の考えは少し違う。

 なぜ彼らは、天敵のいない安全な海を捨て、陸に上がることを選ばなければならなかったのだろう?

 食料不足? 急激な寒波? それとも、安全なはずのなぎさにも、何か天敵が現れたのだろうか?

 そうだとしても、彼らは本当に、その全員が陸へと上がってしまったのだろうか?

 一人も残さず?

 ところで君は、八百比丘尼というものを知っているかね?

 知らない? まあ、君は理系だからねぇ、仕方がない。

 ともかく、世界各地には、海の中に生きる、ヒトとよく似た生き物の伝承が残っている。

 ジュゴン?

 けれど、そういった伝承の残る地全てが、過去ジュゴンが生息できるような環境であったとは、とても思えない。

 考えてみたまえ。ヒトの父祖の数人が、もし多くの仲間と異なり、陸ではなく、より深い海の底で生きることを選んだら? もし、大地を駆ける脚よりも、水を蹴るヒレを選んだなら?

 彼らは今、いったいどんな姿をもって、この世に生きているだろう。

 君が今まで知らなかったからといって、今後も発見されないとは限らないよ。

 シーラカンスだって、つい最近までは古代に絶滅したと思われていた。

 わくわくしないかい?

 この目の前に広がる海の中に、私たちとごく近い父祖を持つ、美しい生き物が存在しているかも知れない。彼らは、私たちとはまったく異なった文明を、海の奥底に築いているかも知れないんだよ。

 こんなこと、学会ではとても発表できないけれどね。

 ああ、メアリ。ご苦労様。

 随分顔色は戻ったけれど、念のため飲んでおいたほうがいいだろう。

 今度は一階の台所のスパイス棚に入っていた? まったくこの家は、物が勝手に移動していかんな。

 そう、メアリ。今、彼に我々の友人の話をしようとしていたんだ。

 この窓から眺める大海原も魅力的だが、次のお茶は、プールサイドに運んでくれないか。そちらに彼女も招待してあるから。

 さあ、場所を移そうじゃないか。

 君に紹介したいヒトがいるんだよ……』


 パシャン、と奥の方から、何かが跳ねるような水音がした。

「魚ですか? 随分と大きな……」

 教授は珍しく、黙って笑った。


『ねえ、もし、私が言ったような、人類の兄弟が存在したなら……

どんな姿を持っていると、君は思うだろうか。

 哺乳類だから、魚のような鱗はないだろう。江戸の昔、見世物にあったミイラのように、サルの上半身に鮭の下半身、なんていう無粋な代物ではなくて、イルカかアシカのような下半身に、道具を使うためのヒトに良く似た上半身を持って、それでも指の間には、発達した水かきがあるかも知れない。

 泳ぐことの機能性を考えるなら、外部の凹凸は少なくなって、ヒトから見てグラマーな個体はないだろう。長い頭髪を持つ個体もありえない。

 さあ、もうすぐ彼女が見えるだろう。

 私とメアリの共通の友人でね。

 まだ、言葉こそ完璧に通じないが、それもいつかは叶わない夢ではないだろう。

 紹介しよう。彼女が……

 ねえ、もし、私が言ったような、人類の兄弟が存在したなら……

 それはきっと、彼女のような姿をしているとは、思わないかい?』

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― 新着の感想 ―
[良い点] 悪くは無い。(個人的には結構好きな雰囲気満載。) [気になる点] 若干、教授の『語り』がウザくw成りました(苦笑) 途中でちょっと眠く成りましたw 主人公の性別が気になりました。(後年齢と…
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